序章 王子の責務と婚約者の仕事

 婚約を破棄してくるのは構わないけれど、手続きはちゃんと踏んでほしかった。

「どうだろう、ロザリア。君も、王城以外で過ごしてみたいと思うだろう?」

 アラリック殿下は、私の顔を窓越しに見ながら畳みかける。その態度には、婚約破棄くらい真正面からはっきり口にしてはいかがですか、と心底あきれてしまった。いや、そもそも一国の王子の婚約破棄を、執務室に呼び出して開口一番「君にはもっと相応ふさわしい居場所があるのではないか」なんて台詞せりふで済ませようということ自体、どうかしてる。

 まあ、婚約破棄は別に構わないです。分かっていたことですし、仕事の引き継ぎも終わってます。でも肝心の、次の雇用先が手に入ってないんです。だから破棄は構わないんですけど、王城ここを出て行くのは後日でお願いします──なんて、状況も忘れてしやべってしまいそうになった。でもここでそんなことを言ったら「ぺらぺらうるさいお前など出て行け」と怒鳴られておしまいだ。黙るしかない。

 そのくらい、婚約破棄自体はどうでもよかった。寂しくも悲しくもなく、悔しくもない。そもそも私達の婚約は、親と王家の勝手な取り決めだったから。

 十数年前、貧乏な名ばかり伯爵令嬢の私は、エーデンタール国第一王子のアラリック殿下と婚約させられた。ただし、婚約の数年後から現在に至るまで、殿下は五つ年下で病弱な従妹・ヴィオラ公爵令嬢に夢中。なんなら私が十一歳のとき、十五歳の殿下いわく。

『ロザリアの唯一の功績は、私にヴィオラの愛おしさを気付かせたことだ。ヴィオラの生まれもった上品さ、つつましさ、はかなさ……どれもこれも当たり前に備わるものではないと、可愛かわいげの欠片かけらもなく男にも口答えするお前を見ていて分かった』

 既に口癖のように「なぜお前のような女と」と言われていた私は、はあ、そうですか、としか思わなかった。そしてそれを受けた当時十歳のヴィオラ様曰く。

『ロザリア様もおつらいのですね、同情してしまいますわ。神獣の守護を理由に婚約だなんて……ロザリア様自身は無価値だと指を差されているようなものですから』

 私だったらどんなに頭をひねってもそんな嫌みな言い方はできない。そうぜんとしたものだ。当時を思い出しながら、今足元に座り込む神獣のオオカミ──ヴァレンに視線をる。ふわふわの銀の毛の中で、金の目がまばたいた。

 神獣というのは、大陸に伝わる伝承だ。神は大陸を創り、その際に自らを支える存在として獣達に力を分け与えた。彼らは、それぞれ天候を安定させたり、畑を豊かにしたり、海をしずめたりして、この大陸を創りあげる手助けをしたのだという。創世後は、神獣として人々を支え、共に大陸を豊かにしていくようにと残された。その神獣は、守護する人を通じて特有の加護を周囲にもたらすと言われる。

 ヴァレンもそうだ。ヴァレンは私が生まれると同時にどこからともなくやって来て、荒れた畑を踏んで作物を実らせた、とかなんとか。詳しいことは知らない。知っているのは、両親はお金と引き換えに私とヴァレンを王家に献上したらしい、ということだけだ。それだけはアラリック殿下によく言われた。

『お前を手に入れるために王家はばくだいな金員を支払ったのだ。せいぜい心得て、そのオオカミにしっかり加護を発揮させろ』

 なお、王家がそこまで私達にこだわったのは、数十年前のだいきんが原因だったらしい。エーデンタール国が最後に神獣を確認したのは百年近く前だったというのもあり、この機を逃すなと金を積んだわけだ。

 つまり、私と殿下の婚約は、ヴァレンのみを理由とするもの。だから気付いたときには殿下に「神獣さえいなければお前などと婚約する理由はなかったのに」と言われていた。ヴィオラ様からも嫌がらせの連発で、侍女は解雇され身の回りのことを自分でやる羽目になるし、たまに食事もないし、式典ではヴィオラ様に「代理」と称して居場所を奪われてきた。

 ヴァレンの加護が何より大事で、私はいわばその触媒的な存在として必要なだけで、どっちかというといないほうがいいらしい。そう理解するのにさして時間はかからなかった。だとしても、そういうものだと思って長かったし、それ以外の生活を知らなかったから寂しいとか残念とか思ったこともない。

