大晦日、やる気はどこから

@sm3754

1話完結

 この話は俺が社会人になって、同僚への酒の席での小話だと思ってくれ。大したことはないことを先に言っておこう。

 俺はおんぼろアパートの一室で目が覚めた。布団の外はムカつくほど寒くてしょうがない。頭の上、この時は寝っ転がっているから正確には上ではないがともかく、布団から腕だけ出してスマホを掴む。画面を見ると日付は一二月三十一日。時刻は十一時ちょっと過ぎ。、口から意味もなくため息が漏れちまう。俺はいつもため息をついてばかりなんだ。

 布団の暖かさにいつまでも包まれていたいが、そんなことじゃ人生あっという間に終わってしまうから意を決して体を起こし、布団から飛び出す。冷気で体が覚醒すると、急に小便に行きたくなった。冷えを避けるために板の間をつま先で歩き、トイレに向かう。済ませて部屋に戻る頃には寒さに体が慣れ、腹が減ってきた。そういえば昨日は一人で酒ばかり飲んで食事をとっていない。まずは何か食べようと決めてさっさと布団を片付け、パジャマから着替えた。

 俺は普段からあんまり物を食わない。俺が小学生の頃から食わなかった。だから俺はあんまし背が伸びなかったし、いつも貧血気味で顔が白いんだ。そして子どもってのは残酷でまだ共感する能力が低いから、俺は同級生から「もやし」っていじられてたよ。おまけに勉強もできるほうじゃなかったから、まあ他人からちょいと軽蔑されてた。だからっていじめられてたわけじゃないから、今日まで平和に生きてこられたよ。人から虐げられるってつらいよな、死にたくなっちまうくらいには。

 俺は冷蔵庫に余ってたキャベツの葉を一枚むしって生でかじりながら、目玉焼きを二個焼いた。半熟で焼けたらさっさと口に放り込んで豆乳で流し込む。これで朝食終了。俺は凝った料理はつくらない。自分のために手をかけて料理をするほどこの世で寂しいことってほかにないと思うぜ。味の感想って他人に言いたいものだから、俺は一人で料理はしないんだ。他人に料理を振舞ったこともないんだが。

 髭を剃って顔を洗い終わると十二時になった。今日は大晦日だから大学もバイトも休みで喜ばしいことのはずなんだ。大学生にとっちゃこんなめでたい日もないが、俺はどうにも気分が上がらなかったね。その理由は明確だったし全部俺のせいなんだが、それでも俺はやる気になれなかったんだよ。卒論なんて書くことにね。手を付ければやる気は後からついてくるなんてことがよく言われるが、実際卒論をつくり始めてもすぐに飽きちゃって続かないんだな。四つ葉のクローバー千枚見つけてくださいって方がまだましだったよ。卒論の提出が年明けの二月までだから期限はあと一か月、でも俺はなんにも手を付けていない。そんな面倒ごとが常に頭を占領してるから何をするにも卒論、卒論、卒論をやってないぞってなるんだ。いい加減うんざりしているんだが、だからってやる気になったりはしないね。むしろ余計に遠ざけたくなっちまう。卒論ってだけでため息が出た。

 家でスマホのSNSや無料の漫画、ソシャゲをやったりしていれば時間をあっという間に浪費し尽くして一日が終わる。そうしても良かったんだが、今日が大晦日ってなると話が違うぞってなる。どう違うのかは俺にもよくわからんが、何となく特別な日を無駄にしたくないんだよ。どうでもいいと思っていた学校も卒業式には少しだけ寂しくなるみたいな感じかな。上手く言えないな。まあ、そんなこんなで俺は無意味にも外に出てみたんだ。

