低くて高い夏の頂

身分不相応

第1話 旅立ちの空

——勝てば、報われるのか。


頭の中で、何度も同じ問いがこだまする。

走ることに理由はいらない。ただ、進む先にしか答えはない。


誰かに証明したいわけじゃない。

けれど、自分自身には、証明してみせたいと思った。


——この夏の全てを、君に捧げる。



朝7時。


大型バスが朝もやの中を走っていた。

今日が、最後の夏の始まりだ。

通勤ラッシュに揉まれる街の風景とは対照的に、車内には遠征という非日常の空気が漂っている。


私立高校ではない地方の進学校、それでも全国の頂点を本気で狙う舞辺まいべ高校——通称・舞高まいたかの自転車競技部が、この夏の決戦へと旅立とうとしていた。

母校を出発したバスが目指すのは小川空港。彼等の目的地は、北海道——今年の全国高校総体の開催地だ。部員に加えて、現地で応援する有志の生徒たちも加えた大所帯が構成されていた。ある生徒は経験した事のない長旅に心躍らせ、ある生徒は応援する自転車部員の活躍に期待し、ある教師は大人数での遠征に緊張と不安を浮かべる。そして、レースを戦う精鋭たちは静かに、しかし熱く燃え盛る闘志を胸に秘めていた。


「ついに来たかこの日が。さながら出征兵の気分だ」

最前列の席で窓の外を眺めながら、廣瀬ひろせ寛助かんすけはそう呟いた。

高校生活最後のインターハイ。

その眼差しは、曇天の空を見上げるようにまっすぐだった。


「おい、独り言漏れてんぞ、我らがエースよ」

後方から茶化す声が飛ぶ。通路を挟んで座るのは、副主将・大川おおかわ拓真たくま。186センチの巨体に似合わず、軽口は得意だ。


「今日は一段と眩しいねぇ王子様」

「王子様って何だよ」

「質実剛健、容姿端麗、全国最強のオールラウンダー。見てくれよこの髪と骨格。廣瀬寛助を擁する我が舞高、もはや勝ち確だね?」

「過剰な期待は戦力にならんぞ」

「そーゆー真面目なところがまた人気出るんだよ」

チャチャを入れてきたのは、同じく3年の永吉ながよし真也しんや。明朗快活、頭の回転も早く、何より幼馴染として寛助のすべてを熟知している。


この三人は、舞高復権の立役者であり、チームの中核でもある。


「相変わらず絶妙な比喩を使うねェ寛助は。しかしあながち間違ってはいないかもな」

隣で野太い男性の声がした。監督の小川おがわ尚哉なおやだ。創部当時の自転車部員であり、元プロ選手。現役時代も数々の活躍で多くのファンを獲得し、引退後に地元に戻って指導者として数々のレーサーを育成してきた名将だ。

「今年は近年稀に見る逸材揃いだ。君たち『神の三人組トリオ』に、2年の有望株二人、加えて……1年のあの化け物」


小川監督の視線の先には、車内後方、頭一つ分高く座席から飛び出す巨躯の男——米間べいま楠男くすおがいる。

——「大沢の暴れ牛」。

その異名通り、米間の存在はすでに周囲に異質な圧を与えていた。

だが今は、その異様さこそが「チームの希望」として、静かに周囲の期待を引き受けている。

「このメンツなら間違いなく今までで一番近いだろう、全国優勝に」


自転車競技は生身の人間が行う世界最速のスポーツだ。自転車にまたがって己の力で回すペダルによって前に進む。舗装された道路の上を、野を越え山越えゴールに向かって競い合いながら走り抜ける。そのスピードは時に時速百キロを超え、一日の走行距離は二百キロを超える事もある。コースや地形、天候やライバルの動きを把握し、刻一刻と変化する戦況を見極めながら動くため頭脳戦も繰り広げられる。また自転車競技は機材スポーツでもあるため、車体に起こるトラブルにも備える必要がある。知力と体力、そしてあらゆる困難に打ち勝つ強い精神力をも駆使して戦う、世界で最も過酷なスポーツの一つだ。


舞高の自転車部は全国区の強豪校で、創部以来長きにわたって上位層に居座っている。しかしここ数年は私立高校が勢力を伸ばし、長年王座から離れている。最後の優勝から既に8年が経ち、常に二番手の印象が強い。県立の進学校であるが故の選手層の薄さや基盤の弱さがしばしば指摘され、ここ数年は経済的支援も十分に得られなかった。強さの土台となる部員たちの体力作りは半ば個人に委ねられ、インターハイ全国大会はおろか県予選でも苦戦する時期があり、県内ライバルの狐塚工業高校に4年連続で敗れる「冬の時代」も記憶に新しい。


