阿蘭陀通詞になったぼく ~ 現代中学生、江戸の出島で通訳はじめました!~
近藤良英
第1話
第一章 目を覚ましたら江戸時代だった
「おい、誠、寝てんのか!」
ビシッ。
チョークが額に当たって、誠まことはびくっとした。
痛い。額を押さえると、指先に白い粉がついた。
ここは、長崎市内にある中学校。
二年B組の教室。午後の日本史の時間。
黒板の前では本木先生がチョークを持ったまま、仁王立ちになっていた。
腕を組み、まるで武士のような鋭い目で誠をにらんでいる。
「次のページ、出島ではこんな生活ぶりだった……。ほら、続けて読んでみろ」
「はぁい……」
誠は気のない返事をして教科書を持ち上げたが、頭はぼんやりしていた。
昨夜も遅くまでスマホでゲームをしていて、睡眠時間は三時間。
おまけに昼休みに購買で買ったコッペパンが腹にずっしり残っている。
「眠い……。このままじゃ、また怒られる……」
心の中でつぶやきながら、なんとか目をこすってみた。
けれども、まぶたが重くてどうにもならない。
先生の声は、だんだん遠くの方でこもっていく。
――トントン。
どこかで木の板を叩くような音が聞こえた。
机の角に額をつけたまま、誠の意識はふっと沈んだ。
暗くて、遠い。けれど、あたたかい光が差している――。
どれくらい経ったのかわからない。
耳の奥で、また誰かが怒鳴った。
「おい、誠之助、寝てんのか!」
――誠之助?
誰それ?
ハッとして目を開けた。
そこは、見慣れた教室じゃなかった。
畳の上に、低い木の机がずらりと並んでいる。
机は古びた木でできていて、脚の形が神社の鳥居みたいだ。
まるで時代劇で見た寺子屋の机。
誠はそのうちの一つに、正座して突っ伏していた。
背中がジンと痛い。竹刀で叩かれたような痛み。
「いたっ!」
思わず声をあげた誠の前に、恐ろしい顔の男が立っていた。
四十代くらい。濃い眉、きりりとした目つき。
手には本当に竹刀を持っている。
「そんなことで、うちの跡継ぎが務まると思うか!」
「え? 跡継ぎ……?」
誠は混乱した。
しかも先生の格好が、信じられないほど古風だった。
黒い羽織に袴。
よく見ると、自分の体も小袖に袴姿。
足元には白い足袋が見える。
「うそだろ……コスプレ?」
「さあ、読んでみろ」
男が言った。
机の上には、和紙を糸でとじた教科書のような冊子がある。
開くと、見慣れない文字が並んでいた。
「L…e…u…k… j…e… t…e… o…n…t…m…o…e…t…e…n……?」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
すらすらとオランダ語が出てきたのだ。
「よし」
男はうなずき、竹刀を下ろした。
教室を見渡すと、二十人ほどの生徒が同じように正座している。
みんな袴姿。髪型は――なんと、ちょんまげ。
月代さかやきの幅が狭く、長めの髷を結っている。
それが当たり前のように並んでいた。
先生の後について、生徒たちが大声で唱和する。
「Luek je te ontmoeten!」
誠もつられて声を出した。
口が勝手に動く。
頭の中に意味が浮かぶ――「お会いできてうれしいです」。
なにこれ、俺、どうなってるの?
授業が終わると、係の生徒が「起立、礼」と号令をかけた。
全員が一斉に頭を下げる。
竹刀の先生は、誠を指さした。
「誠之助、おまえは残れ」
「え、ぼく……?」
他の生徒が出ていくと、静まり返った教室に誠だけが残った。
先生は机の前に正座するよう指で示した。
背後には金の屏風が立てられ、長崎の港らしい絵が描かれている。
白い帆船が何隻も浮かび、岸辺には瓦屋根の家々。
「おまえは優秀だが、態度がなっとらん。
みなの手本となるよう、心して励め」
「……は、はい」
「明日は出島に、新しいオランダ商館長――カピタンが赴任してくる。
おまえもわが本木家の跡継ぎとして、私とともに出迎えに行くのだ」
「出島……?」
その言葉を聞いた瞬間、誠の背中に電流が走った。
昨日の授業で、ちょうどその話をしていた。
「出島」は江戸時代の鎖国期、長崎の人工島。
オランダ商人だけが出入りを許された、日本唯一の窓口。
まさか――。
「夜中まで勉強するのはよいが、授業中に寝るな。わかったな、誠之助」
先生の声を聞きながら、誠は頭が真っ白になった。
誠之助――。
それは、今この世界での「自分」の名前なのだろうか。
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教室を出て廊下に立つ。
土の匂い。風がぬるくて重い。
見上げると、空がやけに広い。
どこにも電線もビルもない。
赤く染まった夕焼けの向こうに、カモメが飛んでいた。
「ここ……どこ?」
声に出しても、返事はない。
校舎の入口には黒い木の看板がかかっていた。
「本木流阿蘭陀通詞伝習所」
見覚えがあった。
そうだ、図書館で見た写真――江戸時代、長崎にあった通詞の学校。
「ひょっとして、江戸時代……?」
足が震えた。
汗が背中をつたう。
そのとき、背後から声がした。
「坊っちゃん、まもなく夕餉ゆうげでございます」
ふりむくと、初老の男が立っていた。
灰色の袴、丁寧に結んだ帯。
穏やかな笑みだが、目の奥は鋭い。
「こちらへどうぞ」
男に案内され、誠は校舎の裏にある大きな屋敷へ向かった。