 だからって行く当てなんてないからすぐにどこに行こうか迷ってしまった。行き先を決めるため住宅街にある遊具がブランコと鉄棒のみのちっぽけな公園のベンチで座った。見上げた空は一面灰色で、埃に覆われているみたいだった。やたらと静かで遠くの自動車が走り抜ける音だけが響く。ただ座ってたら、なんだか一人でいるのが虚しくなってきてスマホで誰かに電話したくなった。電話できそうな人間を見つけては電話をかけていく。いつもの俺ならいきなり電話で連絡と取らず、文章のメッセージを送る。それが礼儀ってもんだが、今日に限っては手間でしかなかった。大半は大学の連中だが、最初の二人は電話に出ない。忙しい振りしやがって、とムカついたが、三人目は電話に出た。そいつは木村っていうんだが、高校からの知り合いだった。別に深い交流があったわけじゃないが、大学でたまにあっては話をした。決して悪い奴じゃない、むしろいい奴だけど俺とは社交辞令的な、天気の話しかしない程度の仲だった。だから電話に出たときは驚いたね。思わず咳払いして喉の調子を整えちまった。

「伊藤だけど、いま大丈夫?」

『別にいいんだけど、なんかあった?』

 普通ならわざわざ電話をかけてきた用件を聞かれたらちょっとイラっとするが、大して仲良くない奴から電話がかかってきたらそんな反応するよなって申し訳なくなったよ。

「いや、なんもないんだけどさ。ただ何となく話したくなったんだよ」

『ああ、そうなんだ』

 木村は困ってたね。俺は気が引けちゃったな。でも言ったからには必死に何か話そうとしたよ。

「大晦日なのに一人で退屈だったんだよ。……ああ、今実家にいるんだ。僕は両親と仲悪いから帰んないな。……へえ、いいね。……僕も寿司は食べたいよ」

 なんて感じで話題を振れば付き合ってくれる木村は本当にいい奴なんだ。

「そういえば就職先決まった?」

『そりゃあね。七月には就活終わってたさ。良くも悪くもないところに決まったけど、本当のところは実際に働いてみないと分からないって感じだな。伊藤君は?』

「実はまだなんだな。大体、どうにも働くってことに抵抗があるんだ。四時間とかのバイトならいいけど、毎日八時間働くって長すぎないかって思うんだよ。大勢の人間は自分の労働時間に疑問って感じないのかなあ、僕は不思議で仕方ないね」

『まあ、気持ちは分かるけど。社会に出たらほとんどの時間が仕事で終わって、やりたいことできる時間なんて少ないもんね。』

「でもそれを大声で言うものなら袋叩きさ、甘えんなって。でもそんな奴らの一部には賛成したい人間も結構いるんだけど、多数派でいたいから何も言わないんだよ。実際に言ったからって仕事の時間が減るわけじゃないしな。会社辞めれば、で終わり」

『でも、働かないとねぇ……。』

 木村はいつだって話を合わせるのが上手いから僕の話に納得しているのか微妙だったが、共感はしてくれているようだった。これを馬鹿な奴に話そうものなら、思考停止した脳みそで俺をなじってくるだろう。黙って働け、と。俺だって文句を言いながら結局は仕事をしている八時間、心を閉ざしながらも働くだろうが、疑問くらい言う権利はあるだろう。そのことが低能には分からないのだ。

「まあ、卒論になんも手を付けてないから、卒業できるか危ういんだけどね。……いや、留年はないな、親が許さないから。……中退したって死ぬわけじゃないから、もったいないけど。……うん、……そう、じゃあまた今度、ありがとう」

 木村は家族とどっかに出かけるらしく、急に通話が終わってしまった。話していて気がつかなかったが、冬なだけあって手が冷えて震えていた。時刻は十三時を回るところで、また俺は一人になったが、幾分清々しさを身に纏っていた。ベンチから立ち上がって、駅に向かい、中心市街地に行った。移動しているときは特に何かを考えることはなく、他人の顔を眺めていた。でもふと映画のことが思い浮かんで上映スケジュールを見れば、目ぼしい作品があったから、映画館に行った。薄暗く掃除の行き届いた館内はあまり人がいない。人込みや行列といった他人が障害物として立ち現れてくることにくそくらえって叫びたくなる俺としては嬉しいことだった。