そんな中でやって来た寛助・拓真・真也の三人組は、中学時代の輝かしい戦績から入部当初から熱い期待を寄せられていた。昨年のインターハイ県予選では狐塚工高の5連覇を阻止し、舞高を久々に全国の舞台に引き上げた。インターハイ本戦では惜しくも優勝こそ逃したが彼等の奮闘は一躍有名になり、王座奪還を期待するOBや地元の声が高まっている。今年はこの3人を筆頭に、ここ一年公式戦で負けなしの盤石な二年生の二人と、更に全国最強の中学生として名を馳せた一人の一年生を加えた定員6名で、王座奪還に向けて加速する。



一同はバスを降り、小川空港の出発ロビーで搭乗手続きを済ませる。ゲートが開くまでは束の間の休憩時間だ。椅子に座ってくつろいだりトイレに行ったりして各々時間を潰している。親友二人の用足しを待ってひとり椅子に座る寛助には、自然と注目が集まっていた。主に女子生徒からの熱烈な視線を、彼はもう慣れた様子で受け流している。


少し離れたところからカメラのシャッター音がした。

それに気付いた寛助が顔を上げると、少し細身で髪に天然パーマのかかった男子生徒がしゃがんでカメラを構えている。

「…やれやれ、朝から麗しいな。さすが舞高の看板役者」

カメラを構えるのは、写真部部長・夏山なつやま俊樹としき

彼にとって、寛助という被写体は、もはや芸術と呼べる存在だった。

「よぉ俊樹トシ。いよいよ出番ってか?」

「その通り。そして、主役の君には覚悟してもらわねば。三日間、しっかり撮らせてもらうよ——その生き様をな」

夏山の目は冗談めいているが、どこか本気だった。



9時45分、舞高生を乗せた飛行機が新千歳空港に降り立った。多くの人にとって初めての北海道という事もあって、到着ロビーに向かって通路を歩く集団は活気に満ちている。夏山が教師陣と一緒に行列の先端を歩き、時々列から飛び出て後ろにカメラを向ける。自転車部の陽キャ軍団は手を伸ばしたりVサインを作ったりして夏山の方を見る。


到着ロビーの手荷物受取所では、チームメンバーの遠征グッズを回収する。自転車と予備の機材に加え、個人の着替えや食糧などもあり、通常の旅行と比べてかなりの大荷物だ。ベルトコンベアに乗って輪行袋に入った自転車や大柄なキャリーケースが次々と出て来る。周りの人々は何事かという目で見守るが、制服やジャージを着ている若い男女を見ると部活の遠征かと納得する。自転車や部の備品は寛助ら三年生や監督が手分けして運搬する。キャリーケースやショルダーバッグに混じって褐色のギターケースが流れて来て、真也が手に取った。

「は? お前持って来ちゃったのかよ」

「持って来ちゃった(笑) 寛助なら北海道と言えば?」

「北海道……北の国から……さだまさしッ! いやぁさすが真也だな(笑)」

出口付近にはあらかじめ現地に要請しておいたバスが待機している。ここから最初の宿がある旭川市までは、陸路での移動となる。


空港の外に出た舞高生を出迎えたのは、鈍い雲に覆われた広い空と、想像以上に冷んやりとした風だった。

「うおっ、涼しっ……! マジでこれ夏かよ」

半袖のシャツを着た生徒が口々に驚きを述べ、女子生徒は鞄からいそいそと上着を取り出す。

「内地より10度は低いんじゃないか?」

「延々と梅雨が続いてるみたいだ」

自転車部の部員は事前に入念なリサーチをしていたため、さして驚く様子もなく上着を羽織る。

「なんか夏って感じがしないな」

「でもレースをするには悪くないんじゃない?」

今年は雲に覆われた日が続き、猛暑日という言葉をあまり耳にしない、ちょっと異様な夏だ。梅雨がない事でお馴染みの北海道の上空でもこのありさまだ。


「とりあえず荷物バスにぶち込むぞ」

体格の良い拓真が、輪行袋に入った自転車を2台まとめて担ぎ、更に誰かのショルダーバッグを肩から提げて歩く。隣で大型のキャリーケースを二つ持った寛助が感心して言う。

「手伝いましょう!」

その声と共に、拓真を凌ぐ巨体が動き出す。

米間楠男——舞高自転車部の一年生にして、新戦力。

入学から4ヶ月近く経って部員や同級生はようやく見慣れて来たが、応援する一般生徒や記録係の写真部員の目には未だに強烈な印象を与える。彼は3年生が運び切れない荷物を軽々と担ぎ上げた。

