剣姫は今日も、灯熱代と返済を数える

ななくさ

第1話「剣姫は今日も、灯熱代と返済を数える」


 広間の中央のボスが、爪を床に立てた。石が割れる音が遅れて届く。爪が動く前に、肩が沈む。胸郭が一度、縮む。右脚の付け根が僅かに捻れる。


 私はそれだけを見ている。


 次が来る。盾の角度だと、受け止め切れない。盾役の左足が半歩、外へ流れている。踏ん張りが利かない。粉が滑る。

 ——盾が死ぬ。


 そう思った瞬間、頭の隅に札が並んだ。


 灯熱代。

 粉薬代。

 妹の洋服。

 弟の靴。


 自分でも嫌になる。戦場で家計簿を開く女。

 でも、こういう札の並び方をする時の私は、いちばん間違えない。


「来るな——!」


 誰かが叫んだ。正しい。だから聞こえないふりをした。正しさは、ここでは盾にならない。


 私は盾役とボスの間へ、身体を差し込んだ。

 背後で「え?」と息を呑む気配。視線が刺さる。剣姫、という噂の形をした視線。


 外側の私は、それを拾わない。拾ったら足が止まる。

 内側の私は、恥ずかしい。見られたいくせに、見られると腹が冷える。そういう自分が、みっともない。


 直剣の柄が、掌に馴染む。革の冷たさが、胸の奥の息を通す。

 剣を握っている時だけ、呼吸ができる。——そう思ってしまうのが嫌で、嫌で、少しだけ嬉しい。


 ボスの爪が来る。


 速いんじゃない。重い。重いから遅れる。自分の重さに追いつけない。

 私はその遅れの“隙間”に、足を置く。


 粉が滑る。滑る前提で踵を殺す。息をひとつだけ数えて、跳んだ。


 床が遠ざかる。爪が下を切り裂く。

 空中で、剣を横に振り切る。


 刃が通った感触は、薄い。重いものを切った感触じゃない。むしろ柔らかい。喉の奥の、骨に触れる直前のやわらかさ。

 次の瞬間、巨体が遅れて崩れた。石床が震え、粉が舞い、魔石式の灯りが一度だけ瞬いた。


 同時に、刃が嫌な鳴き方をした。欠けた。小さく、でも確実に。


 ——修繕。

 札が一枚、増える。


 広間の音が止まった。

 止まった音の中で、誰かが吐くように言った。


「……剣姫だ」


 助かったはずの人間が、助けた側から距離を取る。

 英雄を見る目じゃない。化け物を見る目だ。


 私は顔を上げない。

 上げたら、何かが崩れる気がした。


「……ありが——」


「いい」


 礼は温かい。温かい言葉は、あとで冷える。冷えるのが嫌だから、私は最初から温まらない。


 膝をつき、死体へ刃物を入れる。素材を剥ぐ。筋を切る。骨の硬いところは避ける。切り口を汚すと査定が落ちる。査定が落ちると、灯熱代が死ぬ。

 生活は、いつだって刃の上だ。


 素材袋は換金用。重いほどいい。魔石は別に包む。布でくるんで、角を当てないようにする。


 魔石に触れると、指先が微かに震える。落ち着きがない。

 こんな石の機嫌に、街の灯りも湯も預けている。どうかしてる。どうかしてるのに、私はその石を丁寧に包むしかない。



 魔導エレベータの乗車口は、油と鉄の匂いがする。

 腕輪を端末にかざすと、表示が走った。


【境界帯(41–49)料金】

【安全協力金(自動割引)】


 “安全協力金”。名前だけは、いつも立派だ。

 私は小さく息を吐いて、籠に乗り込む。日没までに帰還——掲示板の字面が脳裏を掠める。


 私はそれを勝手に“首輪”と呼ぶ。悪癖だ。紙にはちゃんと「更新条件」と書いてあるのに、喉だけ重くなる。



 ギルドの査定台は低い。秤は小さい。権威だけが重い。

 まず素材袋を出す。受付の指が淡々と動く。量る。記す。硬貨の音が、布の上に落ちる。手元の生活が、少しだけ息をする。


 次に、魔石を出す。布を解いた瞬間、受付の目が一度だけ止まった。

 止まって、すぐ仕事の目に戻る。


「……ミラー様、納品受領しました。」


 “様”。丁寧は壁だ。触れないための丁寧。

 紙が差し出される。控え。台帳の更新。数字の列の中で、ひとつだけ減った箇所がある。


 たったこれだけ。