 この時僕が観た映画は洋画のクライムサスペンスとだけ言っておこう。出来は悪くなかった。それよりも俺は基本的に洋画しか観ない。邦画を観ても役者に見ごたえがないのだ。欧米の外国人ってのが、俺にとっては大人びているし、イケてる役を演じるにはもってこいな顔立ちをしている。でも日本人を映画という優雅な画面を通して観ても魅力に欠けるんだよ。顔が幼いんだな。単一民族の殻に籠っているから成長してないんじゃないかって考えたこともあるね。それは冗談だが、無意識にアジアより欧米の方が優れているって思っているのかもしれない。そっちの方が真実に近いような気がするよ。人間、どんなに公平に見ようとしても、無意識に差別してることってあるさ。断言できるね。だから差別しないことより、差別していることが露呈した時の自身の振る舞いを良いものにするってのが大事だと思うよ。何が良いかは俺にもよくわかんないが、何が良くないことかが全く分かんないわけでもないから、何とかなるさ。ここだけの話、映画って本筋よりイカした主人公の些細な日常の行動、例えばコーヒーが好きでよく飲むとか、筋トレしてるとか、トマトが嫌いだったりね、なんでもいいんだ。そんなシーンが一番心が惹かれるんだよ。距離感が縮まったように錯覚するからだろうな。これって俺だけかな。

 劇場を後にして、俺は外を歩いていた。時刻は一六時を過ぎた頃だったから太陽は沈みかけ、車が前方を照らしながら走っていた。歩道からその様子が規則正しく動く生き物みたいだった。特に赤信号で車が緩やかに速度を落とすところが滑らかで、人工的な野生動物という矛盾を感じさせた。俺は愉快だった。そうでもないと変なことを考えたりはしないからな。

 周りにいる人々はカップルや何かのグループばかりだった。俺みたいに一人で歩いている人間はほとんどおらず、なんだか人の目が気になりだしたんだ。一人でいる俺、浮いてないかって。だから俺は一人でいても違和感のない場所に行こうって思ったんだ。そしたらバーにでも入って酒でも飲みたくなった。大学の奴と言ったことのある、ちょっと安めのバーを思い出したからそっちの方向に歩き始めたんだ。距離は大体一キロメートルってところだな。本当はバーはもっと近くにあったんだけど、一人で勝手知らないバーに入ろうなんて勇気が俺にはなかった。小心者なのさ。

 バーに着いたから店に入ると、客は六つあるカウンター席に女性客が一人、足の低い丸テーブルを四席で囲んだものが三つあるうちの一つに二人の男性客が向かい合って座っている。俺は入り口から二番目のカウンターに座った。注文を取りに来たバーテンに「マティーニを」と言ったが、どうにもかっこつけてしまい恥ずかしくなった。背伸びしちゃっている俺がいるのだ。今になってバーに来たことを後悔していた。服装だってダウンジャケットにスウェットのズボンだから店の雰囲気に合っていない。追い出されたって文句は言えまい。店の内装を観察するふりをして一番奥のカウンターに座っている女性を見た。黒いワンピースに整った顔立ち、物憂げな目、どれもこれもバーという空間に溶け込み、バーで生まれて育ったんじゃないかと思いたくなるほど洗練されていた。俺は直前に見た映画に影響されただけのガキだった。映画ってのは面の良い俳優がかっこつけているから、手の施しようがないほどイカした人物が出来上がっちまう。ここに来ちまったのはそんな映画のせいだ、って責任転嫁したよ。そうでも思わないと、俺が自分の意思で来たなんて恥ずかしくて言えたもんじゃないからな。そんなことを考えてたらバーにいることが後ろめたくなってきちゃって、紛らわすために目の前のマティーニを味わうようにちびちびと飲んだんだ。そして飲み終えたらすぐに替えを注文して、またちびちびと飲んだ。それをかれこれ一時間以上は続けたね。その間にちょっとした客の出入りが合って、奥に座っていた黒いワンピースを着た女性はいなくなってたよ。俺は五、六杯飲んでだいぶ酔ってきたからそろそろ頃合いかなと思い始めていた。いい時間を過ごせた。じっくり美味しい酒を飲んで、頭を空っぽにしていると、店に並んでいる瓶がラベルに小さい字でなんて書いているかって分かるくらいには視界がはっきりしてきて、天国にでもいるような心地になったね。最後の一口を飲んでから、会計をする前に一息ついて酔いを醒ましてたんだ。その時に店に入ってきた一人の女性が入り口から一番近い、俺の隣のカウンター席に座ったんだ。まあ、カウンター席に一つ空けて他の客が座っていたから、挟まれない形になるために俺の隣に座っただけだが。バーテンが女性に気づくと笑顔になり、挨拶を交わしている。女性が常連のようだった。横目で見る限り、俺とそんなに歳は変わんないようだが、服は洒落たものを着ていた。顔は美人とまではいかなくとも人のよさそうな表情は疑いを知らない純粋さを感じさせた。横で話している二人の会話が終わったら会計を済ませて店を出ようと考えていたが、なかなか終わらない。別に急ぐこともないから頬杖をついて無心で待った。そしたら急に女性から声をかけられた。最初は俺に話しているなんて微塵も思っていなかったから聞き逃したが、はっきりと、もう一度声をかけられたときは驚いたね。横を見ると、女性とバーテンが俺を方を見ていた。