 それは今も変わらない。ただ、今追い出されたら明日からどうやって生きて行こう。その衣食住が心配なだけだ。ヴァレンに目配せし、もう一度窓越しに殿下に視線を向けた。

「殿下のはなしは私との婚約を破棄するという意味と理解しました。その場合、私はいつ王城を出て行くことになりますでしょう?」

「いやまあ、それはもちろん提案で、選ぶのは君だが」

 まだ自分は悪者になるまいとする。まだるっこしいので結論だけ言ってほしい。

「居座っては君自身が居たたまれないだろう。人目にもつきたくないだろうし、今日の日没後には城門を通れるよう、特別に伝えておこうではないか」

 要約すると、婚約破棄は確定事項だし、あと三時間くらいで荷物をまとめて出て行け、というわけだ。殿下が私をどれほど邪魔に感じていたのか、よく分かるお気遣いだった。

 そして、こうと言い出した殿下は何があっても聞き入れない。口を出せば「王子たる私に意見するのか」と言い始めて平行線だ。

 そういう人だから、婚約破棄の結論にも至ったんだものね。ためいきはつかなかったけれど、つきたい気持ちでいっぱいだった。いい加減諦めていたことだし、食い下がるのはやめておこう。頭を下げようとして、執務机の書類が目についた。一緒に宝石商の名前も飛び込んでくる──ヴィオラ様への贈り物を注文したのだろう。

 ほんの少し、躊躇ためらいが生まれた。ここまでするのは馬鹿馬鹿しいとも思う。でも、今の私はまだ「エーデンタール国の王子の婚約者」だ。その責務を捨てるのは性に合わない。

「承知しました。しかし殿下、この後はヴィオラ様と婚約なさるおつもりですよね?」

「……それがどうした」

 悪びれもしないどころか、声が険を帯びた。私に申し訳なさを感じてほしいなんてじんも思っていないけれど、王子が道をあやまてば正すのがその婚約者の仕事だ。軽く腰に手を当てる。

「何度も申し上げたはずです、殿下。殿下は我がエーデンタール国の第一王子、その責務を忘れていただいては困りますと」

「ああそうだ、君はいつもそう言ってばかりだったな」

 言葉を濁していた殿下は、そこで体ごとこちらに向き直る。ブラウンの瞳には、いつものいらちがにじんでいた。

「私の責務は我が国を豊かにすること、そしてそのために必要なのは神獣だ。今までは君が唯一、神獣の守護を受ける者だったからそばに置いてやったが、知ってのとおり、ヴィオラに神獣の守護があると判明した。はや君との婚約を維持する理由はないだろう?」

 はー、出た。いかにも正論、俺は正しいのだと言いたげな態度に、額を押さえたくなった。

 殿下は、今までも「何の加護も感じない」と文句を言っていた。それでも、私を大々的に召し上げた以上、「実は勘違いでした」とか「だまされてました」なんて王家の面目丸潰れなことは言えない。だから殿下は、婚約破棄を言い出すこともなかった。

 でも半年前、ヴィオラ様が白ウサギを連れてきて、自らの神獣だとアラリック殿下に告白したらしい。結果、なんと「お前が用済みの日も近いぞ」と言い出したわけだ。

 こちとら唖然とするあまり絶句した。うそに決まっている。なにせ、ヴィオラ様が私に代わることができなかった唯一の理由が神獣だ。それが突然現れるなんて都合が良すぎるし、なんならヴィオラ様は理由をつけて私に神獣を見せない。ヴァレンを連れる私にはさすがにバレると警戒しているとしか思えない、まさしく神獣でないことの証左だ。

 が、神獣の見た目は実在する獣に近く、一見して神獣かいなかの判断はつかない。そして恋は人を愚かにするもの。殿下はまるっと信じ込んだし、私ももう終わりだと悟った。

 ただ、例によって意気地なしの殿下は、私から「婚約者として相応ふさわしくない私は王城を去ります」なんて言い出すのを待つに違いない。その間に仕事の引き継ぎと、ついでに雇用先確保に向けて見知った貴族への根回しを済ませておこう。そう決めてせっせと動いていた最中に──これだ。

「大体、ヴィオラであれば、この状況なら『どんなところが至らなかったでしょう?』と涙を浮かべ反省するだろう。その殊勝な態度が、君にはない。王子の言うことには『はい』か『分かりました』以外答えてはならんと教わらなかったのか?」

「そんな馬鹿げたことを教える教育係などおりません。私は将来の王子妃として召し上げられた以上、その身を粉にして殿下に仕えろと教えられました」

「だからそう教えられたのではないか」

 何を言うのだ。そう言いたげな顔をする殿下こそ、何を言うのだ。

 殿下は「まったく、これだからろくな家で生まれぬ者は」と溜息をつく。

「臣下からも進言があったぞ。君は官僚達の仕事をやりにくくすると」

「王城統制規則のお話でしょう? あの重要性は何度もご説明したではありませんか」

「ふん、そうやって自分の価値を誇示して、浅ましいといったらない。ヴィオラは長年くちしかったことだろう。ヴィオラほど将来の王子妃に相応しい者もいないというのに、お前のような女が、そのオオカミがいるだけで私の婚約者なのだからな」

 いつも以上に言いたい放題だ。最後に言いたいことは言ってすっきりしたいに違いない。馬鹿馬鹿しくて取り合う気になれない。

「……話を戻しましょう。神獣のことは今は論点ではありません」

 そう切り上げようとしたのに、殿下は「そうやってすぐに話をらす」と声を荒らげる。

「論点だの問題だの、そうして小難しい表現を遣えば説得できるとでも思うのか? 浅はかなことこの上ないな!」

 もう本当に駄目だ、この人は……。返す言葉もなく、天を仰ぎたくなる。責務がどうとか、そんな最後の良心に従った自分が馬鹿だった。ヴィオラ様との婚約は今更止められるものではなかったのだ。

