月の仙人、異世界に降り立つ

名無しの戦士

プロローグ 目覚めは月の上でした

 意識が、ふわりと浮かび上がる。

 思考は霧に包まれ、まるで眠りの底から手探りで這い出すようだった。


「ここは…どこ?」


 目を開けると、視界に広がる果てしない白銀の大地。同時に朦朧とした意識が冴えわたり、瞳の中がクリアになる。


 雪ではない。砂だ。光を反射する、月の砂漠。足元でさらさらと流れるグレーの砂。空には埋め尽くさんばかりの星が燦々と輝き、蒼白い光が永遠に照らしている。


「…え?」


 ……月?


 教科書やテレビで何度も見た光景に声が無意識に零れた。自分の声が、真空であるはずの月面に響き渡る。


 そう思った瞬間、意識が完全に覚醒し、奇妙な違和感が込み上げてきた。月面のような場所に、生身で立っている。慌てて口を押さえるが、指先に感じる確かな吐息の温もり。宇宙服なんて着ていないし、着た記憶もない。当然、酸素ボンベも背負っていない。


 それなのに――。


 呼吸ができる。

 寒くもない。

 身体がふわりと軽い。それでいて、ちゃんと地面に立っていられる。


「夢か?」


 口にした自分の声が、意外にもはっきりと響く。

 音が、空気を伝って聞こえている。不自然なほど明瞭に。


 夢だとすれば妙に鮮明。けれど、現実にしてはあまりに不条理。明晰夢というやつか…?本物の感覚。スニーカーの裏に伝わるざらついた砂の感触、微かに漂う金属のような匂い……いや、気のせいか?嗅覚がある時点でおかしい。


「夢だよな…。いや、でも…何で?」


 言葉は風もないのに拡がり、まるで大気があるかのように伝わっていく。


 自分の頬をつねってみた。痛みが走る。――痛い。それ痛みすら、信じられなかった。夢の中で痛みを感じることはある。夢だと気づけない夢もある。そう自分に強く言い聞かせながら。


 何を思ったのか、僕はしゃがみ込んで足元の砂を指先で掬った。冷たい白銀の粒子が指に絡み、さらさらと音を立てる。


 震える指先で砂を口元に運び、舌の上に載せた瞬間。ざらり、とした食感。じゃりじゃりと歯に当たる異物感と、わずかに金属っぽい風味。


「っうえぇ!ぺっぺっ」


 ぞわりと背筋が震えて砂を吐き出した。正に味がする。触感も温度もある。非現実的な光景なのに、どうしようもなく現実的な砂だった。


 やっぱり、これは夢じゃないのか?

 だとしたら……本当に俺は、月にいるのか?

 脳から伝達する恐怖に足が小鹿のように強張る。


「――っうわ」


 空恐ろしげに頭を上げた瞬間、視界いっぱいに広がる青い惑星に思わず息を呑んだ。


 漆黒の宇宙を背景に悠然と浮かぶ、地球に酷似した星。大気の層が織りなす淡い光のヴェールに包まれ、まるで息づいているかのように微かに輝く。雲の螺旋がメジストの脈絡のように絡み合い、海は宇宙の闇に溶けそうな深い藍色…あの青は、地上から見上げる月よりも、遥かに儚げで美しかった。


「僕の…故郷?」


 指先が自然と伸び、手の平で地球を覆ってみる。たった一握りほどにしか見えない。普段暮らしてきた都市の灯り、煙突から出る煙、全てが拳に隠れる。


 ふと、地球の縁にうっすらと浮かぶ大気の輪が目に入った。太陽光を受けて青白く発光するその輪は、今にも消えそうな脆さ感じさせる。


 舌触りに残った砂の苦味が蘇る。己の瞳で地球を見ているのに、信じられない。あの球体の上で、僕は可もなく不可もなく生活してきた。雨に打たれ、風に震え、重力に縛られて…それが、たった38万キロ離れたこの場所では、何も意味も持たない。