瓦屋根の長屋門をくぐると、広い庭があり、灯籠の脇をコオロギが跳ねた。
「完全に……江戸時代だ……」
呟く声が震えた。
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屋敷の中は、木と畳の香りで満ちていた。
廊下の先では灯明がゆらゆらと揺れている。
使用人らしき人が何人も動いていた。
女中が障子を閉め、若い男が盆を持って行き交う。
すべてが映画のようだ。いや、映画以上に生々しい。
通された茶の間では、すでに夕食の支度が整っていた。
十畳ほどの座敷に、家族がずらりと正座している。
上座にはさっきの先生――父親らしい男。
その隣に、やわらかな表情の女性が座っていた。桃色の小袖に、きっちりとした丸髷。
さらにその横には、赤い振袖の少女。年の頃は十二、三。
大きな瞳が誠を見て微笑んだ。
「お兄さま、こっちです」
妹? どう見ても、そう呼ばれているらしい。
促されるまま、誠は母の向かいに正座した。
ちゃぶ台の上には、白い飯に煮魚、鯨の腸の輪切り、半熟卵の吸い物。
どれも見たことがないような料理だが、香りは悪くない。
母がやさしく言った。
「さあ、召し上がれ」
「……はい」
箸を手に取る。手が震える。
魚の身を口に入れると、ほんのり甘い。
味噌と醤油の香りが口いっぱいに広がった。
「おいしい……」
思わずつぶやくと、母が微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
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「徳川幕府が開府して二百年。
わが本木家は、この長崎で代々阿蘭陀通詞を務めてきた」
父の低い声が響いた。
湯飲みにお茶を注ぐ老女が、すっと身を引く。
「惣領であるおまえに、家の未来がかかっている。
名村家の旺次郎も力をつけているそうだ。負けるな、誠之助」
誠は、うなずくしかなかった。
頭では「自分は現代の中学生だ」と叫んでいるのに、口が勝手に動く。
「はい、父上」と、まるでセリフのように。
「暮れには、カピタンの江戸参府がある。
通詞の中から随行者を選ぶ大会が開かれるが、
そこでは我が本木家が十度目の随行を果たさねばならぬ。
わかっておるな」
「……はい」
誠はなんとなくしか理解できていない。
でも、胸の奥で何かが熱くなった。
この父の言葉の一つひとつが、なぜかまっすぐに響いてくる。
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食後、老女が金の縁のカップを運んできた。
中には黒い液体。
「コッヒイでございます」
「コッヒイ……?」
口をつけてみると、苦っ!
「うわ……にがっ!」
思わず顔をしかめると、妹がクスクス笑った。
「お兄さま、また苦いって顔しました」
「こ、これは……大人の味なんだよ」
母もつられて笑った。
その笑顔に救われるような気がした。
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夜。
寝間に案内され、布団に入ると、一日の出来事がぐるぐると頭を回った。
(いったい、俺はどうしてここにいるんだ?
夢? それとも、タイムスリップ?)
天井の木目を見つめながら、誠はゆっくり息を吐いた。
外では、虫の声が絶え間なく続いている。
潮の香りと畳の匂いがまざりあって、不思議と心が落ち着いた。
(……でも、ここは悪くないかも)
そう思いながら、誠はまぶたを閉じた。
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翌朝。
鳥のさえずりで目を覚ますと、障子の向こうから朝日が差し込んでいた。
使用人が「おはようございます」と声をかけてくる。
厠に行くと、陶器の便器に青い模様が描かれている。
温水もボタンもない。けれど、清潔でどこか趣がある。
顔を洗い、手ぬぐいでぬぐう。
すべてが新鮮だった。
朝食の席に着くと、父が言った。
「今日は新しいカピタンを迎える。出島へ行くぞ」
「出島……!」
誠の胸が高鳴った。
本でしか知らなかった場所に、これから自分が行く――。
黒紋付きの羽織に袴、白足袋に雪駄。
鏡の前に立った自分の姿は、まるで別人のようだった。
「誠之助、いくぞ」
父の声にうなずき、誠は屋敷を出た。
こうして――。
現代の中学生・本木誠は、「江戸の通詞・本木誠之助」としての一歩を踏み出したのだった。
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第二章 出島の朝
潮の香りが、風に乗って街じゅうに流れていた。
朝の長崎は、まだ薄い霧に包まれている。
屋根の瓦が光を反射して、ゆっくりと一日が始まっていく――。
誠は、父・彦之進の隣を歩いていた。
両手を後ろで組み、少し緊張した顔で前を見つめる。
黒い羽織と袴。
足元には、白足袋に雪駄。
どれもぴったりと身体に合っているが、心だけがまだ“現代の誠”のままだった。
(まさか、本当に出島へ行くなんて……)
父の後ろには、風呂敷包みを抱えた使用人が二人ついてくる。
その姿はまるで、時代劇のワンシーンのようだ。
