誰も知らない「僕」

さくや子

誰も知らない「僕」

電車の揺れに合わせて、知らない夜が胸の奥に触れた。

隣に座った男の記憶だ。あの日、殴り返せなかった瞬間。

拳を握ったまま、何もできなかった夜。

こういうことは珍しくない。

誰にも話さなかった記憶だけが、理由もなく見える。幻視とも映像とも違う。ただ、他人のものだと分かる記憶としてある。

男は次の駅で降りた。

ドアが閉まっても、その夜だけが残った。振り払おうとしても、どこにも行かない。忘れたふりをしても、底に沈んだまま動かない。

昔は、気味が悪くて嫌で仕方なかった。

今はそうでもない。見えるものが消えないことにももう慣れた。

車内アナウンスが、次の駅名を告げる。

毎日聞いているはずなのに、なぜだか遠い名前に感じた。どうしてそう思ったのかは分からない。

記憶はある。感情もある。ただ、「自分」というものだけが曖昧だった。

窓に映った自分の顔を見て、視線を逸らす。

何かを思ったはずなのに、確かめたいことがあったはずなのにそれが何だったのか、思い出せないモヤっとした感覚だけがある。

次の日もまた同じような記憶を見る。

朝の交差点で立ち尽くした女の後悔、コンビニのレジで言いそびれた言葉。どれも短く一瞬だが、消えない。消えるわけがない。

見えるものに意味も秩序もない。

近くにいる人のものだったり、そうでなかったりする。条件は分からないし、探して見えるものでもなかった。

二十数年生きて、ただ、ひとつだけ気づいたことがある。

見えた記憶はどれも、少しだけ居心地が悪かった。

ある夜、部屋で書類に目を通していて、ふと手が止まった。

氏名を書く欄が空いている。ペンを取ったのに、すぐには書けなかった。

理由は思い当たらない。疲れているだけだと思った。

そのまま放っておくと、視線が文字からずれて、壁をぼんやり眺める。

そこに、知らない子どもの景色が浮かんだ。

夕暮れ。公園のブランコ。誰かに名前を呼ばれた気がした。

嬉しくなって振り向こうとしても、体が動かなかった。

最初からそこに自分はいなかったみたいに。

翌日、その記憶のことは思い出せなかった。

けれど、どこかいつもと違う。

見えない場所に置かれたまま、静かに残っている気がした。

雨の中。駅前で前を歩いていた女の記憶が、いつもと同じように、ふいに触れてきた。

病室の白い天井。女はベッドの傍らで、横たわる誰かに縋り付いていた。ごめんなさい、私のせいで、ごめんなさい、と。けれど言葉は途中で途切れ、代わりに名前が呼ばれる。

その瞬間、記憶の中に、こちらを向く自分がいた。

驚いた顔でも、困った顔でもない。

ただ、そこにいるだけの姿だった。

女の視線は僕ではない僕を捉えていて「僕」に気づかない。近くにいるのに、その名前だけが、どうしても聞こえなかった。

記憶は途切れ、ハッとする。

雨音と雑踏の駅前が戻ってくる。

舌打ちをされ、すみませんと小さく謝る。

胸の奥が、静かに冷えていく。

確認したいことは、もう分かっている気がした。

後日、手続きをするために立ち寄った窓口で、書類を渡された。

氏名欄は空白のままだ。ペンを持ち、紙を見つめる。

不思議と、焦りはなかった。

思い出せないのではない。

最初から、探す場所が違っていたのだと、ようやく分かっただけだ。

紙の上には何も書かれないまま、時間だけが過ぎていく。

そのあいだにも、誰かの知らない記憶が、静かに胸の奥に積もっていった。

それなら、きっと、これでいい。

誰にも知られていない記憶だけが、確かにここにある。

たとえ、世界に僕が居なくとも「僕」は覚えている。

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誰も知らない「僕」 さくや子 @hyouga-tsurara

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