「若い方だと思ったんですけど、今は大学生ですか?」女性が優しく質問する。

「まあ、はい、そうです」

「こちらのお客様は六杯も飲んでいただいたんですよ。ありがとうございます。もう一杯いかがですか。サービスしますが」バーテンは緩い風のような爽やかさで話す。

「ああ、じゃあマティーニを半分だけいただけますか」

「私も同じので」

「畏まりました」バーテンが頭を下げ、離れていく。

 俺はすっかり会計のタイミングを逃した。まあタダで飲めるのならそれはそれで構わないのだが。

「私も大学生なんですよ」女性は大学の名前を言った。

「僕も同じですよ。今は四年生です」

「私も四年生なんですよ。学校でお会いしたこともあったかもしれないですね」女性は明るく話す。

「こちらの店にはよく来るんですか?」俺は何となく大学の話はしたくなかったから話題を変えた。

「ここのオーナー、さっきの人なんですけど。私の親戚なんです。お酒が好きだからよくここに来てちょっぴり安くしてもらってるんです」

「なんかいいですね、そういうの。僕にもそんな親戚が一人いてくれたらよかったんですけど」俺は素直に少し羨ましかった。

 バーテンがマティーニを持ってきて、「ごゆっくりどうぞ」と言ってまた離れていく。

俺は一口をゆっくり飲む。今までもさんざん飲んでいたのに、喉を通る時やけに熱く感じた。

「普段はよくお酒飲むんですか?」

「たいていは缶ビールとかチューハイを一人で飲んでばかりですね」

「そうなんですね。私も、一人で飲むことが多いです。自分のペースで丁寧に飲むのが好きなんですよ。充実してるなって思えるんです」

「何がですか」

「もちろん、生きていることですよ」女性は憂いのないまなざしを俺に向ける。

「お名前、伺ってもいいですか」

「僕は伊藤祐一って言います」

「伊藤祐一さんですね。私は石川玲奈です。……つかぬことですが伊藤さん、どこか具合でも悪いんですか?」

 俺は戸惑った。酒はたくさん飲んだが、俺はアルコールには強い方だったから平気だった。むしろ意識が冴えていたくらいだった。

「そんなことないと思うけど、どうして?」

「なんか悩んでるというか、顔がこわばって見えたからかな……。気のせいだったらごめんなさい」

「全然、謝ることはないよ」

 俺は気にしないようにしていたが、やっぱり卒論、就職っていう俺にとっての魔の手はどこまでも追ってくるらしい。知らぬ間に表情は情けなくなっていたのかもな。だから俺はささやかな、あながち嘘でもない冗談を言ってみようと思ったんだ。

「僕はね、スパイになりたかったんだよ。イーサン・ハントやジェームズ・ボンドみたいな感じのスパイにね。でもこの歳になってようやくなれないってわかって絶望していたんだ」

