深淵の狩人たち ―Abyss Hunters―
家守 廃人
第1話
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋を満たしていた。
目覚まし時計のアラームが鳴り響く。六時三十分。いつもと変わらない朝だった――はずだった。
「ん……」
桐谷結衣(きりたに ゆい)は、重い瞼を開けた。視界がぼやけている。眼鏡をかけていないせいだ。ベッドサイドに手を伸ばし、黒縁の眼鏡を探る。
指先が、眼鏡のフレームに触れた瞬間。
『覚醒完了――スキルウィンドウを展開します』
機械的な女性の声が、脳内に直接響いた。
「……え?」
結衣は跳ね起きた。心臓が激しく脈打つ。部屋を見回す。誰もいない。六畳一間の狭いワンルーム。いつもの部屋だ。
だが、視界の端に――何かが見える。
半透明の、青白く光る文字列。まるでゲームの画面のように、視界に重なって表示されている。
【ステータス】
名前:桐谷結衣
レベル:1
職業:未選択
HP:100/100
MP:150/150
STR(筋力):8
VIT(体力):10
AGI(敏捷):12
INT(知力):18
DEX(器用):14
LUK(幸運):7
スキル:
・鑑定 Lv.1
・魔力感知 Lv.1
「なに、これ……」
結衣は呆然と、視界に浮かぶウィンドウを見つめた。瞬きをしても消えない。目をこすっても変わらない。
『本日午前九時より、東京都内に初級ダンジョンが出現します。覚醒者の皆様は、最寄りのダンジョンゲートへお集まりください』
再び、声が響く。
結衣の手が震えた。これは夢じゃない。現実に起きている何かだ。
スマートフォンを掴み、画面を点灯させる。SNSが大騒ぎになっていた。
『突然変な声が聞こえた』
『ステータス画面が見える』
『俺も覚醒した!』
『ダンジョンって何?』
ニュース速報も流れている。
『【速報】世界同時多発的に「ダンジョン」と呼ばれる異空間が出現。政府は冷静な対応を呼びかけ』
結衣は深く息を吸った。吐いた。もう一度吸って、吐いた。
落ち着け。落ち着くんだ、結衣。
彼女は几帳面な性格だった。高校三年生。成績は学年でも上位。冷静に物事を分析し、論理的に考えることが得意だった。
だが、これは――論理の外側にある。
「とりあえず、学校に連絡しないと……」
震える指で、学校の連絡網を確認する。すでに臨時休校の通知が来ていた。当然だろう。こんな状況で授業ができるはずがない。
着替えをしながら、結衣は考えた。
ダンジョン。スキル。レベル。
まるでゲームのような世界に、現実が変わってしまった。
なぜ? どうして? 誰が?
答えは出ない。
でも――結衣の胸の奥に、小さな、とても小さな高揚感があった。
退屈な日常が、変わってしまった。
このまま大学に行って、就職して、平凡な人生を送る未来が――崩れ去った。
「怖いけど……でも」
鏡に映る自分を見つめる。肩まで伸びた黒髪。大きすぎる黒縁眼鏡の奥の、茶色い瞳。細い体つき。華奢な肩。
平凡な、どこにでもいる女子高生。
でも、今日から違う。
「私も、覚醒者なんだ」
結衣がアパートを出たのは、午前八時だった。
街は混乱していた。
道路には車が溢れ、クラクションが鳴り響いている。歩道には人が溢れ、皆がスマートフォンを手に、困惑した表情で何かを確認している。
『最寄りのダンジョンゲートへ』
あの声は、そう言っていた。
結衣は歩きながら、スキルウィンドウを眺めた。意識を集中すると、開いたり閉じたりできることが分かった。
「鑑定、と魔力感知……」
試しに、道端の自動販売機に意識を集中してみる。
『鑑定:自動販売機――飲料水を販売する機械。特に特殊な要素なし』
本当に鑑定できた。
次は魔力感知。目を閉じて、周囲に意識を広げる。
すると――感じた。
