第2話



「メリク様~~~~~~~~~~っ!」



 どーん! と蹴破るみたいな震動を響かせ、今日も元気よくミルグレンがやって来た。


「メリク様 メリク様 メリク様~~~~~~~~!」



「あーーーーーーー! もう落ち着けよ!」



 ミルグレンが部屋の中をバタバタ駆け回るから、寝ていた窓辺の鳥かごにいた白いバットが眠っていたのに目を覚まし、パニックを起こしたみたいになっている。


「なんであんたがメリク様の部屋にいんのよ」

 随分経ってからミルグレンはエドアルトに気付いた。

 しかしもう随分長い付き合いだ。

 ミルグレンのこんなことでいちいち怒ってはいけない。


「ここはメリクの部屋じゃなくてラムセスさんの部屋だ!

 俺は魔術の課題出してもらったから魔術書見ながら勉強中! 兼 お留守番中!」


「へー。全然興味ない。」


「おまえ……」

 エドアルトは怒りかけて、もう一度『ミルグレンのこんなことでいちいち怒ってはいけない』という魔法の言葉を思い出した。

「お前こそ地上にいたんじゃないの?」

「うん。でもなんかつまんないから戻ってきちゃった。

 こっちどうよ。ウリエルに召喚された私たちの立場悪くなってない? メリク様がもしあの【天使】とかいう連中に苛められてたら、私があいつら死ぬほどの目に合わせてやろうかと思って」

「いやお前が天使を苛めることの方が余程心配……」

「なにこいつ可愛いね。白い」

 ミルグレンが窓辺の鳥かごを覗き込んでいる。


「あっ! それ開けちゃダメだぞ!」


「なんでよ。ふわふわ。触りたい」

「それ新種なんだって。

 転移魔法使うらしくてよく逃げ出すから、特別な封印呪で封じてあるらしい。

 俺そいつが逃げないよう見張ってるんだ」

「雛じゃないんだ」

「うん。色ついてないけど、白いみたい。新種か、突然変異か見極め中だって」


「ねー メリク様は? クッキー作って来たの♡」


「メリクただでさえ本調子じゃないんだから変なモン食わせて体調不良にだけはするなよな……」



「エドアルト! 今なんつったの!」


 

 ミルグレンは魔力はほとんどないというのに、まるで魔力みたいな覇気を纏う少女だった。

 長い付き合いでも、全然慣れない。

「母さんのとこでしばらく過ごすんじゃなかったのかよ……料理習うって言ってたじゃん」

「習ってるわよ。だからクッキー持って来たんでしょ。オルハと料理するのは楽しいけど、お母さまが絶対邪魔するから鬱陶しいわよね。

 私絶対親と同居とか無理だわ!」


「……うん……まあお前は家も出とるしな……」

「メリク様は‼」


 う。


 ミルグレンは大概のことに興味をすぐ失うくせに、メリクの話題だけは絶対に誤魔化せないのだ。

「ら、ラムセスさんと薬草採集に行ってる。もうすぐ帰って来るんじゃない。うん多分」

 ミルグレンの癇癪を予期して、分厚い魔術書を盾のように構えながら、エドアルトは言った。


 ミルグレンは近頃この名前を聞かせると鬼みたいな形相になるのに、今も聞いた瞬間怖い顔はしたものの、すぐに可愛らしく箱に入れて持って来たクッキーを小さなテーブルに置いて、椅子に腰を下ろした。


「ふーん……」


 ミルグレンが静かだと、エドアルトは逆に不安になるのだが、ここで安易にどうしたのとか声をかけると怒りの爆発も招く可能性があるので、慎重になる。


 長年の勘だ。

 こういう時はこっちから話しかけない方がいい。

 そうしたらミルグレンの方から話してくれるはずだ。


「……。」

「……」

「……。」

「……」

「……ねー エド」

 勉強に集中していると見せかけていたエドアルトは安心した。

「なに?」


「あんたあのラムセスとかいう奴どう思う?」


「どう思うって……、今は魔術教えてくれる先生……。

 いつまで経っても俺の名前覚えてくんねーけど」

「あんたの魔術の先生はメリク様でしょ? なに簡単に裏切ってんのよ」

 半眼になってミルグレンが威嚇すると、エドアルトは怒った。


「メリクは俺の魔術のお師匠様だ! 先生とは違うの!」


「なによその変なこだわりは……」

 ミルグレンは呆れたが、案外エドアルトが本当に怒ったので、呆気に取られている顔も見せた。


「師匠は魔術ではたった一人しかいないの! 先生は何人いてもいい!」

「知らないよ。あんたのそんな決まりなんて……」


「んー でもやっぱなんか、天才肌だよな、あの人は。

 メリクは教え方も、俺なんかでもすっごい分かりやすく思えるくらい丁寧に理論的に言葉で教えてくれるけど、

 ラムセスさんは実技は言ってることよく分かんないんだ。

 炎の精霊はシャッとまとめてワッ! とやれとか擬音ばっかなんだもん」


「実はバカなんじゃないかな? あいつ……」


 サンゴールの賢者様をバカ呼ばわりしている王女ミルグレンである。


「いやでも……魔術観とか、聞いてると、やっぱすごいなと思うことはあるよ。

 メリクとは全然違うすごさって感じ。

 知識もやっぱり、とんでもないぞあの人。

 ここにある書物全部魔法に関わるものだけど、

 細かい年代とか算術とか数字とか、全部覚えてんだよ……。

 魔術師は知恵の使徒とか言われてるけど、ほんと暗記力とかすごいんだな……」


「ふーん」

 ミルグレンはつまらなそうに相槌を打った。


 ミルグレンはエドアルトをさして重視してないが、

 彼が物事を見る目は真面目で鋭く、真剣であることはよく知っている。

 エドアルトがラムセスを「すごい魔術師」というのは、ミルグレンには面白くなかった。


 エドアルトはメリク以外の魔術師を「すごい」などと言ったことはないからだ。


 最初は、うわーーーーーーーーーっ! 本物の魔術師ラムセスだー! などと子供みたいに浮かれていたので、流されやすい奴ね! と思ってミルグレンは軽蔑していたが、最近エドアルトは「俺は弟子とか面倒臭い」と一切相手にされてないラムセスの許に足しげく通って、魔術の話を聞くようになった。


