マリトッツォに呼ばれて
はっち
マリトッツォに呼ばれて。
あれは、何かの記事か、あるいは動画のCMだったかもしれない。
丸いドーム状のシュークリームみたいなパンに、これでもかとホイップクリームをねじ込んだようなお菓子──妻が言うには、マリトッツォというらしい──に惹かれた私は、記憶を頼りに、とある地下鉄の駅へと来ていた。
はっきりと覚えているわけではなかったが、記憶に映っていたのは、特徴的な赤い車両と、地下でありながら地上が見える地下鉄駅といえばここしか思い浮かばなかった。
私は、掲示板に一つだけポツンと置かれていた冊子を取った。
構内案内図だと思って取ってみたのだが、実際には校内案内図だった。
──聞いた事もない学園の案内パンフレットだった。
駅のホームでそれを見ていると、横から視線を感じた。
目をやると、すぐそばで深緑色のセーラーカラーと真っ白なブラウスの美しい女子生徒が私を見上げていた。
目が合ってしまった──
すぐに
目を逸らそうと思ったのだが、彼女は無言で真っ直ぐに私を見上げているものだから、視線を外そうとしても完全に捉えられてしまって外そうにも外せない。
何秒見つめ合ったのだろうか。
彼女は一切目を逸らすことなく、まだ私を見続けている。
少しだけ、今年三歳になる娘の眼差しと重なった気がした。
とはいえ、こんなおじさんと見つめ合ってるなど、私に取っては誤解の種になりかねないし、何より彼女にとってもいいことではないだろう。
「すみません……」
どうにか言葉を捻り出した時、それを予期したかのように、彼女は驚くべき行動に出た。
ただ無言で、するりと滑り込むように私の腰に手を回し、抱きしめてきたのだ。
ふわり、とシャンプーの香りが私の鼻先を包み込む。
「えっ?」
突然のことに動転する。
見つめ合っただけでも大分ギルティであるのに、彼女の方から抱きついてきたにせよ、女子高生と密着しているこの状況は、例え彼女の方から抱きついてきたと言い訳をしたとしても、もはや私はギルティでしかない大罪人として裁かれるのは日を見るより明らかである。
しかも、だ、ここで無理に引き剥がそうと彼女に触れればそれもまたギルティであるし、とはいえ今の状況はすでにスーパーギルティ状態であるからして──
そんなことを考えているうちに、彼女は一度きゅっと力強く私を抱きしめて、最初にそうしたときと同じようにするりと私から離れた。
一切表情を変えずに、また私を見上げてくる。
刹那、微かに微笑んで、軽やかな足取りで駆けて行ってしまった。
一体何だったのだろうか……
周りにいた人々もまるで何事もなかったように行き交っている。
私を糾弾しようとするような動きは一切見当たらなかった。
白昼夢でも見たのだろうか。
しかし、彼女が抱きしめてきた柔らかさと香りは確かに彼女の存在を感じさせていた。
*
それから、駅構内をうろついてみたが、マリトッツォの店の手がかりは一切なかった。
途方に暮れた私は、キオスクで飲み物を購入し、横のベンチでそれを飲みながら、例のパンフレットを眺めていた。
また視線を感じた。
いつのまにか、隣には、あの彼女が座っていた。
私が彼女に気づいたと同時に、彼女はまた微笑んで肩越しにパンフレットを見始めた。
またかなりの密着度合いである。
先ほどよりはギルティ感はないものの、それでも大分、なしよりのなしである。
ただ、さっきと違って動転もしなかったし、むしろ、なんだか娘と一緒に本を読んでいるような、そんなあたたかい気持ちが湧いてきていることに気づいた。
だが、私はふと気づく。
彼女の斜め向かいに、一人の男子生徒が立ち、彼女のことをじっと見つめていた。
その眼差しは五歳になる息子を思い起こさせるが、それにしてもかなりのイケメンくんである。
だが、そんなことを思っている場合ではない。
これはまずい──
通報まで残された時間はわずかであろう。
今すぐイケメンくんが携帯を取り出し、警察に電話をする。
私の人生はジ・エンドである。
しかし、彼女を振り解く方法もわからない。
ここで無理に引き剥がそうものならそれもまたギルティ。
完全に私は嵌められた──
そう思ったのだが、彼は私などいなかったかのように、ただ彼女だけを見つめている。
一体何が起こっているのだろう。
彼女はやがて身体を離すと、最後にパンフレットの下を指さして、何も言わずに立ち上がる。
そうして風のように走り去って行った。
いつのまにか、イケメンくんの姿もなかった。
彼女が指さしたパンフレットの部分には、マリトッツォの写真が載っていた──
マリトッツォに呼ばれて はっち @yaesaka3248
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