微かに、とても微かに。空気の中に漂う、不思議な力。これが魔力なのだろうか。
そして、一際強い魔力の反応が、ある方向から感じられた。
「あっちに、何かある……」
足が自然と、そちらに向かう。
住宅街を抜け、大通りに出る。そこには、すでに人だかりができていた。
数百人はいるだろうか。警察官が規制線を張り、人々を誘導している。
そして――
「あれが……」
結衣は息を呑んだ。
空間に、巨大な亀裂があった。
いや、亀裂というより、穴だ。縦三メートル、横二メートルほどの楕円形の穴が、空中に浮かんでいる。
穴の中は真っ暗で、何も見えない。
だが、そこから感じる魔力は圧倒的だった。まるで深淵に引き込まれそうな、恐ろしくも魅力的な感覚。
『ダンジョンゲート――階層:初級――推奨レベル:1~5』
視界にウィンドウが表示された。
「初級……私でも入れるってこと?」
「おい、入るのか? 入らないのか?」
背後から、男の声がした。
振り返ると、体格の良い中年男性が立っていた。作業着を着ている。建設関係の人だろうか。
「俺は入る。こんなチャンス、二度と来ないからな」
男は不敵に笑って、ゲートへと歩いていった。警察官が止めようとしたが、男は無視して穴の中へ飛び込んだ。
一瞬、男の姿が歪み――消えた。
「マジで入っちゃった……」
周囲がざわめく。
結衣は迷っていた。
入るべきか。入らざるべきか。
この穴の向こうに何があるのか。危険なのか。安全なのか。
『ダンジョンクリア報酬:経験値、金貨、アイテムドロップ』
視界に新しい情報が表示された。
報酬がある。つまり、クリアすることが前提の設計になっている。
「……行ってみよう」
結衣は決めた。
怖い。でも、このまま何もしないで後悔するのは嫌だ。
一歩、また一歩。ゲートに近づく。
警察官が「危ないから下がって!」と叫んでいるが、もう聞こえない。
結衣の意識は、目の前の穴だけに集中していた。
そして――
飛び込んだ。
浮遊感。
まるで水の中に潜ったような、奇妙な感覚。
視界が暗転し、次の瞬間――
どすん、と地面に足がついた。
「っ!」
結衣はバランスを崩しそうになったが、なんとか持ちこたえた。
周囲を見回す。
そこは――洞窟だった。
石造りの壁。天井。足元の地面も石畳になっている。松明が壁に設置されていて、辺りをぼんやりと照らしている。
まるで中世の城の地下のような雰囲気だ。
『ダンジョン侵入を確認――クリア条件:ボスモンスターの撃破――制限時間:なし』
またあの声が響いた。
「ボスモンスター……」
結衣は喉を鳴らした。モンスター。つまり、化け物がいる。
でも、武器は?
手元を確認すると――いつの間にか、右手に短剣が握られていた。
『初期装備:ショートダガー――攻撃力+5』
なるほど、自動的に装備されるのか。
そして、前方から――音が聞こえた。
かさ、かさ、かさ。
何かが這いずる音。
結衣は短剣を構えた。心臓が早鐘のように打つ。
影が、松明の光の中に現れた。
それは――巨大なネズミだった。
いや、ネズミというより、猫ほどの大きさがある。赤く光る目。鋭い牙。
『ジャイアントラット――レベル2――HP:50/50』
鑑定の結果が表示された。
「レベル2……私より強い!」
ラットが飛びかかってきた。
「きゃあっ!」
結衣は反射的に身を捩った。ラットの爪が、結衣の腕を掠めた。
「痛っ!」
『HP:95/100』
ダメージを受けた。たった5だが、痛みは本物だ。
これは、ゲームじゃない。
死ぬかもしれない。
恐怖が、結衣を支配しかけた。
でも――
「負けない!」
結衣は短剣を握り直し、ラットに向かって突き出した。
刃が、ラットの脇腹に突き刺さった。
キィィィ! とラットが悲鳴を上げた。
『ジャイアントラット:HP 30/50』
ダメージを与えた!
ラットが怯んだ隙に、もう一度。
今度は頭を狙って――
ざしゅ!