 石川さんは明らかに冗談だと見抜いて微笑み、なんて返そうか楽しんでいるようだった。俺は冗談の通じる相手であったことに内心ほっとした。

「確かにかっこいいもんね。他にはなにかないの?」

「元特殊部隊とか、殺し屋とかだね」

「絶対に映画の見すぎだね、伊藤君は」石川さんが笑う。

「石川さんはなりたいものとか、子どもの頃にあった夢とかあった?」

「私はね、ケーキ屋さんになりたかったよ。私もケーキが好きだけど、両親と妹も大好きだったから、ケーキがあるだけで幸せになれる家庭だったんだ。それでケーキをつくれば家族みんなが喜ぶと思ったから、ケーキ屋さん。それも中学生になる頃には醒めていたし、父が糖尿病になったしね」

「で、今はバーメイドかソムリエールになりたいの?」

「お酒はただの趣味です」子供に優しく注意するような口調で言った後、「よく知ってるね、バーメイドとか」

「偶然だよ。ネットサーフィンしてればいろんな情報に行きつくからね」

 ネットじゃなくテレビだったかもしれないが、どっちでも変わりはなかった。

 その後も数分、俺は会話をしていた。その時間は短かったものの、全身を優雅な熱に包み、洒落た外国で余生を過ごしているような気持ちにさせた。人生の延長戦みたいな。

 石川さんと連絡先を交換してから、俺はバーを出た。時刻は十八時前、いつになく腹が減っていたから近くの博多ラーメンを食べた。あとはなんとなく本屋をうろついて、めについた『アシェンデン 英国秘密情報部員の手記』っていう小説を買った。特に読んでみたい本ではないが、表紙とタイトル、軽くページをめくった様子から興味を惹かれたんだ。物を衝動的に買ったりなんかしないが、本だとたまに一冊、俺の触覚に訴えてくるのを買ってしまうんだよ。高い買い物ではないし、長い時間楽しめるから俺は本が割と好きなんだ。退屈な時もポケットに一冊持ってればどこでもドアみたいに別世界に行けるような考えで、一時期はずっと本を持ち歩いてたよ。まあ友達が多い方ではないんでね。

 本屋を出ると中心街なのに人が少ない気がして、大晦日ということを思い出した。意識の冴えもすっかりくすんで、微かな睡魔によって欠伸が引き起こされた。年の瀬による束の間の歓喜を背に、電車に乗って帰路に就いた。家に入るなり上着を脱いで床に寝転がった。耳を澄ましてみると隣の住人の水道の音が聞こえるだけで、静けさが染み渡ってくる。俺は買った本を数ページ読んでみて、興味をひかれたが続きを読む気にはなれなかった。そんな予感があったんだよ。今はなんか誰かと話したかったんだ。やけに言葉を発する相手を欲していたんだけど、寂しいからではなかったんだな。どっちかっていうと苛ついていた。わざとらしい大きなため息をついてから本を手放し、スマホで通話できそうな相手を探した。高校の同級生だった女子に電話をかけたよ。小林っていうんだが、相当なおしゃべりで気のいい性格だから友達が多い印象だったな。俺もそのうちの一人ってだけなんだが、まあ気の許せる相手だったから俺は気に入ってたけど、決して恋愛には繋がらなかったな。なんでも異性同士が恋愛に発展すればいいってわけじゃない、友達としてのほうがいい付き合いができる場合だってあるさ。

 胡坐に座り直して発信音を聞いている間、なんて話そうか考えてたな。もう三年以上も喋ってないから、柄にもなく言う内容を組み立ててたよ。で、相手がでたから俺は言葉を待っていたんだが、喋ったのは男性だったんで心底驚いたね。俺がかける相手を間違えたのだと思った。でもそんなことはなかったんだよ。

