第5話 残された時間

 次の日から、私の身体の状態が格段に悪くなる。まるで坂道を転げるように…

 最初は胸の痛みだけだったのに、咳き込むことが増えてちょっと無理をするとふらついてしまう。それでも心配をかけたくないと懸命に平静を装ってきたけど、明らかに風邪とかいったものとは違う…これは危ないのではないのか?ふと不安に苛まれる。そんなある日、決定的なことが起こって…


 「今日は早く帰れると思うよ。リリーはどうだい?同じなら夕食はどこかで…リリー?ど、どうした!」


 どうにか保っていた身体が限界を迎える。アレクの言葉に答えなきゃ…そう思っていたはずが、まるでスローモーションのように身体が傾いていく。驚愕の表情を思い浮かべるアレクが何かを一生懸命叫んでいて、それが不思議だけど耳に届くことはない。一体どうしちゃったの?そう思うけど身体の自由が利かずに倒れる身体をアレクに受け止められる。それにほんの少し安心したところで目の前が暗くなる…それは劇場の幕が下りるように、上から黒いものが降りてくるように感じた。そのままぷっつりと意識を失って…




 「どうですか…この指がみえますか?何本に見えるでしょうか」


 見知らぬ人が私を覗き込んでいる。まるで記憶のない人物が…誰だろう?そして私は、どうしてこうなっているのかも分からずに。そのうち少しずつ周りが見えてきて、ここが見覚えがある寝室なのだと気付く。なんだ、自分の家だったとかとホッとする。だけどそれは束の間、それなのに何故知らない人がいるんだろうという疑問に変わる。そしてその人をじっと見ると…


 「ああ、申し訳ない!私は診療所を営む医師ですからご安心下さい。あなたは自宅で倒れて…憶えていますか?この二日の間、眠ったままだったのです。ご主人が大層心配をされて、今日は二度目の往診なんです。丁度目覚められて…」


 ──ご主人?そうだわ…アレク!一体どこにいるの?


 「ア、アレクは…どこに」


 掠れた声を何とか絞り出すと、その瞬間壊れるんじゃないかと思うくらいの勢いで扉が開かれる。それには大いに驚いて振り向いた。そこには…アレク?ど、どうしたのかしら。


 「リリー!気付いたんだね?ああ…どんなに心配したか」


 一目で泣き腫らしたのが分かる顔。そんなに心配をかけてしまったんだろうか…それにしても目が赤い。逆だったら私も心配で寝ていられなかったと思うけど、それにしてはあまりにも。


 ──どうしたんだろうか。何かあった?もしかしたら私のことで…


 そう嫌な予感が起こりながらも、抱き寄せられアレクの温かさに包まれる。グッと力強く背中を抱く腕…絶対に離さないという意思の表れのようにも思える。ドクドクとした心臓の音を聞きほんの少しずつ落ち着いてくると、やっと冷静になれた。ここ最近の体調不良の理由は何なのかと、意を決して聞いてみることにする。


 「ごめんね…アレク、心配をかけてしまって。そして先生、診ていただきありがとうございました。それで…診察の結果はどうなのですか?私の身体に何が起こっているのでしょうか」


 落ち着いてそう尋ねると、アレクは明らかに動揺したように身体を強張らせる。その意味を固唾を呑みながら待つと…


 「落ち着いて聞いて下さい。あなたの病名は…黒病です」


 「く、黒病ですって?そんな…そんな馬鹿なっ!」


 驚き過ぎて言葉もない。黒病…それはこの大陸全土を恐怖に陥れている死の病だ。若い女性のみが羅漢するその病は、始めは軽い胸の痛みが起こる。それから症状が進むと咳や倦怠感、それから失神することもあるという。それら全てが当てはまっていた私は、絶望の淵に落とされることになった。そしてこの病の厄介なところは、罹患する者は限定的で人に伝染すことがないかわりに、だからこそ研究が進んでいない。黒病に罹った若い女性達は、後は静かに死を待つだけになるという現実…


 「先生、何か助かる方法はないのですか?リリーはこんなにも若いのです…なのに余りにも酷い!」


 茫然とする私の隣で、ツーッと涙を流すアレクがそう訴える。グッと握る両手は震えていて、口元を強張らせている。そんなアレクの表情を初めて見る私は、これでさっきのアレクの様子に納得がいった。だからだったのかと…


 肝心の医師は難しい顔をして押し黙る。やはり世間の噂通り諦めるほかはないのかと、更に絶望感で一杯になることに。それからそんな硬い表情のまま顔を上げた医師が口を開くと、意外なことを言ってくる。


 「ご存じでしょうが特効薬はありません。ですが…やっと薬らしきものができ始めたと聞いています。ですがそれで絶対に助かるというものではないのです!まだまだ実験を重ねる必要があるものなんです。それに…申し訳ありませんが、あなた達が買えるものではない」


 眉間にシワを寄せながら、ポツリポツリと話す医師。薬…のようなもの?おまけに私達には買えないって…どういうこと?


 「そ、それはどういう…意味ですか?平民では買えないものなのでしょうか」


 海のような青い瞳を見開くアレク。それに医師は頭を横に振っている。すると…


 「いいえ。平民だから買えないものではありません。ですが実質買えないと言った方がいいのです。例え貴族だったとしても手の届かない金額だから。余程羽振りの良い貴族家でなければ買えないほどの金額なんです。運好く買えたとしても、家門の身代が傾くかもと言われている」


 「そんな馬鹿な…それでは死ぬことが決まったようなものだ!」  


 アレクは辛うじてそう呟くがショックが隠せず放心状態。医師はそんな様子の私達を申し訳なさそうにチラリと見て、それでも無駄な期待を抱かないようにと言いたいのか、続けてあり得ないことを言う。


 「その薬ですが、ご令嬢のおられる裕福な貴族家では常備しておくところも若干あると聞いています。発症から末期までが凄く早い特徴があるためかと思われます。だけどそんなのはほんの一握りです…それこそ王族でもないと難しい。医師の私でさえまだその薬を、見たこともありませんから」


 これには絶望…王族でもなければ助からないなんて!だけどそう言われて改めて考えると、確かにあっという間に症状が進んだように思う。もしも買うお金を用意できたとしても、それでは間に合わないこともあるということ。もう私は、死ぬしかないのね? 

 

 「よく分かりました。死ぬまでの一日一日を大切に生きて行こうと思います。思い残すことがないように…」


 「リ、リリー!ああ、そんなことは言わないでくれ…お願いだ」


 アレクが泣きださんばかりにそう言うけど、私はもう覚悟していた。愛する人を遺してあの世に行かなければならないのは身を切られるように苦しい!だけど…こんな幸せの絶頂で逝けることもまた、幸福なんではないかと自分で慰める。アレクの妻として恥じることなく…

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