短剣が、ラットの頭蓋を貫いた。
ラットの体が、ぐらりと揺れて――倒れた。動かなくなった。
『ジャイアントラット撃破――経験値+20――レベルアップ!』
『レベル2になりました――全ステータス+2――スキルポイント+1獲得』
結衣は荒い息をついた。
殺した。
モンスターとはいえ、生き物を殺した。
吐き気がした。手が震えた。
でも――
「私、勝ったんだ」
小さな達成感があった。
恐怖を乗り越えて、戦って、勝った。
この感覚は、初めてだった。
「……先に進もう」
結衣は短剣を握り直し、洞窟の奥へと歩き始めた。
ダンジョンは思ったより広かった。
結衣は慎重に進んだ。角を曲がるたびに鑑定と魔力感知を使い、敵がいないか確認する。
これまでに、ジャイアントラットを三匹倒した。
レベルは3になった。
『HP:120/120――MP:170/170』
体力と魔力が増えている。実際、体が軽くなったような気がする。筋力も上がったからだろうか。
そして――
広い部屋に出た。
天井が高く、円形の空間。中央に、何かが蠢いている。
『ダンジョンボス:ラットキング――レベル5――HP:200/200』
ラットキング。
それは、巨大なネズミの塊だった。
五匹のジャイアントラットが、尻尾を絡め合って一つになっている。おぞましい姿だ。
「うっ……」
結衣は思わず後退りした。
レベル5。自分より二つ上。HPも200もある。
勝てるのか?
いや、勝たないと。ここで逃げたら、ダンジョンから出られない。
『クリア条件:ボスモンスターの撃破』
そう言っていた。
結衣は深呼吸をした。
落ち着け。冷静に。
ラットキングの動きを観察する。
五匹が絡まっているせいで、動きが遅い。でも、一斉に襲いかかってきたら厄介だ。
「……魔法は使えないのかな」
ステータスを見ると、INT(知力)が18もある。魔法使い向きのステータスだ。
でも、魔法のスキルがない。
「くそっ……」
選択肢は限られている。
接近戦で戦うしかない。
結衣は短剣を構え、ラットキングに向かって走った。
ラットキングが反応した。五つの頭が一斉に結衣を向く。
そして――
一匹が飛びかかってきた!
「っ!」
結衣は横に転がって回避した。床に肩を打ちつけ、痛みが走る。
でも構わず立ち上がり、反撃した。
短剣を振り上げ、ラットの首筋に叩き込む!
ざしゅっ!
『ラットキング:HP 180/200』
手応えがあった。
でも、残り四匹が反撃してくる!
爪が、結衣の脚を引っ掻いた。
「痛いっ!」
『HP:100/120』
ダメージが重い。
このままじゃ――
その時。
扉が開く音がした。
「そこ、危ない!」
少女の声。
誰か来た?
結衣が振り向くと――
金色の髪が、松明の光を反射してきらめいた。
背の高い、美しい少女が立っていた。
彼女は剣を抜き、ラットキングに向かって一直線に突進した。
「はああああっ!」
剣が、光を纏った。
一閃。
ラットキングの体が、真っ二つに斬り裂かれた。
『ラットキング撃破――経験値+100』
一瞬で倒された。
結衣は呆然と、その少女を見つめた。
金色の長い髪。碧眼。白い肌。まるで西洋の騎士のような凛々しい顔立ち。
「大丈夫? 怪我は?」
少女が近づいてきた。
結衣は思わず後退りした。
「だ、大丈夫、です……」
「そう。良かった」
少女は微笑んだ。
その笑顔は――
眩しかった。
まるで太陽のように。
「私、紫苑(しおん)。あなたは?」
「き、桐谷結衣です……」
「結衣。いい名前ね」
紫苑はそう言って、手を差し伸べた。
結衣は迷ったが――その手を取った。
温かかった。
「これから、一緒に戦いましょう。ダンジョンは、一人じゃ危険だから」
紫苑の言葉に、結衣は頷いた。
「は、はい……」
こうして――
結衣と紫苑の運命が、交差した。
ダンジョンの外に出ると、すでに日が傾いていた。
「もう夕方なんだ……」
結衣は空を見上げた。オレンジ色の光が、街を染めている。
ダンジョンの中では時間の感覚が曖昧だった。どれくらいいたんだろう。数時間? それとももっと?
