第2話
――――――
僕の家庭環境が最悪だったなんて言わない。最悪だったのは百合香の方だし、けれど僕の家庭環境が普通だったとも言えない。普通だったのかもしれないけれど僕にはそれを確認する手段が無かった。怖かったから。
いい子。いい子。あのお家の昴はとても評判のいい子。その評価が一体いつから、何がきっかけで言われ始めたのか何も知らない。僕の知らぬところで始まった。最初に急変したのは母だった。
「昴はいいこね、いい子いい子。ずっとそのままいい子で居るのよ」
「……昴。それはいい子がする事かしら?」
段々と母の声が低くなって、怒っているのが分かった。
「昴。勉強をしなさい」
「昴。門限までは遊んできて、その後は勉強をして、早く寝るのよ」
「昴。今は何をする時間か分かって居るでしょう?」
「昴――」
母が機嫌が悪くなる時。僕がいい子じゃなかった時。母の機嫌がいい時、僕がいい子だった時。
「昴!!」
甲高く怒った母の声で呼ばれる僕の名前が嫌いだった。辛くて、嫌で、逃げ出したくて。それで、僕より不幸だった百合香と仲良くなった。優しく僕の名前を呼んでくれる百合香に僕の内側が気付かれて嫌われて、孤独になる事が酷く恐ろしかった。彼女は何処を見ているのか分からない。まるで僕の内側に呼びかけるかのように名前を呼んでいた。
「昴」
いつものように名前を呼ぶ彼女がそこにいる。いつものように微笑んで。いつものように僕は縋りつこうとした。
「私、知ってたよ」
その一言で僕の立って居た地面は崩れた。全てが終わった。知っていた、この言葉が差す事。僕が彼女を。
「見下して、気持ちよくなっていたよね。自分より下が居る。その事実に安心してた」
でしょう、と小首を傾げて僕にそう問いかける彼女が夢なのか、幻か、現実か。もう僕には判断できなくなっていた。過呼吸になる僕を見下ろして、百合香は言葉を続けた。
「酷いね、なんて酷い人」
その瞬間寝汗と悪夢で目覚めた。込み上げた気持ち悪さを耐えて、急いでトイレに駆け込み嘔吐した。ドタドタと足音を立てて駆け込んだから誰か来るかと思ったが誰も来ないまま。トイレで気絶するように眠った。
夜明け前。トイレで起きた後、家に誰も居ない事に気付いた。僕は遂に孤独になった。
――――――
どうしたらいいのだろう。まず僕が思ったことだ。家に人が居ない。今日、……昨日と言うべきか、何というべきか兎に角休日だ。父も母も家にいるはず。可笑しい。
「昴を見捨てたのかな?私だけじゃなくて、家族にも捨てられた。昴の居場所はもうないね。私より可哀そう」
百合香の言葉に気分が悪くなる。駄目だ。もうここには居られない。そう思った。理由は分からない。分からないけれど僕はぼんやりとした頭のまま。鋏をもって家を出た。道を歩いて漠然と思考が巡る。百合香が死ななければ、百合香と関わらなければ、僕の親が評価に囚われなければ。そもそも評価が無ければ僕は可哀そうじゃなかった。そんな下らない責任転嫁をして、ぼんやりと森を目指した。そもそも百合香だって。あの父親でなかったら、もし少し世界が違えば僕らは可哀そうじゃなかった。そう少しでも世界が違えば、と幸せなもしもを夢見た。
「僕らじゃなくて、僕がなんでしょ?」
僕を嘲りそう言った百合香は消える様子もなく言葉を続ける。
「どうしてそうやって人のせいにするの。昴君はとっても寂しくて可哀想な子だよ」
「そうだね、そうかも。でも君も考えたはず。もし、自分が居なければ。もし父親が居なければ。こんな苦しい思いをしないで済んだのに、って」
