雨の中の友人

平原巧海

 私はレストランの中に入り、若い店員に案内された席に座った。おいしそうな香りが宣伝活動のごとく、私のそばまで漂ってくる。他の客の前に置かれる美しき料理の品々が目に入り、食欲がそそられる。

 外は今にも雨が降りそうな厚い雲で暗くなっていた。どんよりとした風景は店の照明をより輝かせていた。

 私はこの頃、フリーのグラフィックデザイナーをやっていた。デザインするのは、雑誌やWEBサイトなど、様々だった。そんな中、私は大学時代からの友人である近藤海斗に仕事を依頼された。その内容を聞くために、この店で待ち合わせをしていた。

 私は目を閉じて、時間をつぶす。寝るわけじゃない。ただ取り留めのない考えを繰り返すだけだ。羊を数えるのとは違う。考えてみれば、なぜ眠れぬ夜に羊を数えなければならないのだろう。もっと他の動物がいたじゃないか。そう、こうやって考えにふけり……。

 彼の声が入口あたりから聞こえてきた。そして、足音がこちらに向かって段々と大きくなっていき、このテーブルのところで止まる。

「目を覚ましたらどうだ」彼の野太い声を聞くのは久しぶりだった。

「ずっと前から覚めているよ。で、奥さんと子供は元気かいって聞くべきかな」

「答える気はない。君と関わるうえで、言う必要のないことだ。そうだ、こうやって無駄なことを削いでいくんだよな。そうすれば、問題なんてなくなる」

 私は店員を呼んで、コーヒーを頼んだ。彼も同じものを頼んだ。

「あんた、いつか自分から死を選びそうだな。そういう雰囲気がもう漂っている。フラグっていうのかな。こういうのは」

 彼は苦笑いをした。「コーヒーを頼む時、どこを見ていた? 君はメニューを見ていなかった。あと店員の顔も見ていなかった」

「無駄という概念について考えていることは、あんたと私では大きく異なるみたいだね。注文の時、私は斜め前でパスタを食べている男を見ていたんだよ」

「仕事の話をそろそろ始めてもいいかな。不安を覚えるのはわかるけど、話を前に勧めなきゃいけない。心の準備なんていらないのさ。仕事はそういうものではない。まるで失敗すると念じるような儀式は不要なのだよ」彼はそう言って、店の前を通る車を目で追っていた。彼の中で迷いがあるように見受けられた。

「拒んでいたのはあんたの方だろ」

「僕の方からここに来たんだ。そんなわけないだろ」

 店員が私たちの頼んだものを持ってきた。私はそのコーヒーが熱そうだったので、少し冷ました。

「それで仕事なんだけど……」彼はコーヒーをうるさくすすって飲んだ。

「私は最近、どんな仕事でも受け入れるようになってきた。年は重なっていくものだからね。傲慢なことを言える立場は確保しづらくなってきている」

 彼は困惑したような顔でまた窓の外を見つめていた。「まず、金を渡さなきゃ」そう言って、机の上に金が入った封筒を置いた。

 私はそれにおそるおそる手を伸ばし、中を見た。かなりの大金だった。会社員時代の月給より高い。どうしてこんなに、と彼に聞いた。

「外にある青い自転車だ」彼は自転車置き場の方を指でさした。確かに彼が示している方向には、新品みたいにぴっかぴかの青い自転車があった。「あれを使ってくれないか。妻が使っていたものなんだ。彼女が新しいのを買いたいって言うんでね。でも、捨てるにはもったいなかった」彼の口調はとても悲しげだった。喪失感に満ちた弱々しい声。彼の顔は橋の下にできる影のようだった。

 私は何も言わず、コーヒーを一口飲んだ。彼も同様に黙り込んだ。

 次に私が口を開いたのはその五分後だった。「使えばいいんだね、あの自転車を。それは引き受けるけど、さすがに悪いからこの金は全部返すよ」

「だめだ。それは君が受け取らなきゃ」彼は私の方に、封筒を強く置いた。

 私は申し訳ないからと言って、何回も彼に返そうとしたが、彼は絶対に受け取らないという姿勢を貫いた。彼との謎の戦いに負けて、持ってきたバッグに仕舞った。

 私たちはコーヒーを飲み切り、別々に会計をして、店の前で別れた。私は青い自転車に乗って家まで帰った。想定より早く家に着いた。

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雨の中の友人 平原巧海 @hiraharatakumi

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