けれど今、誠はその中にいる。
夢でも、映像でもない。
自分の足で、江戸時代の長崎の石畳を踏みしめているのだ。
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「誠之助、気を抜くなよ。今日は重要な日だ」
父の声が、低く響いた。
誠は、思わず背筋を伸ばした。
「は、はい……父上」
そう答えながらも、心の中では(“父上”って言い慣れない……!)と叫んでいた。
口が勝手に昔風の言葉をしゃべるのが、もう不思議を通り越して怖い。
通りには商人たちが行き交い、魚を積んだ荷車が軋んでいた。
味噌や醤油の匂い、焼き魚の煙が漂ってくる。
長崎の町は、どこか異国の空気をまとっていた。
瓦屋根の家々の間に、ガラス窓をはめた商家がちらほら見える。
阿蘭陀オランダ商人たちの影響だという。
「これが……江戸時代の長崎……」
つぶやく誠に、父が少しだけ口角を上げた。
「異国の風が入る港だ。おまえも、いずれこの空気を肌で読むようになれ」
父・本木彦之進は、通詞(オランダ語の通訳)たちの中でも名の知れた人物だ。
誠之助――つまり今の誠――は、その跡取り。
だが本人の中身は、ただの中学生だ。
頭ではわかっていても、心は追いつかない。
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やがてふたりは、港の石橋の前に立った。
「出島橋」と刻まれた石柱。
長さは五メートルほど。
その向こうに、半月形の人工島が見える。
海を仕切るように築かれた小さな島。
それが、日本と世界をつなぐ唯一の扉――出島だ。
橋のたもとには番所があり、侍たちが監視していた。
誠は息をのんだ。
「……すごい」
番所の武士が父に頭を下げる。
「本木様、本日もご苦労さまでございます」
「うむ。新しいカピタンの出迎えに参った」
「誠之助殿も、立派になられましたな」
誠はぎこちなく会釈をした。
(俺のこと、みんな“誠之助”って呼ぶ……完全にバレないんだ……)
橋を渡ると、足元の石畳が潮に濡れて光っていた。
風が強くなり、波の音が近づく。
島の中には、異国風の建物がいくつも立っている。
白い漆喰の壁、黒い屋根瓦。
木造二階建ての洋館――カピタン部屋が、その中央に堂々と構えていた。
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「カピタン部屋はあちらだ。参るぞ」
父の声に促されて進む。
その途中で、誠は何人もの外国人を見かけた。
みな金髪や茶髪、背は少し高いが、思っていたより小柄だ。
衣装は色鮮やかで、えんじや青緑の上着に金ボタンが光っている。
まるで絵本の中の人たちだ。
(これが……オランダ人?)
言葉を交わすたび、耳に届く発音が不思議に心地よかった。
知らないはずなのに、どこか懐かしい音のリズム。
頭の奥がじんわり熱くなる。
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やがて、父が立ち止まった。
目の前に、堂々とした白い男が立っている。
鼻が高く、金色の髪を後ろに撫でつけている。
青い瞳がまっすぐに誠を見た。
「ドーフ様、長らくお世話になりました」
父が深くお辞儀をした。
誠も慌てて頭を下げる。
「ワタシノホウコソ、セワニナリマシタネ」
オランダ人が、片言の日本語で答えた。
それが、前任の商館長――ドーフという名のカピタンだった。
隣には、次席のヘトルが控えている。
二人とも、まるで絵のように堂々としていた。
「まもなく、新しいカピタンが到着します」
出島乙名と呼ばれる役人が声をかける。
誠は息をのんで周囲を見た。
出島の広場には、通詞たちの名家がずらりと並んでいた。
名村家、今村家、楢林家、吉雄家、加福家――。
いずれも代々の通詞の家柄だ。
父の本木家も、その中の一つ。
ざっと三十人ほど。
黒紋付き羽織袴に身を包み、整然と列を作っている。
一族の誇りと威厳が漂っていた。
(これが、阿蘭陀通詞……。まるで異世界の貴族みたいだ)
誠はその迫力に圧倒された。
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やがて、沖から一隻の小型船が近づいてきた。
白い帆が風を受け、波を切る。
船が水門をくぐってゆっくりと出島の船着場に着くと、
青緑の服を着た新任のカピタンが姿を現した。
太った中年の男で、赤ら顔をしている。
その後ろに、浅黒い肌の使用人たち、そして――
白いドレスの女性と、幼い男の子を抱いた乳母。
「……!」
誠の目が釘づけになった。
ドレスの女性は、透き通るような肌と青い瞳をしていた。
胸元の大きく開いた赤いドレスが、朝日にきらめいている。
金色の髪が風に舞った。
まるで、絵画の中から出てきた人みたいだ――。
「ワタシハ、アタラシイカピタン、ブロムコフ・デス。ドウゾヨロシク」
片言の日本語で挨拶する新任のカピタン。
父をはじめ通詞たちが次々に頭を下げる。
誠も慌てて深々とお辞儀した。
「ワタシノツマ、マルタ・ブロムコフ。ヨロシク」
女性が微笑んだ。
その瞬間、誠の胸がどきんと鳴った。
青い瞳がまっすぐに自分を見ている――そう感じたのだ。
(なんで……こんなに心がざわつくんだ?)
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儀式が終わると、通詞たちはいったん江戸町の通詞会所へ移動した。
午後からは新カピタンとの打ち合わせがあるという。
父は、誠に向かって言った。
「よく見ておけ、誠之助。今日から新しい時代の始まりだ。
オランダ語だけでなく、彼らの心を読む力を持つ者が、これからは通詞の柱となる」
「……はい」
誠は真剣にうなずいた。
だが同時に、心の奥では――。
(“心を読む力”なんて、俺にあるのかな……?)
と不安もあった。
通詞会所の広間では、名家の当主たちが話を始めた。
長崎奉行所の役人たちも顔を出している。
「次の江戸参府に随行する通詞を決める大会は、来月開催される」
名村藤次郎が言った。
口の端をくちゃくちゃ動かしながら笑う。
「我が名村家の旺次郎も、ずいぶん力をつけてきた。
本木家の坊っちゃんにも負けはせんよ」
父の顔がわずかに引き締まった。
「ほう、それは楽しみだな。勝負は実力で決まる」
そのやり取りを見ながら、誠は(……この二人、ライバルなんだ)と理解した。
同時に、名村の旺次郎という青年の名前が、頭に深く残った。
(きっと、これから関わることになる)
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夕暮れ。
長崎港にオレンジ色の光が沈むころ、出島のあちこちから肉の焼ける香りが漂ってきた。
カピタン部屋では、新旧の商館長を祝う宴が開かれている。
丸山町から呼ばれた遊女たちが三味線を弾き、ジャワ人の楽隊が笛を鳴らす。
異国と日本の音が交じり合い、夜の出島がまるで夢の国のようだった。
誠は父に付き添って席の隅に座っていた。
金の皿にはハム、ソーセージ、鴨の丸焼き。
ワインの香りが鼻をくすぐる。
「食べてみろ。オランダの味だ」
父がすすめてくれた一切れのハムを口にすると、
塩と香辛料の強い味が広がった。
舌がびっくりして、思わず咳き込む。
「お、おいしいけど……しょっぱい……!」
父が笑う。
「慣れぬ味だろう。だが、これも文化のひとつだ」
その言葉を聞きながら、誠はふと感じた。
――自分は、今、まさに“世界”と向き合っている。
異国の匂い。
異国の人々。
彼らと通じ合うために、言葉を学び、心を交わす。
それが、この時代の通詞という人たちの使命なのだ。
(すごいな……。俺、こんな仕事が昔の日本にあったなんて知らなかった)
誠は、目の前でグラスを掲げる父の横顔を見つめた。
厳しくて、まっすぐで、でもどこか誇らしげだ。
その夜、帰り道の空は、満天の星だった。
波音のリズムに合わせて、誠の胸の奥も静かに高鳴っていた。
第三章 通詞たちの競い合い
出島での一日が終わると、誠はいつも心地よい疲れに包まれた。
けれど、頭の中は昼間見た異国の人々や言葉でいっぱいだった。
朝に聞いた「グーテモルゲン」(おはよう)の響きが、耳の奥でまだくり返されている。
「誠之助、耳で覚えろ。通詞にとって、音を感じる力こそ命だ」
父の言葉が、何度もよみがえる。
その夜、屋敷の縁側で潮風を感じながら、誠はひとり、声に出して復唱していた。
「グーテモルゲン……グーテ……モルゲン……うん、発音が難しいなぁ」
「なにぶつぶつ言ってんだ、誠之助」
声をかけてきたのは、従兄の巌吾郎がんごろうだった。
二つ年上の青年で、すでに通詞としての基礎を固めつつある。
目つきは鋭いが、どこか優しい雰囲気を持っている。
「いえ、カピタンの挨拶を練習してるんです。なかなか舌が回らなくて」
「焦るな。舌よりも心を柔らかくすることだ。
阿蘭陀語は耳で学ぶ。頭で考えすぎると、声が硬くなる」
巌吾郎は笑って、誠の肩を軽く叩いた。
(この人……父上とは違って、少し話しやすいな)
誠は、胸の中が少し温かくなった。
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翌朝。
屋敷の裏庭で、通詞の稽古が始まった。
「誠之助、今日は翻訳の練習だ」
父が大きな木机に分厚い本を広げる。
タイトルには「Grammatica(文法書)」と刻まれていた。
黄ばんだページには、びっしりとオランダ語の文字。
「まずはこの一文を読んでみろ」
父が指さした箇所を、誠は慎重にたどる。
「Het is een mooie dag.(ヘット イス エーン モイエ ダッハ)……ええと……“今日はよい天気です”」
「うむ、正しい。では、その文を日本語から阿蘭陀語に直して言ってみろ」
「今日はいい天気です……ええと……“ヘット イス エーン モイエ ダッハ”」
「よろしい!」
彦之進が満足そうにうなずく。
その顔を見た瞬間、誠の胸がじんとした。
褒められるのが、こんなにうれしいとは思わなかった。
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昼下がり。
「名村家の旺次郎おうじろう様がお見えです」と、使用人が告げた。
「やって来たか」
父が静かにうなずいた。