『お前が遥香の浮気相手か』

 遥香ってのは小林の下の名前なんだ。で、相手はなんか怒ってたね。

「いや、違いますけど」

『嘘つくな。今そっちに遥香がいんだろ。代われ』

 お相手は俺が小林と付き合っていると勘違いしているのは明白であるが、𠮟責するような高圧的な言い方に無関係なはずの俺も血が上ってきちゃってな。

「何か勘違いしているようですけど、小林とはただの同級生です。今はひさ……」

『お前はそう思っているだけで遥香をその気にさせたのはお前だ』

 その気ってどの気だよ。俺が喋ってる途中でかぶせてくんな。会話をしろよ。色々文句はあったが我慢して釈明を続けたよ。

「一応確認しますけど、あなたは小林と付き合っている方ですか」

『よくそんな分かりきったことが聞けるな。馬鹿にしてんのか。そうだろ』

 相手の思い込みが強すぎて話が進まない。もう切ってもいいかもと思ったが、こいつと話すだけでも今はいいや、とどうでもいい気持ちになって惰性で継続した。

「そんなことはないですよ」

『いや、あるね。お前は俺を見下してる。喋り方から分かる。……お前はどうせいい大学でて馬鹿を見下してんだろ。いいよな、金がある家に生まれただけで大学に通わせてもらってな』

「なんの話ですか」

『黙ってろ。俺ん家は金が無かったからせいぜい短大が限界だったが社会に出たらお前みたいな知識だけ詰め込んだ馬鹿が上から目をかけられて、給料もいいんだ。ふざけんな、大した仕事もできないくせに取るもんだけは取っていきやがって』

相手は自分の不満を興奮して俺にぶつけてくるが、大概は取るに足らない妄想でしかない。まあ、言いたいことも分からないではないが。

「僕はまだ大学せいですが」

『ああ、そう。じゃあこれから社会に出たら俺が言ったみたいに大卒ってだけで優遇されるんだな。いいよなあ、勝ち組は』

 俺はその卒業すら危ういのだが、留年もできないし。そんな反論は惨めで、相手の気を悪くさせるだけだからやめといた。大卒だからって勝ち組という短絡さに期待を裏切られたようにあほくさくなって、やっぱり電話を切りたくなったぜ。

『そんなことより遥香と代われって』

「だからいませんって」正真正銘の一人ぼっちであることはどう証明したらいいのか。

「なんで小林のスマホをあなたが持ってるんですか」

『分かりきったこと聞くな。遥香が今日家を飛び出したときに忘れてったんだろ。知ってて電話かけてるくせにとぼけた振りするなよ』

「いやだから……」って言ってからため息をついて、相手のことが面倒になって電話を切った。

 突然電話を切られたことが不服だったのか三回も電話がかかってきたが、俺は出なかった。しまいにはうるさく感じてスマホの電源を落とした。はい、さようなら。

 で、俺はテレビをつけてゲームを始めた。傍らにはコップに注いだ豆乳を置いてね。二時間ほどやっていると飽きてきて、ゲームをしながら卒論のことを考えちまった。不快にはなったけど、不思議なことにそろそろ始めるかっていう気分になってたな。今までは準備に手間取ってただけでまだゴールには間に合うぞって。なんでやる気が湧いたのか、その理由がへんてこで俺も分からないし、みんなも分かんないだろうが、なんか今日関わった人達のために頑張んなきゃって思ったからなんだ。決して自分のためじゃないんだな。今も決心した時の、頭からさらりとした熱が浮かび上がって全身へ流れてく興奮を覚えている。そこからは毎日卒論を書いたな。期限より早く完成させて、それから就職活動もやって、無事決まったよ。本当にめでたく終わった。

だからこうして酒の席の余興として会社の同僚に話せてるんだよ。この話で得た教訓があるかって? 実を言うと、俺は教訓ってのが好きじゃないんだ。だって『虎穴に入らずんば虎子を得ず』って教訓がある一方で『君子危うきに近寄らず』ってのもあるだろ? 事例ごとの成功体験を他の事例でも活かそうって考えが間違ってると思うんだよ。本当の意味で教訓なんてないのさ。それでも強いて教訓じみたことを言わせてもらうなら、『やる気の種はどこにあるか分からない』ってことじゃないかな? まあ当てにしないでくれ。結局、先の人生は誰にも知りうることができないんだからさ。

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