「なんだよ、気合い入ってるな。初めての全国で緊張か?」

拓真が声をかけると、米間はわずかに頷いた。

「いえ、緊張というより……この空気感が、気持ちを軽くしてくれるんです」

いつもは無愛想なはずの口調が、どこか穏やかだった。

——やっぱ、掴みどころねえな。こいつ。

拓真は肩をすくめつつ、後輩の背中にどこか頼もしさを感じていた。

バスの運転手が車を降りて一同を出迎えてくれた。小川監督と寛助が挨拶すると、さっそく荷物の積み込みを始める。運転手は米間を見て「うわ、随分デカい子だねェ」と声を漏らした。舞高史上でも最大級の190センチ。ただその場にいるだけでも他を圧倒する気迫を感じさせる。

「凄いでしょう。俺が元々『舞高の巨人』だったんですけど、超えられちゃいました(笑)」

拓真は軽口を叩きながらバスに乗り込んだ。



空港を出てすぐに、窓の外には広大な農地や防風林が広がった。旭川までは約150キロ、2時間の道のりだ。最初は想定外の涼しさに驚いていた生徒たちも、目の前に広がる牧歌的で果てしない景色にすっかり盛り上がっていた。


「え~皆さん改めましてこんにちは。自転車部主将の廣瀬です。明日から始まるインターハイ北海道大会に、遠路はるばるこうして応援に来てくださり本当にありがとうございます。今我々は新千歳空港を出発し旭川に向かっている所です。そこそこ時間がかかるので、ここでこのインターハイを戦うメンバーを紹介したいと思います」


バスの車内で寛助がマイクを取って後方に語りかると、拍手が巻き起こり、3年のクラスメイトからは歓声が飛び交う。隣の拓真が寛助からマイクを受け取った。


「3年の大川拓真です。エーススプリンターとして走ります。平坦区間でかっ飛ばしてグリーンゼッケン狙っていきますんで、初日と二日目は前半に特に注目してください!」


拓真は更に隣の真也にマイクを回す。


「同じく永吉真也です。エースの寛助とは生まれた病院だけが違ってそれ以降ずっと一緒にやってきました。最大の相棒であるコイツを山岳区間で精一杯アシストしてみせます。皆さん、廣瀬寛助はいい男です! ビジュアルも強さも全国随一、しかし昨年は不幸にもレース終盤に大事故を起こしリタイアしてしまいました。その悔しさをバネに俺たちと一緒に精一杯練習して来たんです。この三日間は彼が主役です! ぜひ…」


言い終わらないうちに真也の手からひょいっとマイクが抜き取られた。


「真也さん、長いっす。しかも半分以上自己紹介じゃなくてキャプテンの宣伝になってます。はい2年の田川たがわ弘人ひろと、スプリンターです。大川先輩の一番弟子としてみっちり鍛えました。大川先輩が前線に行ってる間は僕が平坦でチームを牽引します。集団の先頭は死守しますのでよろしくお願いします」


前半で笑いを取りつつ真面目に挨拶した田川は、スプリンターとしての類まれな才能を拓真に認められ、一年間その走りに磨きをかけてきた。田川はその一つ後列にマイクを渡した。


「同じく2年の雨宮あめみや泰生たいき、脚質はクライマーです。自称永吉さんの愛弟子兼ライバルです。ここ一番の粘り強さには自信があります、どうぞよろしく」


雨宮が言い終わると、後方から黄色い声が上がった。

クライマーとしてのレベルは真也には及ばないものの対戦成績は9勝16敗と、他のどの部員よりも彼に近い男だ。また寛助と並んでも見劣りしない美形の持ち主で、2年生のビジュアル枠担当という謎の地位を真也から与えられ、着実に人気を伸ばしている。


その雨宮から米間にマイクが渡る。


「1年生の米間楠男です。入部初年で全国の舞台に立たせて頂けて光栄です。舞高の名に恥じぬよう精一杯走ります。大沢の暴れ牛として存分に暴れてみせますのでご期待ください」


そしてマイクは再び前に戻り、寛助から小川監督に渡る。


「こんにちは。監督の小川です。選手として指導者として何十年と自転車業界に居ますけど、今年は最近で一番興奮してます(笑) みんな強いし個性的だし、何より6人全員の結束力が素晴らしい。ロードレースはチームスポーツですから、個々の力が強いだけじゃ成立しないんですよね。みんなで力を合わせて勝ちを狙いに行くっていう昔からの舞高スタイルで、ぜひ頂点を掴んで欲しい。高校生らしい熱くエネルギッシュな戦いぶりを期待したいところです」


再び車内は大きな拍手で包まれた。バスは道央自動車道に入り、スピードを上げた。

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2025年12月24日 19:00
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低くて高い夏の頂 身分不相応 @my13572

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