玄関に出ると、同じくらいの年頃の青年が立っていた。
切れ長の目に自信をたたえた笑み。
羽織の紋が鮮やかで、立ち姿に隙がない。
「初めまして、本木誠之助です」
「名村旺次郎だ。噂は聞いているよ。若いのに優秀だとか」
「い、いえ、まだまだ……」
(うわ、まぶしいくらいの自信だ……)
旺次郎は、同じ通詞家の跡取り。
次の「カピタン杯」で誠の最大のライバルになる男だ。
「本木家は代々、阿蘭陀通詞の名門。
でもな、時代は変わる。これからは名村の世代が中心になるさ」
挑発めいた笑みに、誠は一瞬むっとしたが、すぐに微笑んだ。
「なら、どちらが先に“世界の言葉”をものにするか、勝負ですね」
その言葉に、旺次郎が口元を上げた。
「面白い。口だけでなく、実力で証明してもらおうか」
二人の視線がぶつかる。
まだ少年のまなざしなのに、どこか剣のように鋭い。
巌吾郎が苦笑して、二人の間に入った。
「やれやれ、初対面から火花か。若いってのはいいもんだな」
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それからの日々、誠は以前よりも熱心に勉強した。
寺子屋での授業、夜の写本、出島での通訳練習。
本木家では、毎晩ランプの明かりの下で“朗読会”が開かれる。
古びたオランダ語の本を、一人ずつ音読するのだ。
「誠之助、次だ。『Het boek van de wereld(世界の書)』を読め」
父の声に促されて、誠はページをめくった。
単語の意味はわからなくても、不思議と口が勝手に動く。
音が心に染みていく感覚。
それが快感に変わっていく。
(オランダ語って、音が歌みたいだ……)
妹の弥生が、廊下の影からそっと覗いていた。
「お兄さまの声、なんだか外国の人みたい」
誠は照れくさく笑って、手を振った。
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そんなある日、出島の外から騒ぎが起こった。
屋敷の外を走る足音。
奉行所の役人が駆け込んできた。
「五島沖で阿蘭陀船が難破しました! しかし、乗っていた者の言葉が通じませぬ!」
父がすぐに立ち上がった。
「なんだと? 通詞が通じぬ言葉とは……」
その日の午後、彦之進と誠は長崎奉行所へ呼ばれた。
牢の中には、一人の男が座っていた。
髪は茶色で、ひげ面。
ぼろぼろの服をまとい、目は血走っている。
父がオランダ語で話しかけた。
だが、男は首を振り、何か別の言葉で返した。
「……この言葉は、阿蘭陀語ではない。英語だ」
誠は思わず前のめりになった。
「英語……?」
「そうだ。英国イギリスの言葉だ。
阿蘭陀語とは似ているが、違う言語だ。
英国船が阿蘭陀船に偽装していたのだろう」
牢の中の男は「Water… please…」と呟いた。
誠は耳を澄ませ、反射的に言葉を口にした。
「ウォーター……水を……?」
父が驚いて誠を見た。
「誠之助、今の意味がわかったのか?」
「え……なんとなく、ですけど……“水をください”って言ってるような……」
「なるほど……やはり、おまえは耳が利くな」
父が低くうなずいた。
その夜、誠は英語という未知の音を頭の中で繰り返した。
“Water… please…”
オランダ語とは違う、けれど心に響く音。
(言葉が違っても、人の思いは伝わるんだ……)
そのとき初めて、誠は「通訳」という仕事の本当の意味を感じた気がした。
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数日後。
難破した英国人からの聞き取りが進むにつれ、父と誠は牢に通うことになった。
悪臭と湿気の中での勉強はつらかったが、誠は夢中だった。
父の横で、英単語をメモに書き写し、何度も発音を真似した。
“Sun(太陽)”“Sea(海)”“Friend(友)”
単語ひとつひとつに、風景と感情が宿っている気がした。
誠は、いつの間にかオランダ語と英語を混ぜながら、ノートのような帳面を埋めていた。
「これが……俺の、辞書だ」
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だが、その平穏は長く続かなかった。
ある夜、大嵐が長崎を襲う。
風が屋根を鳴らし、波が石垣を叩く。
誠は布団の中で耳をふさいだ。
と、そのとき、門の方から人の叫び声がした。
「英国人が逃げたぞ!」
「なにっ!」
父が飛び起きる。
誠も後を追った。
外は暴風雨。
雷が夜空を裂く。
雨でぬかるんだ道を、役人たちが走っていく。
「誠之助、屋敷にいろ!」
「でも……!」
「命令だ!」
父の叫びに立ち尽くす。
雨の向こうに、松明の光が揺れていた。
誰かが捕らえられる声、刀のきらめき、そして悲鳴――。
夜が明けるころ、奉行所から報せが届いた。
「英国人、斬られた」
誠はその場に座り込んだ。
胸の奥が痛かった。
短い言葉しか交わせなかったけれど、
彼の“Water please”という声が、いつまでも耳に残っていた。
