私がいなくなってから、家が回らなくなったそうです
柚子
第1話 家計簿を握っていた嫁が帳簿を手放した結果
私は地方都市で代々続く鍛冶屋に嫁いだ女だ。
名はリーネ。三十二歳。結婚して五年になる。
義父は無口で頑固な職人だったが、腕は確かだった。
街の者たちからも信頼されていた。
だが、結婚して一年も経たないうちに、義父は病で亡くなった。
今、鍛冶屋を継いでいるのは夫だ。三十五歳。
職人としての腕は悪くない。
だが、経営の話になると、いつも曖昧だった。
家には三人いる。
私と夫、それから義母。
義母は金に細かい。
だが、帳簿を見ることはない。
「昔はもっと余裕があった」
「最近は本当にお金が残らない」
それが口癖だった。
帳簿を任された、と言えば聞こえはいい。
義母はそれを「内助の功」と呼んだ。
だが実態は違う。
仕入れ交渉。
在庫管理。
売掛・買掛の調整。
税と組合費の積み立て。
帳簿だけではなかった。
その間、夫は現場。
義母は口出し。
赤字になれば、私のせい。
「あなた、数字が苦手でしょ?」
「向いてないのに無理するから赤字になるのよ」
夫も言う。
「母さんの言う通りだよ」
「家業なんだから文句言わずやってよ」
説明しようとすれば遮られる。
「難しい話はいらない」
「結果が出てないのが問題でしょ」
だから私は、言わなかった。
ただ数字で、必死に支えていただけだ。
「帳簿、今年から母さんが見るから」
その言葉で、何かが切れた。
私は静かに答えた。
「……分かりました」
帳簿を揃え、すべて渡した。
説明はしなかった。
注意も、助言も。
「帳簿、全部お渡ししますね」
そして、最後に一言。
「私、実家に戻りますので」
三週間後、二人は実家に押しかけてきた。
「帳簿が分からないの!」
「なんで金が残らないのよ!」
「お前がやってた時は、こんなことなかっただろ!」
私は答えなかった。
前はなかった。
――私が、必死に抑えていたからだ。
「また帳簿、お願いできないか?」
その言葉で、すべてがはっきりした。
この人たちは、
私がいなくなって困っているのではない。
自分たちが困っているだけだ。
「無理です」
私は結婚前、
複数支店を持つ大商会の経理責任者だった。
帳簿を書くのではない。
統括し、歪みを見抜く立場だ。
脱税寸前の処理も、
横領まがいの数字も、
すべて洗い出してきた。
この鍛冶屋が潰れていなかったのは、
偶然ではない。
私が、無理をして回していただけだ。
その後のことは、直接は見ていない。
だが聞いた。
「前からこうだった」という処理が税務的にアウトだったこと。
税務調査が入り、
過去数年分の申告ミスが見つかり、
追徴課税を受けたこと。
支払いが滞り、
仕入れ先から取引停止を受けたこと。
信用を担保していたのが、
鍛冶屋ではなく、
帳簿を管理していた私だったこと。
「戻ってきてくれ」
「手伝ってくれれば、水に流す」
私は答えた。
「数字、苦手なので」
「向いてないって、言われましたし」
それで終わりだ。
私は元の商会に戻った。
即戦力だった。
給料は、鍛冶屋時代の数倍。
責任はあるが、理不尽はない。
最後に一つだけ。
家計簿を握っていた嫁が帳簿を手放すと、
鍛冶屋は、あっという間に壊れました。
――それだけの話である。
次の更新予定
私がいなくなってから、家が回らなくなったそうです 柚子 @yuzutone
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。私がいなくなってから、家が回らなくなったそうですの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます