パセリ

虚村空太郎

皿洗いの指先

 私がそのレストランで働き始めたのは、ただ「家から一番近かったから」という理由だけだったけれど、店長はそれを「運命的な出会いですね」と言って笑った。店長はいつも、物事を大袈裟に捉える癖があるようだった。


 私の担当は皿洗いだった。裏方の、さらに隅っこにあるステンレスのシンクが私の居場所だ。ホールから運ばれてくる食べ残しのついた皿を、スポンジで撫で、お湯で流す。ただそれだけの作業が、私にはとても合っていた。


 一ヶ月が過ぎた頃、私はあることに気がついた。お客さんが残す「パセリ」の形が、一人ひとり全く違うのだ。


 ある人のパセリは、フォークで何度も刺されたあとのように、無惨にひしゃげている。またある人のパセリは、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、ソースの海の隅っこで凛と立っている。私は次第に、洗う前の皿に残されたパセリを、指先でそっと撫でるようになった。


「美香さん、手、荒れてない?」


 休憩中、バイト仲間の理恵ちゃんが私の手を見て言った。「パセリの汁がつくと、なんだか肌が引き締まる気がするの」私が正直に答えると、理恵ちゃんは少しだけ口を尖らせて、「へえ、オーガニック的なやつ?」と言って、それ以上は聞いてこなかった。


 それから私は、仕事が終わると、こっそりポケットに忍ばせた「一番形のいいパセリ」を家に持ち帰るようになった。アパートの洗面台に並べたパセリたちは、翌朝には少しだけしおれているけれど、水をかけるとまた誇らしげに縮れを復活させる。私はそれらを、古いジャムの瓶に詰めて窓際に並べた。


 ある日、店長に呼び出された。「美香さん。君、皿を洗う前に、何か……おまじないでもしてる?」


 店長は困ったような、あるいは少し怯えたような顔をしていた。「防犯カメラを見たんだけど。君、パセリを指でなぞって、それから……。あ、いや、別に責めてるわけじゃないんだ。ただ、他のみんなが少し、気味悪がっててね」


 私は、自分がパセリを撫でている時間が、カメラに映るほど長かったことに驚いた。自分では、ほんの一瞬、挨拶をしているだけのつもりだったのだ。


「すみません。パセリが、あまりに綺麗だったので」私がそう言うと、店長は「綺麗……パセリが?」と、見たこともない虫を飲み込んだような顔をした。


 その日の帰りに、私はバイトを辞めた。店長は引き止めなかったし、私も特に未練はなかった。


 帰り道、スーパーに寄って、野菜売り場の一角にあるパセリの束を見た。袋に閉じ込められたパセリたちは、どれも同じような顔をしていて、ちっとも面白くなかった。レストランの皿の上で、誰かの食べ残しと一緒に、冷めたソースに浸かっていたあのパセリたちの方が、ずっと生き生きとしていた。


 家に着くと、窓際のジャム瓶の中のパセリたちは、真っ黒に枯れていた。私はそれを一つずつ指先で潰してみた。カサカサと乾いた音がして、緑色の粉が指先にこびりついた。その粉を、私は自分の頬に丁寧に塗り込んだ。


 鏡を見ると、私の顔は少しだけ、パセリの森のように見えた。

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