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その日の夜、誠は父の前でひとことも話さなかった。
灯の下で静かに筆をとり、帳面に文字を書いた。
Water = 水
Friend = 友
Life = 命
涙で文字がにじんだ。
そのしずくを見つめながら、誠は心の中で呟いた。
(俺は、もっと言葉を知りたい。
もっと多くの人と、ちゃんと話したい――)
それが、誠之助としての“本当の決意”の始まりだった。
第四章 カピタン杯の約束
嵐の夜から、三日が過ぎた。
空はようやく青を取り戻したが、誠の心はまだ重たかった。
英語を話す英国人――あの“ウィリアム”と呼ばれていた男の最期が、頭から離れない。
牢で水を求めたときの声。
あれほど生きたいと願っていたのに、彼は異国で命を落とした。
「言葉が通じなかった」
それが、どうしようもなく悔しかった。
「……俺、もっと強くならなきゃ」
小さくつぶやいた。
縁側から見える庭では、梅の蕾が開きはじめていた。
季節は春。
そして、出島では“カピタン杯”の開催が近づいていた。
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1 再び、通詞たちの修行の日々
「誠之助、気を引き締めよ。大会は一月後だ」
朝から父の声が響く。
本木家の書院には、数人の門下生が集まり、阿蘭陀語の朗読会が行われていた。
壁際には蘭書が山のように積まれている。
辞書、医学書、航海記――どれも外国の香りがする。
父は、その中から一冊を取り上げた。
「De wereld en haar volken(世界とその民)」
通詞たちが勉強に使う定番の書物だ。
「誠之助、読んでみろ」
「ヤー、フローフェルデ、デ・ヴェーレルト……」
(はい、先生。この世界は……)
口が自然に動く。
舌が文を追いながら音の流れをつくる。
まるで音楽を奏でるように、言葉が口から出ていく。
以前よりずっと滑らかに。
父が満足そうにうなずいた。
「だいぶよくなったな。声に芯がある。言葉は魂から出るものだ」
「……魂、ですか?」
「そうだ。言葉を借りて心を伝えるのが通詞の仕事。
だが、心がこもらぬ言葉は風と同じ。すぐに消える」
その言葉が、誠の胸に残った。
(言葉に“魂”を込める……それが通詞か)
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2 旺次郎との再会
出島の橋を渡ると、潮風の中ににぎやかな声が聞こえた。
石畳の広場で、名村家の旺次郎が剣の稽古をしていた。
木刀が風を切る音がリズムを刻む。
「誠之助、来たか」
「うん。大会の打ち合わせって聞いたけど……稽古中だったんだね」
旺次郎が汗をぬぐい、木刀を肩にかけた。
「俺にとって、剣も言葉も同じさ。迷いがあれば切れ味が鈍る」
その目は真っ直ぐだった。
誠は思わず笑う。
「じゃあ、俺は言葉で斬られないようにしないとね」
「ふふ、期待してるよ。本木家の“天才坊ちゃん”」
軽口の応酬。
だがその裏には、お互いを認め合う確かな信頼が芽生えつつあった。
「誠之助、あの英国人のこと……聞いたよ」
旺次郎が少し声を落とした。
誠の表情がかすかに曇る。
「……そうか」
「おまえが感じた悔しさ、わかる気がする。
言葉は武器でもあり、橋でもある。
人を守ることも、傷つけることもできる」
その言葉に、誠はハッとした。
(言葉は、橋……)
英語もオランダ語も、日本語も。
違う国でも、通じれば心がつながる。
ウィリアムの「Water please」は、命の声だった。
「ありがとう、旺次郎。……俺、もう逃げない」
「よし、それでこそだ」
ふたりは笑い合った。
その笑顔には、以前のような張り合いだけでなく、友情の色があった。
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3 大会前夜
大会の前夜、本木家の座敷は熱気に包まれていた。
門下生たちが総出で誠を囲む。
「誠之助様、がんばってください!」
「本木家の名を、どうか守ってください!」
その声の中、父・彦之進が静かに言った。
「誠之助、明日おまえは私とともに試験会場に入る。
他の誰のためでもない。おまえ自身の心を、言葉にせよ」
誠は深くうなずいた。
「はい、父上」
夜更け、眠れぬまま障子を開けると、月が出ていた。
港の方から船のマストが月明かりに照らされ、海面にゆらめいている。
潮風が肌に冷たい。
(明日、きっと見せてやる。俺がこの時代に来た意味を)
そう胸の中で誓った。
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4 カピタン杯
朝、出島の鐘がグオン、グオンと鳴った。
通詞たちの頂上決戦――「カピタン杯」が始まる。
大広間の入口には「第弐拾壱回商館長杯」と書かれた垂れ幕が掲げられている。
畳の間に、洋式の机と椅子がずらりと並ぶ。
長崎奉行の役人、阿蘭陀商館の医師や書記官たちが席につき、空気が一気に張りつめた。