「(最後に覚えているのは…)」


 指先で地球の輪郭をなぞりながら、ふと気付いた。あやふやな記憶が、砂時計の底から零れる砂のように、形を保てずに崩れていく。


 瞼を閉じる。暗闇の向こうに浮かぶ映像は、教室の窓から差し込む夕日だったか、それとも誰かの手の温もりだったか。制服の第二ボタンの感触、黒板消しのチョークの匂い。でもそれらはすべて色褪せたモノクロフィルムのように、輪郭が溶けかけている。


「思い出せない、僕は中学…いや、高校生?」


 声にした途端、言霊が宙で砕ける。確かに学生鞄を背負う感覚が皮膚に残っている。けれど、校舎の階段の段数、クラスの人数、担任教師の顔さえ霞んでいく。冷や汗が首筋を伝う。


「(家族は?)」


 キッチンに立つエプロン姿の母の笑顔を思い出そうとして、視界に滲むのはザラザラと波打つ砂嵐の白黒映像。輪郭があるようでない。目の焦点が合わない。テレビのチャンネルが合っていないときのように、脳内のスクリーンがブレている。


 家庭を守る大黒柱である父の声は、どうだった?

 低かったか、高かったか、厳しかったのか、優しかったのか。どうしても決められない。記憶の端が引っかかっているのに、そこから先に手が届かない。


「弟…?妹…?幼馴染…いたっけ?」


 ぽつりと呟くが、言葉に重みがない。名前も顔も、浮かばない。そもそも兄弟がいたのかどうかすら怪しい。まるで人生の履歴が、急に破り取られたかのようだった。


 家の部屋割り、スマホの機種、財布の中の学生証、飼っているペットの名前。

 記憶の断片を再構築するたびに、砂のようにこぼれ落ちていく。手で掬っても、指の隙間から落ちていく。どれもこれも、現実感を伴わない、貼りつけた薄っぺらい記号の羅列。


「僕の名前…」


 最も基本的な単語が喉に引っかかる。頭蓋の内側を冷たい手がかき回すような感覚。メモ帳をめくるように記憶を遡っても、ページは真っ白だ。いや、時折現れるインクの染みのような断片。


「…日下部アキト」


 そう、日下部アキト。たしかにそう名乗っていた。けれど、その響きに実感が伴わない。見知らぬ誰かがワインボトルに張り付けたラベルのような名前。


 美しい地球を覆う指先が、微かに震える。こんなにも明確に目の前で見えているのに、あるはずの過去が崩れていく。恐怖より先に、巨大な虚無が胸を貫く。空っぽだ。


 見えない鎖が心臓を握り潰す。膝が砂に埋もれる。視界の端で、地球の海を覆う雲がゆっくりと渦を巻く。あの青い惑星のどこかに、僕を待つ人間はいるのだろうか。


 僕という人間の輪郭が、ここに来てぼやけ始めていた。


「(そもそも、僕は本当に地球で生きていたのか?)」


 新たな疑問が脳を刺す。かつて誰かに呼ばれた声、抱きしめられた感覚、したたる雨の日に通学路を駆け走った苦い記憶。全てこの静寂の中では、音もなく色褪せていく。


 ――そんなときだった。


『ようやく目覚めたか』


「っえ?」


 不意に、誰かの声が聞こえた。耳朶に残ったその声は低く、静かで、それでいて胸の奥にじんわりと染み込むような声音。老人のように、子供のように、性別すら判別できない音符。


 反射的に振り返る。


 そこに、一本の巨木が立っていた。


 月面に立つはずのない大樹が、僕の影を飲み込むように聳えている。


 まるで天の川を支えるように、遥か彼方まで幹を星々の間を突き抜けて天へ伸ばし、枝の先端から微かな光子を滴らせている。銀色に光る無数の葉が、風もない空間でゆるやかに揺れ、根は静かに砂を割りどこまでも深く、月の奥底へと沈みこんでいる。命の気配を放ち、無言のまま、そこに在った。


 そして僕は、それがただの植物ではないと本能で理解していた。


 もう一度、声が響いた。


『ようこそ、地球より導かれし者よ。御月神の名代として、汝を歓迎しよう』


 その言葉に僕の胸が高鳴った。理解の外にあるはずなのに、どこか懐かしい。矛盾した感情が静かに満ちていく。


 やがて、大樹の根元に淡い光が灯り始めた――。

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