そう言って森に入った僕に百合香は返事をしなかった。チラリと百合香のいた所を見たがその姿は消えていた。朝なのに、木の影で暗く鬱蒼とした森は僕の心を陰鬱に染めるのは簡単で。鬱々とした気分になりながらこの森について1つ思い出す。此処は百合香が埋葬されている。僕は場所も知らない百合香の骨が眠る場所を目的地にした。森をひたすら歩いて、歩いた先。百合香が埋葬されている墓地に着いた。その墓地だけ森から隔離されたかのように全く別の景色が広がっていた。死を感じるこの場所で死のう。死ぬつもりで来た訳ではなかったが、もう何も残っていなかった自分をこれ以上生かす理由もなかった。そうして今そう決めた僕は、死ぬ前に墓標を見て回った。数個で見つけた百合香の墓標の前でぼうっとしていた。百合香の墓に彼女が座っているのが現れては消えを繰り返しそれを眺めていた所に背後から声がかけられる。
「こんにちは。昴くん」
振り返った時僕は血が沸騰する思いをした。そこに立って居たのは百合香を殺した。彼女の父親、良。やけに身なりの整った良の姿と昨日の今日で少し草臥れた僕。何処を取って比べても尚対照的な様子の僕と良。僕の人生、百合香の人生を狂わせた人。なんて憎たらしい。こいつが居なければ。こいつが少しでも真面だったなら。僕の不幸せは、少しマシだったはずだ。とても綺麗に笑っているこの男が自分の娘を殺したなんて、誰も気づかないのだろうと、反吐が出る思いで挨拶をした。
「こんにちは。工藤さん」
じろりと睨んでそう言ったが、目の前の男は何処吹く風で相も変わらずにこやかな笑みを浮かべていた。こんな状況で呑気に挨拶していることがあまりに異常で可笑しい事に今度はこの男の幻覚かとため息を吐きたいが。余りにリアルで、朧げな百合香との違いで本物なのだろうと結論づけた。この大嫌いな人を前に僕は死ぬ気がなくなってしまった。いや、此処で此奴と死んでやろうと思った。ただ一つポケットに忍ばせた鋏を撫でる。殺すんだ。殺すんだ。トラウマになって瞼の裏から離れなかったあの光景のように。首元を切って、胴体を刺して。殺すんだ。
「元気だったかい?」
にこにこ笑ってそう言う工藤に苛立ち鋏を握りしめる。感情がぐちゃぐちゃ混ぜ合わさって泥水みたいに酷い気分だった。そんな気分なんて知らないといった様子で工藤はポケットに手を入れて笑って立っていた。
「元気な訳ないだろ」
ぎりぎりと歯軋りして目の前の男に吐き捨てる。元気な訳が無い。唯一と思っていた理解者、唯一傍にいた僕より不幸な子、可哀想な子を殺した。実の娘を殺して、逃げた。嫌いだ。嫌いだ。此奴が居なければ。僕は、僕達は、壊れなかったのに!憎い、憎たらしい!お前が殺したのに。僕は後ろ指をさされて生きたんだ。
「昴君の噂。隣町まで来ていたよ」
のうのうとそんな事を言うこの男こそ隣町まで噂されるべき人だろうと、唾を吐きかける程嫌な気持ちになった。工藤は手をポケットから抜いて地面に咲いていた小さな花を摘み百合香の墓前に足を進める。今にも殺したいですって様子の僕は気にも留めず、話を続けた。
「君にこんなところで会えるなんて、幸運だ。それにあの子も救われるだろう」
心底悲しいです。そう言った表情で今さっき摘んだ花を彼女に手向ける此奴はきっと頭が僕より可笑しい。反吐が出る。自分で殺したのに。まるで、他人が殺したかの様な表情だった。
「君も私も、百合香にとっては加害者だ」
その言葉が気に障る。嫌な事を言う奴だ。僕を巻き込んで、百合香の加害者だって。可笑しい。だって彼女は僕の傍にいてくれた。それに加害した自覚のある奴が取る行動、表情に思えない。そもそも僕は彼女に対して加害行為を行っていない。殺したのも、生きていた頃に彼女を苦しめたのも、此奴だけ。こいつだけのはずなのに。
「ほんとうに?」
墓標に座る百合香が僕にそう問いかけた。その顔は真っ黒に塗りつぶされたように見えないが、浮かんでいるような白く開いた口から赤い血が流れているのが分かる。それは僕が見殺しにした彼女の姿を思い出すには十分な姿だった。僕は、僕は。吐き気がした。自分自身に?それとも工藤にかはもう僕にはわからず。ただ自分を守るために頭を抱えて蹲った。すべてが嫌で。全てが醜くて。それは僕も変わらない。ああ、思考がまとまらない。ぐるぐるする。吐きそうだ。そんな僕の頭を撫でて悪魔は僕を地獄に叩き落した。
「君は百合香を利用して、安心を得ていただろう?それがあの子にどれほど傷を付ける事か考えなかったのかい」
もう耐えきれなかった。僕は目の前の地面に空っぽの胃の中身をすべて吐き出した。気持ち悪い。きもちわるい。僕が、僕は。百合香を傷つけて。ああ、昨日の悪夢と一緒だ。やっぱり僕は百合香を傷つけていたんだ。ああ、なんて酷く醜いんだ。自己嫌悪に飲まれ、目の前の景色がしっかりと認識できなくなる。
「……。汚いね」
その言葉は僕を酷く傷つけた。そして、もう僕には選択肢が残されていなかった。目の前の工藤良も大嫌い。僕自身も大嫌い。反吐が出て、醜くて、気持ち悪い。悪い子。そんな悪い子はどうしなきゃいけない?
殺さなきゃいけない。
嘔吐で汚れた口元も気にせず。ポケットから鋏を取り出して、工藤良に振りかぶった。
「君はとても衝動的で、攻撃的になったと聞いたよ。本当だったみたいだね」
そう言って、変わらずにこにこと笑っている良はまるで楽しんでいるようで、絶対に自分が死なないと確信している様子だった。だがそれはどうでもいい。僕はただ、目の前の此奴を殺したい。自分自身を殺したい。その為に鋏を突き刺そうとした。かわされた。
「君のそれは生来のものかな?後天的なものかな?僕はその手の知識はないからさ。分からないんだ」
酷く楽しそうにそう尋ねる良。押し倒して攻撃しようと掴みかかるがそれもかわされる。何でなのだろう。ふらつく体を無理矢理動かしてどうにか殺そうとした。攻撃をすべてかわされて、呼吸も荒れて胸が酷く痛む。酸欠になっているのだろうか。引きこもっていた自分は体の限界が直ぐにくるらしい。
「げほっごほっ……ごほっ」
咳込みが止まらない。胸が痛い。立つのも限界で足ががくがくと膝が笑っている。景色がぐるりと回った。体に何か衝撃が来た気がする。呼吸するので僕は精一杯だった。なにも分からない。ただくるしい。気分が良くない。きもちわるい。胃がむかむかする。このまま死ねたらいいのに。どうして僕は。今、こんなにくるしいのだろう。
――意識がブラックアウトして、佐藤昴は失神した。辺りには誰も居らず。誰も彼を助ける者はいなかった。地面には吐瀉物が広がってその上で佐藤昴が痙攣を起こしていた。それでも、誰も助けられるものはいなかった。日の出により佐藤昴の身体が照らされる。もうその体はピクリとも動いていなかった。
「次のニュースです。4年前に起こった女子高生殺人事件の生存者であった。当時18歳の佐藤昴、22歳が東森墓地にて死亡が確認されました。警察は自殺とみて捜査を進めています。次のニュースです」
消えない傷 yksiori @yksiori
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