歌舞伎町の女王
@sokorahenno
歌舞伎町
蝉の声を聞くと、九十九里浜が浮かぶ。
白い砂、潮の匂い、祖母の皺だらけの手。
あの手を離した瞬間から、私は夜へ向かって落ちていった。
ママは歌舞伎町の女王だった。
昭和のネオンの下、
男も女も金も、すべてを夜に縛りつけていた。
私はその背中を見て育った。
抱きしめられた記憶より、
背を向けて去る姿の方が多い母親だった。
十五の夏。
ママは、私を置いて消えた。
きっと毎週金曜日に来ていたあの男と暮らすのだろう。
その頃の私は、
まだ知らなかった。
「一度栄えしものでも、必ずや衰えゆく。」
それが慰めではなく、
この街の掟だと知ったのは、
私が夜の側に立つようになってからだ。
同情は金にならない。
涙は笑顔に変えなければならない。
愛想は刃で、
若さは期限付き。
私は学んだ。
ママと同じやり方で、
ママと同じ速度で、
ママと同じ深さまで堕ちていく方法を。
ある日、バーの店長から聞いた。
「女王の失墜も、もう近いな」
私はグラスを磨きながら聞き返した。
「その女王って、名前は?」
店長が口にした名前は、
昔、私が呼んでいた名前だった。
そうか。
ママも、もう衰え始めている。
怒りは湧かなかった。
悲しみもなかった。
ただ、時間だと思った。
ある夜、
薄くなったネオンの下で、
私はママと再会した。
ママは私を見ても、
何も思い出さない。
少し痩せた肩、
色の抜けた口紅、
それでもまだ、この街を愛している目。
ママは笑って言った。
「この町、綺麗でしょ?」
煙草の煙を吐きながら、
誇らしげに続ける。
「私の大国よ」
私は黙って頷いた。
娘としてではなく、
夜の女として。
名乗らなかった。
今さら、意味がなかった。
私は席を埋め、
金を動かし、
人の心を冷やした。
やがて、
ママの周りから人が消え、
私の名前が夜を回り始める。
JR新宿駅、東口。
ここから先に昼はない。
女王の座に身を置いた夜、
私はネオンを見上げて言った。
「ねぇ、この町、綺麗でしょ?」
少しだけ口角を上げ、
振り返る。
「そう思わない?
……お母さん。」
ママは立ち尽くしたまま、
しばらく私を見ていた。
酒に焼けた喉、
やつれた頬、
かつて夜を従えていた面影は、
もうどこにも残っていない。
そして、遅れて言った。
「そう……
あんただったのね。
どことなく、私と似てると思ってた。」
その声には、
誇りも、悔しさもなかった。
ただ、
全てを失った女の乾いた響きだけがあった。
私は答えない。
近づきもしない。
ただ、
女王の座に静かに身を沈め、
勝利の笑みを浮かべる。
ネオンは、もう私だけを照らしている。
ママはその光の外で、
影になり、
夜に溶けていく。
女王の座は冷たい。
けれど、
もう誰にも渡らない。
今夜からは此の町で
娘の私が女王。
歌舞伎町の女王 @sokorahenno
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