終わりのない食卓

 私がその違和感に気づいたのは、朝のトーストを焼いているときだった。パンの表面に浮き上がった焦げ目が、どう見ても人の指紋のように見えた。私はそれを少しだけ気味が悪いと思ったけれど、お腹が空いていたので、たっぷりのマーガリンでその模様を塗り潰して食べてしまった。口の中に残ったのは、小麦の香ばしさではなく、誰かの体温のような、ぬるい脂の味だった。


 窓の外を見ると、世界はしんしんと「緑色」に染まり始めていた。雪が降っているわけではない。ただ、空気が密度を増し、細かなパセリの粉末のようなものが、街のすべてをコーティングしていくのだ。


 私は家を出て、いつものように駅へ向かった。歩道ですれ違う人々は、誰も傘を差していない。それどころか、皆がその粉を吸い込むことを楽しんでいるように見えた。隣を歩いていた、いつもは几帳面そうなスーツ姿の男性が、立ち止まって電柱を愛おしそうに撫でている。電柱には、銀色のガムテープが幾重にも巻き付けられていて、その隙間からは、瑞々しい、今にもはち切れそうな緑の茎が噴き出していた。


「見てください。ようやく、ここにも血が通い始めたんですよ」


 男性が私に声をかけてきた。彼の目は、白目の部分までが淡いパセリ色に染まっている。私は適当に頷いて、歩く速度を上げた。けれど、どこまで行っても景色は同じだった。


 コンビニの自動ドアは、粘着液で固まって開かなくなっていた。店内の棚には、おにぎりやパンの代わりに、銀色のテープで丸められた「何か」が整然と並べられている。店員はレジ台の上に座り込み、自分の腕にできた小さな穴に、ストローを差し込んで何かを飲んでいた。


 駅に着くと、改札口はさらに凄惨なことになっていた。改札機の一台一台が、巨大な植物の根のようなものに覆われている。人々は混乱する様子もなく、静かに列を作り、自分の指先をその根に差し込んでいた。それが「切符」の代わりであるかのように。


「あなたも、早くしないと硬くなってしまいますよ」


 背後から声をかけられ、振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。以前、三〇二号室の前に立っていた清掃員の田所さんだ。でも、彼女の顔にはもう、半分以上の皮膚がない。代わりに、銀色のテープが筋肉の繊維に沿って美しく張り巡らされ、その上を小さな虫のようなパセリの芽が這い回っている。


「田所さん……それ、痛くないんですか?」私が震える声で尋ねると、彼女は聖母のような微笑みを浮かべた。 「痛い? いいえ、あゆみさん。これは、ほどけているのよ。自分というきつい服を、一枚ずつ脱いでいるだけ」


 彼女は私の手を取り、自分の胸元に導いた。そこには、かつて彼女が大切に持っていたはずのハサミが、彼女の肋骨と一体化するように埋め込まれていた。「さあ、あゆみさんも。あなたの『中身』を、みんなに分けてあげて」


 彼女がハサミの柄を動かすと、私の指先に鋭い痛みが走った。でも、不思議なことに、流れてきたのは赤い血ではなかった。それは、三〇二号室で「お母さん」が作っていた、あの温かいスープと同じ匂いのする、透明な液体だった。


 私はその液体を、自分の舌で舐めてみた。あんなに怖かったはずなのに、その味は驚くほど懐かしく、甘い。私は気づいた。私はずっと、この味を知っていたのだ。  子供の頃に隠れて食べた泥の味、誰にも言えなかった秘密の味、そして、独りぼっちで洗っていた皿に残されていた、あのパセリの味。


 周囲の人々が、私を囲むように集まってきた。皆が銀色のテープを手に持ち、私の体に触れようとする。「お揃いになりましょう」「一つになりましょう」


 私はもう、逃げるのをやめた。ホームに入ってきた電車は、もはや鉄の塊ではなく、巨大なパセリの蔓で作られたトンネルのようだった。私は田所さんの手に導かれ、その緑の空洞の中へと足を踏み入れた。


 電車の中には、無数の人々が座っていた。いや、「座っていた」のではない。彼らは皆、一つの巨大な、銀色のカーペットのように繋がって、床一面を覆い尽くしていた。私はその上に身を投げ出した。ガムテープの粘着面が私の背中に吸い付き、私を世界から切り離し、同時に世界そのものへと繋ぎ止めていく。


 ふと、窓ガラスに映った自分の姿が見えた。私の鼻の先から、小さな、小さな緑の芽が出ていた。それはとても可愛らしく、私はそれを指先で優しく撫でた。


「綺麗ね」


 私がそう呟くと、車両全体が「ククッ」という大きな、地鳴りのような鳴き声で応えた。電車は、どこへ向かうとも知れず、ただ深く、温かい、銀色の夜の中を走り続けていく。

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パセリ 虚村空太郎 @Kutaro_Kyomura

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