「お前は口ばかり達者で、まったくもって配慮に欠けている。ヴィオラがどれほど辛い立場だったか考えたことがあるのか?」

 それどころか、斜め上から妙な説教をするときた。こめかみに青筋が浮かぶのを感じる。

「ただでさえ病気がちで、既に十六歳。私をおもうもお前のせいで婚約できずにいたのだ。それを長く不安定な立場に置くなど、可哀かわいそうではないか。そうなれば、ヴィオラをおもんぱかり、半年前の時点で自ら王城を出て行くのが当然だろう?」

「え? では十七歳にもなろうかという私から突然婚約者を奪うのは可哀想ではないのでしょうか? というか、私はこれから王城に出入りする権利がなくなり住む場所を失い、生家にも戻れず路頭に迷うことになるのですが、その私を慮る必要はないのですか?」

「うるさい!」

 お望みとあらばと話題に乗ってあげたのに、殿下は怒鳴った挙句、沸いた湯のように一瞬でふんまんを顕わにしながら、机上の書類をパフォーマンス的にたたき落とした。

「私の言うことが分からないのか、ロザリア! ただでさえせいぜい十人並みの顔である上に、女のくせに男に口答えまで、それどころか他人のやり方にケチをつけてざかしく、中身まで可愛げの欠片もない! 素直なヴィオラを見習ってはどうだ!」

「はい? ヴィオラ様だって神獣の守護があることを理由に金と引き換えに強制的に召し上げられた挙げ句、体の弱い年下の従妹のほうが可愛いし神獣の守護もありそうだから結婚するというわけでお前は邪魔だ出て行け、なんて言われたら烈火のごとくお怒りになると思いますよ?」

「ハッ、そうして一息に嫉妬を口にする。お前の性格の悪さが出ているというものだ!」

「嫉妬ではなく呆れているんです。大体、私がずっと問題にしているのは、殿下の御立場です」

「フン、私を慮るふりをして説得しようというのか。恩着せがましいな」

 ……もう黙って出て行こうかしら。ヴァレンも、キュウキュウと鳴きながら私の足に体をこすりつけてくる。そうしよう。もうこの件は口にすまい。あとはおだてるかしおらしく振る舞うかして、せめて雇用先くらいぶんどるべき──と自分に言い聞かせて。

「大体その獣はオオカミの姿の神獣だというが、そもそもそれが嘘なのだろう。土色の目に、鉛のような色の毛、挙げ句の果てに王子の前でもそのような不遜な態度を崩さぬ。この愚かな生き物が神の使いであるものか!」

 とんでもない暴言に、理性は彼方かなたに吹っ飛び、私は思わず執務机に両手を叩きつけた。

「お言葉ですが殿下、ヴァレンを侮辱しないでいただきたい! 太陽の黄金色に月光の銀色、そしてこの気高き態度、これを神獣と言わず他のどの生き物を神獣と呼べましょう! それから、ヴァレンは賢いのでたわごとに耳を傾けることもいたしません」

くつを言うな! そもそもお前と婚約してはや十年以上、なんっの加護も感じたことはない。そのオオカミを迎えた頃は作物の実りがよかったそうだが、偶然の産物だろう? ただのオオカミをよくしつけたものだな?」

 ただの野良オオカミだと……。ヴァレンは毛繕いをして我関せずといった様子だけれど、私の怒りは最高潮に達した。顎を持ち上げてにらみつける。

「アラリック殿下、お言葉が過ぎます。その節穴の御目を牙で穿うがたせますよ」

「ほらみろ、お前はすぐにそうして逆上するのだ。それどころか目を穿つなど、おそろしい発想を!」

「冗談でございます、私の可愛らしいヴァレンの牙をそんなもので汚させるつもりはありません」

「王子たる私の目に対して汚いものとはなんだ! まったく、神獣以外に何の価値もない、それどころかろくでもない家の生まれであるからと数々の立派な教育係をつけてやったというのに、最後まで口ばかり達者な女だな」

 殿下は乱暴に椅子に座ると、自身の頭をでつけながら体の向きを変えた。そうしてまた私から視線を逸らす。

「自ら選ばせてやろうと思ったが、お前にそこまでの情けをかけた私がおひとしだったようだ。……婚約は破棄する。今すぐ出て行け」

 恩着せがましいことばかり口にして、でも肝心なことは目を見て言えず、そういう殿下こそ意気地なし。最後の忠告も、もうしてやるまい。

「はい。分かりました」

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2025年12月28日 00:00
2025年12月29日 00:00

神獣連れの契約妃 加護を疑われ婚約破棄されたので、帝国皇子の右腕に再就職しました 潮海璃月/角川ビーンズ文庫 @beans

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