言葉の端より。

 師匠は仰いました。魔法には、言葉が必要だと。そして言葉には、心が必要だと。

「ですから今日は、練習をしましょう。心を込めて、言葉を書く練習です。」

 そう言って、私の前に、まっさらな紙と、白い羽ペンを置きました。私は羽ペンを手に取って、その重さに驚いた。何だかとても、言葉を書くということが、難しいことのように思われて、手の平に汗が滲んだ。

「大丈夫ですよ。落ち着いて、頭に浮かんだことを書いてみましょう。」

 私の丸まった背に、師匠の手がそっと触れて、深い呼吸を、一つ。すると羽ペンが軽くなって、そのまま、インク壺の黒色に先を浸して、まっさらな紙にそっと触れた。平らに見えたそれは、指に伝わるほどに、凸凹があって、ペンの先は引っ掛かりながら、行き詰りながら、時には進みすぎながら、黒い跡を残していく。ペン先と紙が触れ合う音が、小鳥のさえずりと一緒になって、しばらくが経って、ようやく私はペンを置いた。真っ白だった紙は、くたくたな皴がついていて、滲んだり、掠れたりした拙い文字が、その表面をうねうねと巡っていた。 

「終わりましたか。」

 紙を受け取ろうとする師匠の手が、いつもより大きく見えた気がして、咄嗟に紙を隠してしまった。窓から注ぐ日の光が、眩しくない影の方を向いて、私は少し、小さくなった。

「どうしましたか。」

 覗き込んだ師匠の瞳に、私の顔が、泣き出しそうな顔が映って、そこからもまた、目を逸らした。

「うまく、書けないです。」

 ようやくぽつりと出てきた言葉は、思わぬほどに揺れていて、私はまた、驚いた。

「初めてですから、上手くなくていいのですよ。」

 私の髪に、師匠がふわりと手を置いた。それが妙にくすぐったくて、思わず深い、青い瞳を見てしまった。部屋の中は、川も青空も、ない代わり、雫を一つ落としたような、丸い瞳が、真っ青な空から滲みだした青色の瞳が、優しく輝いている。今日はその色が、とっても悲しく感じてしまった。

「でも、できないのです。」

「見せて、もらえますか。」

 両の手に握ったそれを、師匠の手へ差し出した。

「頑張りましたね。」

 部屋の影の隅の方へ、目を向けている私の髪に、師匠はもう一度優しく触れた。

「空を飛びたいと、書いたのでしょう。」

 柔らかく、包み込むように私の頭を、なでる手を止めず師匠は言った。優しい声に導かれるまま、私は一つ、頷いた。

「外へ、出ましょうか。」

 ドアを開けて、緑が出迎える外へ出る。一層深まった緑色は、昼下がりの日差しを浴びて、風に身を任せて、静かに語り合っていた。

「魔法には、言葉が必要です。言葉には、心が必要です。」

 歌うような師匠の声は、風にのって、空へ舞う。

「心をのせた言葉があれば、言葉は魔法へ変わるでしょう。」

 そう言って師匠は、手にした紙を、青空へ透かすように大きく掲げ、また私に手渡した。

 渡された紙に、私は、思わず、息をのんだ。真っ白かった一枚の紙は、薄く青が染み込んでいて、真っ黒に滲んだインクの文字は、その黒い色の中を、風が吹いているように、雲が流れているように、小川のせせらぎが歌うように、微かな白が、緩やかに揺蕩い続けていた。

「これは、一体、何ですか。」

「これが、魔法の言葉です。」

 ぽつりとつぶやき、私が尋ねれば、師匠は重ねて、つぶやき、答える。見とれる私の手を取って、その文字を、言葉の線を、一つ一つなぞっていく。インクの凹みに指を合わせて、師匠の指先を追いながら、丁寧に、ゆっくりと、なぞっていく。

 その最後の線をなぞり終わると、先からふわりとした風が吹き、心が浮き立つのと一緒にして、足先がふわりと芝生をかすめた。慌てて空を切る私の片方の手を、師匠が支えて、ほんの刹那、二人で一緒に、宙に浮かんだ。さらりとした風をまとって、二人で一緒に、空を飛んだ。軽くなった両の足に、もう一度影がくっついて、もう一度私が乗っかって、魔法が終わってしまったのだと、教えられた。

「空を、飛べましたね。」

 上からかけられた柔らかい声に、私は勢いよく振り仰ぐ。ゆるく細められた青い瞳に、溢れんばかりの笑顔を浮かべた私の顔が映っていて、嬉しさに、酸っぱい恥ずかしさが、一筋混ざった。

「はい、空を飛べました。」

 私は、言葉を書いたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔法使いの弟子 水目さち @shfre

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