 たったこれだけで、明日も生きる。

 私は毒を吐きたいが、飲み込む。飲み込むのが一番安い。


 ギルドを出ようとしたところで、支部長に呼び止められた。廊下の影から、無駄に大きい声ではなく、仕事の声。


「ミラー。明日、顔出せるか」


「……何の用ですか」


 支部長は肩をすくめた。知らない、という仕草がやけに本物っぽい。


「内容はわからん。上からだ」


 上。

 その言い方だけで、首輪が一本増える。


 支部長は私の腕輪と、刃の鞘をちらりと見た。見て、すぐ逸らす。


「無理はするな。——いつも通りでいい」


 いつも通り。

 いつも通りが、いちばん難しい。


「……分かりました」


 外側の私は、淡々と頷いた。



 家の扉を開けると、妹が飛び出してくる。


「おかえり!リリーお姉ちゃん!」


 その呼び方だけで、胸の奥が少し温かい。温かいのが怖い。

 弟は居間の奥で腕を組んで、わざと大人の顔をしている。


「……リリアーナ。遅い」


 本名を呼ばれると、背筋が勝手に伸びる。外の「ミラー様」と同じ種類の硬さが出る。

 でも、それが家の中にあるのは、嫌じゃない。嫌じゃないのが、また面倒だ。


「ごめん。今日は——」


 言いかけたところで、妹が先に喋った。目がきらきらしている。悪い予感がする。だいたい当たる。


「今日ね、学校で友達が言ってた! “お姉ちゃん剣姫なんでしょ? すごいね”って!」


 胃のあたりが、きゅっと縮む。

 剣姫。あの呼び名が、家まで届く。世間の速度はこういう時だけ速い。私の都合なんて一つも考えない。


「……すごくないよ」


 口から出た声が、思ったより細い。私は咳払いで誤魔化す。


「でもね、みんなね、見たいって!」


 見たい。

 見られたい。

 同じ言葉なのに、ぜんぜん違う。私は笑って、妹の頭を撫でる。撫でる手は優しいふりをするのが上手い。


「見世物じゃないの。宿題しなさい」


 弟が鼻で笑った。


「その言い方、剣姫っぽい」


「うるさい」


 私の中の自意識が、ひょろりと立ち上がって、すぐ座り込む。

 家では姉。外では剣姫。どっちも私だ。どっちも私じゃない気もする。


 夕飯を作って、二人に食べさせる。皿を洗う。水が冷たい。刃の欠けを思い出して、指先が勝手に鞘の位置を探す。

 ——修繕。灯熱代。明日の“応接室”。


 弟と妹が眠った後、紙を高い棚の箱へ押し込む。紙の角が指に当たる。

 数字を背負わせたくない。

 それは建前で、本音は——見られたくない。私の弱さを、家の中に持ち込みたくない。



 翌朝、ギルドの応接室は場違いなくらい整っていた。布張りの椅子。磨かれた机。紙の匂い。

 私は背筋を伸ばして座る。伸ばすしかない。ここでは、猫背は負けになる。


 扉が開き、白衣の男が入ってきた。礼儀が正しい。正しすぎて、冷たい。配慮の言葉が壁になる種類の丁寧さ。


「ミラー様。本日はお時間をいただきありがとうございます」


 “ミラー様”。

 家で「リリーお姉ちゃん」と呼ばれたのが、遠い。


 男は書類を一枚、机に置いた。文字が綺麗すぎる。

 私はその紙の白さを見て、喉が重くなる。首輪の重さと同じ種類の重み。


「国立研究院の外郭で、新規プロジェクトが立ち上がりました」


 紙の上に指が置かれる。

 爪が短い。公務員の指だ、と思った。偏見だ。けれど、偏見のほうが私を守る時がある。


「深層——五十階以降の調査に、ご協力をお願いしたいのです」


 お願い。

 丁寧な包装紙みたいな言葉。


 私は返事をする前に、一度だけ呼吸を数えた。

 剣を握っていないのに、呼吸が細い。細いのに、逃げ場がない。


 ——どうして、こういう話だけは、私のところへ落ちてくる。


 外側の私は、頷く準備をする。

 内側の私は、恥ずかしくて、怖くて、少しだけ——息ができる気がして。

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