第一章 血の乾いたエーク

平舜賢たいらしゅんけんは、真里まりの墓の前に立っていた。


新しい石に、まだ土の湿りが残っている。

手を合わせても、祈りは形にならなかった。


――守れなかった。


それだけが、胸の底に沈んでいる。


踵を返し、歩き出す。

村を抜けると、道は荒れ、畑は踏み荒らされていた。

人の気配はない。

ただ、風に混じって、微かな腐臭が流れてくる。


「……舜賢か」


声がした。


道端に立っていたのは、安仁屋徳次郎あにやとくじろうだった。

かつては、この辺りの子どもをまとめていた男だ。

一番背が高く、一番先に走り、一番先に叱られた。


漁師の身体は痩せ、目の奥が落ちている。

その手に、血に濡れたエークがあった。


舜賢の視線が、そこに留まる。


刃の付け根から柄にかけて、乾きかけた赤。

拭おうとした跡すらない。


舜賢は、何も聞かなかった。

徳次郎の家族のことを、悟ったからだ。


徳次郎も、何も言わない。

ただ、エークを下ろし、地面に突き立てた。


二人は並んで歩き始めた。

昔は徳次郎が前で、舜賢が後ろだった。

今は、並んでいる。


言葉は少ない。

だが、沈黙は重くなかった。


そのとき、不規則な足音がした。


草を引きずる音。

湿った息。


徳次郎が、わずかに顎を上げる。


「……来るな」


避けなかった。


徳次郎が一歩踏み出し、エークを振る。

刃が横から入り、屍者の首がねじれる。


同時に、舜賢が前へ出た。

腰の釵が、乾いた音を立てて抜ける。


突き。

絡め。

崩し。


動きに無駄はなかった。

義典の背を、何度も見てきた手だ。


屍者が倒れ、動かなくなる。


息を整えながら、徳次郎が言う。


「……昔と変わらんな」


「……あんたが前に出てた」


徳次郎は、かすかに笑った。


道は再び静かになる。


道は続いていた。

深い森の中へ、ただ延びている。


踏み荒らされた畑を抜け、

人の通った跡だけが、かろうじて道の形を保っていた。

風は止まず、腐臭が薄く混じる。


徳次郎が、前を見たまま口を開く。


「……隔離場ってのが、あるらしい」


舜賢は何も言わない。


「兵がいてな」

「入れば、安全だって話だ」


その言い方には、確信がなかった。

聞いてきた言葉を、そのまま並べただけだ。


舜賢は腰の釵に触れる。

徳次郎は、血の乾いたエークを握り直す。


二人とも、まだ武を離さない。


歩く。

ただ、歩く。


足音が重なり、また離れる。

子どもの頃は、徳次郎が少し先を行っていた。

今も、同じだ。


しばらくして、徳次郎が言う。


「……お前も、行くか」


問いというより、確認だった。


舜賢は、歩みを止めずに頷く。


徳次郎は、短く息を吸う。


「……なら、いい」


それだけで、十分だった。


道は長い。

隔離場が本当にあるのかも、まだ分からない。


舜賢は思う。


言葉はいらない。

子どもの頃から知っている背中には、

沈黙で足りる。


二人は、ただ歩き続けた。

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