「疲れたでしょう。どこかで休憩しましょうか」
紫苑が提案した。
結衣は頷いた。実際、体は限界に近かった。ラットキング戦の後も、いくつかモンスターと戦った。レベルは5まで上がったが、精神的な疲労が大きい。
二人は近くのファミリーレストランに入った。
客はまばらだった。皆、今日の出来事に戸惑っているのだろう。
窓際の席に座り、とりあえず水を頼む。
「ふう……」
結衣は深く息をついた。
改めて、隣に座る紫苑を見た。
彼女は本当に美しかった。金色の髪は腰まで伸びており、サラサラと流れている。碧眼は宝石のように澄んでいる。鼻筋が通り、唇は薄紅色。身長は170センチ近くあるだろうか。結衣より頭一つ高い。
そして――強かった。
あのラットキングを一撃で倒した。結衣が必死に戦っていたのに。
「あの、紫苑さん」
「紫苑でいいわ。敬語も要らない」
「え、でも……」
「私たち、これから一緒に戦うんでしょう? だったら、仲良くしたいの」
紫苑は微笑んだ。
結衣の頬が、少し熱くなった。
「じゃ、じゃあ、紫苑……さん」
「さんも要らない。紫苑、でいいから」
「……紫苑」
「うん、それでいい」
紫苑は満足そうに頷いた。
店員がメニューを持ってきた。二人は適当に料理を注文する。
待っている間、結衣は聞いた。
「紫苑は、どうしてあんなに強いの? レベルは?」
「レベル10よ」
「じゅ、十!?」
結衣は声を上げてしまった。周囲の客が一瞬こちらを見る。
「ご、ごめん。でも、どうやって?」
「今日、五つのダンジョンをクリアしたから」
「五つも……」
結衣は一つクリアするだけで精一杯だったのに。
「私、こういうの得意なのかも。戦うこと」
紫苑は少し寂しそうに笑った。
「小さい頃から、剣道やってたから。体を動かすのは好きだったんだ」
「剣道……道理で」
納得した。あの剣捌きは、訓練されたものだったんだ。
「でも、結衣も頑張ってたわよ。初めてなのに、ちゃんと戦ってた」
「いや、私なんて……ラットにすら苦戦してたし」
「最初はみんなそうよ。私だって、最初のラットには逃げ回ってた」
本当だろうか。この人が?
でも、紫苑の目は真剣だった。
「結衣は、INTが高いでしょう? 魔法使いタイプね」
「うん……でも、魔法のスキルがなくて」
「それなら、スキルブックを買えばいい」
「スキルブック?」
「ダンジョンでドロップするアイテムよ。それを使えば、新しいスキルを覚えられる。私も剣術のスキルブックを手に入れたの」
なるほど、そういう仕組みなのか。
「じゃあ、私も魔法のスキルブックを探さないと……」
「一緒に探しましょう。明日も、ダンジョンに行くでしょう?」
結衣は少し迷った。
また行くのか。あの恐ろしい場所に。
でも――
紫苑と一緒なら、行けるかもしれない。
「……うん。行く」
「良かった」
紫苑は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、結衣の胸が高鳴った。
どうして?
どうして、こんなに胸が騒ぐんだろう。
料理が運ばれてきた。二人は食事をしながら、他愛のない話をした。
学校のこと。好きな食べ物のこと。趣味のこと。
紫苑は結衣と同じ高校三年生だった。ただし、別の学校に通っている。
「じゃあ、これから毎日会えるね」
「そう、だね」
結衣は頬が緩むのを感じた。
こんな風に誰かと話すのは、久しぶりだった。
結衣は友達が少なかった。いや、正確には、いなかった。
勉強ばかりしていて、人付き合いが苦手で。クラスでも浮いた存在だった。
でも、紫苑は違った。
すんなりと、結衣の心に入ってきた。
「ねえ、結衣」
「ん?」
「明日から、組まない? パーティーを」
「パーティー?」
「そう。一緒にダンジョンを攻略するの。二人なら、もっと強くなれる」
結衣は紫苑の目を見た。
真っ直ぐな、強い意志のこもった瞳。
「……いいよ。組もう」
「ありがとう」
紫苑は結衣の手を握った。
「これから、よろしくね。パートナー」
「う、うん。よろしく……」
結衣の顔が真っ赤になった。
こんなに綺麗な人と、手を繋ぐなんて。
心臓が、バクバクと音を立てている。
これは――
もしかして――
結衣は首を振った。
違う。ただ緊張してるだけだ。
そう、ただの緊張。
でも、心の奥底で、小さな声が囁いていた。
『これは恋だよ』
結衣は、その声を必死に押し殺した。
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