円環の朝、君が死ぬ超越数

琥珀さそり

円環の朝、君が死ぬ超越数

【314回目】

 目を覚ます。目覚ましのアラームを止める。スヌーズは三分に設定して、少しだけSNSを見る。猫かわいい。今日は快晴だけど、明日は雨が降るらしい。良かった、明日は無駄に洗濯をしなくて済む。犬かわいい。

 三分後のスヌーズが鳴る。音を止めて、ベッドから起きる。ジェラピケのパジャマから買ったばかりのTシャツとワイドパンツに着替える。ペットボトルの水を霧吹きに入れて、観葉植物に吹きかける。植物の名前は知らない。緑のつると葉が鉢から溢れそうだ。

 ドレッサーに座る。ピンクのシュシュで髪をお団子にまとめて鏡を見ると、両目が浮腫むくんでいた。やだ、ぶさいく。

 今日は彼が朝食の担当だっけ。リビングの扉を開ける。マーガリンを塗ったトーストを食べながら、彼がダイニングテーブルで死んでいた。

 リセット。


【1,592回目】

 目を覚ます。目覚ましのアラームを止める。スヌーズは三分に設定して、少しだけSNSを見る。猫かわいい。今日は雨だけど、明日は快晴になるらしい。良かった、明日は溜めた洗濯ものをまとめて洗えそうだ。犬かわいい。

 三分後のスヌーズが鳴る。音を止めて、ベッドから起きる。ジェラピケのパジャマから適当なワンピースに着替える。ペットボトルの水を霧吹きに入れて、観葉植物に吹きかける。植物の名前は知らない。緑のつると葉が鉢から溢れて床につきそう。

 ドレッサーに座る。黒いゴムで髪をお団子にまとめる。鏡の向こうの私は、両目が浮腫むくんでいた。やだ、ぶさいく。

 今日は彼が朝食の担当だっけ。リビングの扉を開ける。キッチンで彼が包丁で胸を刺して死んでいた。

 リセット。


【65,358回目】

 目を覚ます。目覚ましのアラームを止める。スヌーズは五分に設定して、少しだけSNSを見る。犬かわいい。今日は雨だけど、明日も降るらしい。やだな、また洗濯物が溜まっちゃう。犬かわいい。

 五分後のスヌーズが鳴る。音を止めて、ベッドから起きる。ジェラピケのパジャマのまま、ペットボトルの水を観葉植物に注ぐ。植物の名前は知らない。緑のつると葉がカーテンやランプに巻き付いている。

 ドレッサーに座る。髪にブラシをかける。鏡の向こうの私は、両目が浮腫むくんでいた。本当、ぶさいく。

 今日は私が朝食の担当だっけ。リビングの扉を開ける。キッチンでトーストを焼いて、マーガリンを用意したら、彼の部屋の扉に手をかける。開かない。彼はドアで首を吊って死んでいた。

 リセット。


【979,323回目】

 目を覚ます。目覚ましのアラームを止める。スヌーズは十分に設定して、少しだけSNSを見る。猫かわいい。今日も明日も明後日も晴れるらしい。やだな、紫外線で日焼けしちゃう。

 十分後のスヌーズが鳴る。音を止めて、ベッドから起きる。安物のパジャマのまま、ペットボトルの水を観葉植物に注ぐ。植物の名前はアイビーだって思い出した。

 ドレッサーに座る。髪にブラシをかける。鏡の向こうの私は、両目が浮腫むくんでいた。疲れたのかな。

 今日は彼が朝食の担当だっけ。リビングの扉を開ける。ダイニングテーブルで向かい合ってトーストを食べる。

 彼は朝から会議があるらしい。家を出る彼を見送る。

 五十分後、警察から電話がかかってくる。彼が事故に遭った。トラックにねられて即死だった。

 リセット。


【8,462,643回目】

 目を覚ます。目覚ましのアラームを止める。スヌーズは十分に設定して、少しだけSNSを見る。今日は晴れ。明日は雨。いつかと同じ天気模様。洗濯は後でいい。

 十分後のスヌーズが鳴る。音を止めて、ベッドから起きる。安物のパジャマのまま、髪にブラシをかける。観葉植物のつるや葉は、私のベッドやチェストを覆い尽くしている。

 鏡の向こうの私は、両目が浮腫むくんでいた。少し体が重い。風邪かな、やだな。

 今日は私が朝食の担当だっけ。リビングの扉を開ける。キッチンでトーストを焼いて、マーガリンを用意したら、彼の部屋の扉に手をかける。

 ベッドの中で、彼は心臓発作を起こして死んでいた。

 やっぱり私が朝食を担当するのはダメみたい。

 リセット。


【38,327,950回目】

 目を覚ます。目覚ましのアラームを止める。スヌーズは設定しないで、また布団をかぶる。一昨日も昨日も今日も雨が降っている。きっと明日も明後日も雨が降るんだろう。体が重くて仕方がない。