「参加者は、各家より二名ずつ。全三十名」
ヘトルが片言の日本語で告げた。
誠は深呼吸して席についた。
隣には旺次郎。
二人は一瞬だけ目を合わせ、うなずき合った。
「ヨーイ、ハジメ!」
号令と同時に、会場に紙をめくる音が広がる。
活版印刷された問題用紙。
インクの匂いが漂う。
出題は長文読解。
阿蘭陀語を日本語に訳す。
文は難解だったが、誠には不思議と自然に意味が浮かんできた。
“De wind waait van het westen”(風は西から吹く)
(……風。西。動く。そうか、気象の記述か)
羽根ペンを走らせる。
手のひらにインクがつくが、気にしていられない。
頭の中で、言葉がリズムになって流れていく。
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試験が終わると、会場は静まり返った。
審査官たちが採点に入る。
午後からは面談試験――通訳の実技だ。
「モトギ セイノスケ クン!」
誠の名が呼ばれた。
舞台に上がると、阿蘭陀人医師が笑顔で話しかけた。
流れるようなネイティブの発音。
誠は一瞬たじろいだが、心を落ち着けた。
(耳で聞け。心で感じろ)
「Ja, ik begrijp het.(はい、わかります)」
自然に返事が出た。
その後も、問答が続く。
内容は医学や航海、宗教など多岐にわたった。
誠はすべて理解できたわけではない。
だが、相手の表情や声色から意味を読み取った。
――言葉の奥には、人がいる。
それを感じることで、誠の通訳はどんどん滑らかになっていった。
やがて試験が終わると、審査官たちの顔に笑みが浮かんだ。
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5 勝利と涙
夕刻、審査結果が発表された。
阿蘭陀人医師が高らかに告げる。
「ユウショウハ――モトギ セイノスケ クン!」
会場がどよめいた。
父が立ち上がり、拳を握る。
旺次郎が隣で拍手を送ってくれた。
「やったな、誠之助!」
誠は呆然と立ちつくした。
耳の奥で歓声が遠くに聞こえる。
胸の奥が熱くなり、目頭がじんわりと濡れた。
表彰台の前に立つと、純金の小さなカップが手渡された。
手のひらほどのサイズだが、重みがずっしりと伝わってくる。
(これは……俺だけの勝利じゃない。
父さん、ウィリアム、旺次郎……みんなの想いがこの中にある)
誠は深く頭を下げた。
父の顔が少しゆるんだ。
その目は、涙をこらえているようだった。
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6 それぞれの道へ
大会から数日後。
出島では、江戸参府の準備が始まった。
カピタン一行に随行する通詞として、本木家が正式に選ばれた。
父と巌吾郎、そして誠之助――の予定だった。
だが、出立の前夜。
誠は体調を崩した。
前夜の祝宴で、つい食べすぎたのだ。
熱が上がり、腹が痛む。
父が駆け寄った。
「誠之助、どうだ」
「だ、大丈夫です……父上……行けます……」
「無理をするな。巌吾郎を代わりに連れて行く。
おまえは、ここで休め」
「そんな……!」
誠は、布団の中で歯を食いしばった。
あんなに努力してきたのに。
ようやくつかんだ通詞の夢の第一歩が、指の間からこぼれていく。
「……くやしい……」
その夜、涙が枕を濡らした。
けれど――。
「誠之助、見ていてくれ。俺が必ず、おまえの分までやってくる」
巌吾郎が出立の朝にそう言った。
誠は弱々しくうなずいた。
「気をつけて……兄上」
港を出るカピタン一行を、誠は屋敷の門の前で見送った。
海風が強く吹き、帆がはためく。
そのとき――。
視界がふっとゆがんだ。
目の前の景色がぐにゃりと揺れる。
足元が消え、世界が反転した。
(あれ……また……?)
誠は何かに引き込まれるように意識を失った。
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その先に待つのは――再びの“目覚め”。
だが、その世界は、誠が知っている現代ではなかった。
第五章 もうひとつの現代
「おい、誠、寝てんのか!」
――バシッ!
額にチョークが当たった。
その痛みで、誠は目を覚ました。
顔を上げると、目の前には黒板。
そして見慣れた教室。
窓の外には、青空が広がっている。
(……夢、だったのか?)
心臓がどくん、と鳴る。
手を見た。制服の袖。
机の上には、ノートとスマホ。
すべてが元どおりの“現代”に見えた。
「おまえ、また居眠りか。ほんとに歴史の授業になると寝るなぁ」
前の席の友だちが、笑いながら小声でつついてくる。
誠は苦笑して、えんぴつを取り上げた。
――けれど、なにかが違う。
周りを見回したとき、誠は息をのんだ。
机もいすも見覚えがあるのに、みんなの格好が……。
女子は袴姿、男子は小袖に羽織。
教室の隅には、竹刀を持った助教らしき男が立っている。
なのに、黒板の上には蛍光灯が灯り、窓の外には高層ビルがそびえていた。
(え……ここ、どっちの時代?)