 観念してベッドから起きる。疲れた。ブカブカのスウェット。観葉植物のつるや葉は、私の部屋中にひしめいて枯れている。

 鏡の向こうの私は、両目が浮腫むくんでいた。この顔も見慣れたな。あぁ、ぶさいく。

 今日は私が朝食の担当だっけ。嫌だな。確定じゃん。リビングの扉を開ける。キッチンでトーストを焼いている彼の姿があった。早く目が覚めたから、だって。嬉しい。

 彼は今日の仕事、急に休みになったんだって。良かった。これで交通事故に遭うことも、通り魔に刺されることも、心臓発作とか犬に噛まれたとか猫に引っ掻かれたとか変な理由でも死ぬことはない。

 けれど彼は死んだ。今。私の目の前で。

 どこからともなく飛んできた洗濯物がバルコニーに引っ掛かって、それを取ろうとした拍子に突風が吹いて、彼の体がくるんと手摺を乗り越えてしまった。

 何でだろう。何でなんだろう。

 また死んじゃった。

 リセット。


【123,456,789回目】

 私は起きている。目覚ましのアラームは鳴らない。SNSも見ない。

 よれたスウェットのまま、ただベッドに腰掛けている。

 これで123,456,789回目。日数にすると大体338,013年分。

 何度も繰り返している。その度に、何度も彼は死んでしまう。

 起きる時間を変えても、スヌーズの時間を変えても、着るパジャマを変えても、朝食作りの担当を変えても。彼は必ず、今日、死んでしまう。

 彼が自分で自分のことを殺してしまった日から、文字通り私は時間に閉じ込められてしまった。寝ても、覚めても、命日を繰り返す。

 繰り返した分だけ泣いて、目の浮腫むくみが引く時間もなくて、ぶさいくな顔にも慣れちゃった。

 だから。きりのいい数字になったらやめようって決めた。

 綺麗に並んだ自然数の列。円周率では523,551,502 桁目に出てくる数字。「面白いよね」って君が歯を見せて笑ってくれたの、あれが最後だったね。

 私、前に「円周率って終わりがあるのかな」って聞いたことあったよね。そしたら君は「円周率は終わりがない超越数だよ」って教えてくれた。どれだけ膨大な桁の円周率を使っても、正しい円周は導き出せなくて、近似値にしかならない――だっけ? ごめん、変に間違って覚えちゃったかも。超越数じゃなくて無理数だっけ?

 馬鹿な私は頭のいい君の説明を聞いても、途中から分からなくなっちゃって、ほとんど聞き流しちゃった。ごめんね。私のこういうところ、君は嫌だったのかな。

 アラームをかけたのにすぐSNSを見ちゃうところも、ときどき朝食の担当をすっぽかすところも、観葉植物を上手く育てられないところも。嫌になったから君は死んじゃったのかな。

 君が悩んでいることに気づけなかったからかな。仕事がうまく行かなかったからかな。学生時代にイジメられてたからかな。私の言葉が、行動が、私が知らない間に君を傷つけていたのかな。

 どれだけ問いかけても、君の答えが返ってくることはない。死体だもんね。紫色の唇が喋りだしたら、さすがにビビるもん。

 絶対に終わらない円周率のように、私がどれだけ今日を繰り返しても、きっと答えが分かる日は来ないんだろうな。

 でも、ひとつだけ分かることはある。私の存在は、君の生きる理由になれなかったこと。

 だから。今日。私もいびつな円環を終わりにします。

 私はベッドに倒れ込んで、部屋を埋め尽くす腐ったアイビーの蔦にくるまる。ジェラピケのパジャマも、ドレッサーも、シュシュも、もういらない。君もトーストを焼かなくていいし、仕事にも行かなくていいよ。

 蔦が私の首に絡まる。腕に巻きつく。足を包んでいく。私のベッドに寝かせた、君の体を巻き込んでいく。

 今日は首吊りだったね。痛かったよね。苦しかったよね。私も同じ苦しみを、痛みを味わうよ。それが馬鹿な私にできる、唯一の償いだから。

 霞んでいく視界に、カーテンの隙間から青空が見えた。

 ねぇ、いい天気だね。今日は、久しぶりに、外へ出よっか。一緒に、ね。

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