胸の鼓動が速くなる。
教師がこちらを見た。
「誠、今の質問に答えなさい」
振り返ると、そこに立っていたのは――
金髪に青い瞳の女性。
胸元の開いた赤いドレス。
まぎれもなく、あの人だった。
「マルタさん……!」
「Yes? オランダ語で答えてね、セイノスケ」
柔らかく微笑むマルタ先生。
彼女は教壇に立ち、チョークで板書をしていた。
書かれた文字は、阿蘭陀語。
そしてその下に、小さく日本語のルビ。
“今日の課題:『言葉は心の橋である』”
(“心の橋”……あれは、旺次郎が言ってた言葉……)
誠は、胸の奥がじんわり熱くなった。
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休み時間。
誠は隣の席の男子を見た。
髪を後ろで結い、きりっとした目をしている。
どこかで見覚えのある顔。
「なあ、おまえ……旺次郎に似てない?」
「は? 何言ってんだ、誠。俺は名村旺司だよ。おまえ、まだ寝ぼけてんのか?」
旺司――名前が少しだけ違う。
けれど、その笑い方、まっすぐな目。
誠は思わず笑ってしまった。
(そうか……こっちの世界でも、おまえはいるんだな)
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昼休み。
校庭に出ると、空はどこまでも澄んでいた。
遠くの海には、巨大な船が停泊している。
煙突からは黒い煙。
けれど、その旗は見たこともない“阿蘭陀国旗”。
青・白・赤の三色旗が、海風にはためいていた。
「……徳川幕府がまだ続いてる、のか……?」
街の遠景には、テレビ塔と並んで“将軍府”の建物がそびえている。
ニュース映像のような電光掲示板には、こう表示されていた。
【速報】オランダ国カピタン、江戸参府のため長崎に到着
第十七代将軍・徳川慶昌公、謁見の準備進む
誠は、息をのんだ。
現代と江戸が混ざり合った世界。
その光景が、あまりにも自然に広がっている。
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放課後。
校舎の屋上で、マルタ先生が空を見上げていた。
夕日が西の空を染め、カモメが群れをなして飛んでいく。
誠は、意を決して声をかけた。
「先生……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「どうしたの、セイノスケくん?」
「俺……前に、先生に会った気がするんです。
出島で、赤いドレスを着てた……」
マルタ先生は驚いたように誠を見た。
けれど、すぐにやさしく微笑んだ。
「デジマ……。きっと、夢の中の話ね」
「夢、だったのかな……でも、すごくリアルで……。
父上とか、旺次郎とか、英語を話す人もいて……」
「ふふ、それは素敵な夢だわ。
きっと、あなたが“言葉”の力を知ったから見た夢よ」
「言葉の力……」
マルタ先生は、海の方を指さした。
「見て。あの水平線の向こうに、世界がある。
どんなに国が違っても、言葉があれば人は心をつなげるの。
それが私たち通詞――“ツウヤク”の使命よ」
風が吹いた。
夕日の中で、先生の金髪が光る。
誠は、あのときの出島の風を思い出していた。
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「ねぇ、誠」
背後から声がした。
振り向くと、旺司が立っていた。
制服の袖をまくり、にかっと笑う。
「次の“カピタン杯”さ、俺たちも出ようぜ。
うちの学校、代表二名だってさ」
「カピタン杯……!」
その名を聞いた瞬間、誠の心が跳ねた。
旺司が続ける。
「阿蘭陀語のスピーチ大会だよ。
俺、去年落ちたから今年はリベンジ。
おまえも一緒にどうだ?」
「……ああ、出るよ。絶対に」
誠は笑顔で答えた。
夕日に照らされたその横顔は、
いつかの誠之助と旺次郎のそれと、まったく同じだった。
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その夜。
誠は自分の部屋の机に向かっていた。
ノートを開くと、見慣れない古い帳面が挟まっている。
薄茶色の表紙。墨でこう書かれていた。
「誠之助ノ覚書」
手が震えた。
中を開くと、そこには、かつて自分が書いた阿蘭陀語と英語の単語帳があった。
“Water=水”
“Friend=友”
“Life=命”
その下に、震える文字でこう記されていた。
「言葉ハ人ヲ救ウ。
通詞トハ、心ノ架ケ橋ナリ。」
誠はゆっくりと目を閉じた。
ウィリアムの声、父の笑顔、妹の笑い声、出島の波の音。
すべてが胸の奥に蘇る。
「……ありがとう、誠之助。俺、ちゃんと生きるよ」
窓の外では、夜の港に大きな汽笛が響いた。
遠くの海を、阿蘭陀国旗を掲げた蒸気船が静かに進んでいく。
その煙が夜空に溶けるころ、誠の顔に微笑みが浮かんでいた。
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翌朝。
教室の黒板には、マルタ先生の字でこう書かれていた。
「本日のテーマ:出島と未来」
誠はえんぴつを握りしめ、静かにつぶやいた。
「今度は俺が、未来を訳してみせる」
窓の外には、異国の船が光る海。
鐘が鳴り、風が吹く。
その風は、どこか懐かしい江戸の香りを運んでいた。
――
徳川の世は続いている。
だが、言葉の架け橋は、いつだって“今”を越えて広がっていく。
(了)
阿蘭陀通詞になったぼく ~ 現代中学生、江戸の出島で通訳はじめました!~ 近藤良英 @yoshide
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