 メリクと話していると、ラムセスがやって来て、そのまま三人で話すことが多いようだ。


 ミルグレンはだから近頃、地上にいる……。



(だってつまんないんだもん)



 メリクから聞く魔術の話なら、もう彼の顔を見上げながら楽しく、嬉しく、二十四時間だって聞いていられるミルグレンだったが、メリク以外の魔術師の話なんてちっとも面白くない。眠くなるだけだ。

 エドアルトは魔術に興味があるので喜んでそういう話を聞くけど、ミルグレンはメリクという魔術師以外に興味はない。彼だけで構わないのである。


 ……でも。


「……なんだよ。お前どうかしたのか?」

「んー?」

「いや、元気ないなって」

「なによ。人が元気なら元気ありすぎてうるせぇとか言うくせに」

「いやそうだけど……。俺はもうちょっとお前に落ち着いて欲しいだけ。今のお前は落ち着いてるんじゃない。落ち込んでるって感じだから」



「……。メリクさま、大丈夫かなって思って」



 エドアルトがこっちを向く。

「なんかあるの?」

「ううん。私に会うと、いつも通り優しいし、素敵だし、いろんな話聞かせてくれるし、楽しいし、素敵だし……」

「わかった。わかったわかった。素敵なのは分かった」


「真面目に聞きなさいよエド!」


「うわー! いきなり怒るなよっ!」

 突然そこにあった分厚い本をぶん投げられて、エドアルトは慌てて避難した。


「この前メリク様がバラキエルと戦って、一瞬行方不明になったでしょ」


「うん。でも良かったなー。ラムセスさんやっぱいい人だよな。俺は人助けとか興味ないんだいとか言ってたけど、結局メリクのこと助けに行ってくれてさぁ」

 ミルグレンはムッとする。

「なんであんたそんなご機嫌なのよ」

「ご機嫌っていうか」

「あの時のあいつの薄情な態度、あんたの方が怒ってたじゃない」


「俺があの時腹が立ったのは、あの人が『目が見えなくなるくらいでダメになるなんてメリクは大したことない』みたいに言われたように聞こえたからだよ。

 そのあとずっと考えてたけど……別にあの人はメリクをあの時も馬鹿にしてはなかったんだよな。

 魔術師ってそんなもんじゃないっていうことが、あの人には分かったんだ。だからきっとあんなに落ち着いてたんだよ」


「メリク様、今目が見えないのよ。魔力を辿って歩けても、崩落に巻き込まれて下の階から地上に上がるとかは無理でしょ!」


「んー。確かに、すっごい大変だと思うけどさ。

 おれ、『無理』じゃあないんじゃないかって思うんだよ」


 エドアルトはテーブルに頬杖をついた。


「そりゃ魔術には精神も魔力も消費するから、魔術師が無敵じゃないことは分かってるけど。

 でも例えば自分が動けなくても彼らは魔法や、使い魔を使ったりして外に助けを呼べるかもしれない。他にも俺には考えつかないような、解決方法を考えられるような気がするんだ。

 お前が生前加わる前まで、俺はメリクとは二人旅してただろ」


「メリク様にいっぱい撒かれてたっていうやつでしょ。いい気味。ぷぷ」


 笑ったミルグレンに向かって側にあった丸めた紙のゴミを投げる。

「なにすんのよー」


「二人旅した時、本当にメリクには色んな助けられ方したんだよな。

 メリクって何があっても、どんな敵が出ても、どんなトラップがあっても、全く驚かないし動じないんだよ。

 メリクに教えてもらったことがある。

 魔術師って普通の人の感じ取れなかったり見れないものを、修行や訓練で見れるようになるんだって。

 だからメリクは一人で旅してる時も、悪い奴とかと遭遇しても難を多く避けれたって言ってた。

 すべての魔術師がそうじゃないかもしれないけど、優れた魔術師は相手の人間が嘘をついて、悪いことをしようとして自分に近づいて来ても分かるらしいよ。

 思惑を持って近づいてくる奴って、普通の人間と纏う精霊の気配が違うらしい」


 ミルグレンも近づいて来て、テーブルの上に座った。


「だから?」


「う。……だ、だからー。

 きっとメリクは視力を失ってても、多分普通の人間がそうなるより、何かで補えるはずだし、今だって遥かに俺たちなんかより頼りになって強いだろうし、メリクがラムセスさんに呼ばれてついて行くんだったらきっと悪い人じゃあないんだよ」


 ミルグレンは頬をリスのように膨らませた。


「でもあいつメリク様を助手呼ばわりしてこき使ってるじゃない!

 メリク様は誰かにこき使われたりしちゃいけない人なのよ! 私の王子様なんだから!

 私の王子様はこの世で一番偉いの! 神様より天使より熾天使とかいう奴より遥かに上よ! 星より高く月よりも輝くのよ!」


「分かった分かった! メリクが最上級なのは分かったから!」


「天使とかいう連中も偉そうな奴ばっかで、私ここ、嫌いなのよね! 【ウリエル】に召喚されたって言うだけで虫みたいに見て来る奴もいるし!」

「まあ確かにそんなに歓迎されていない感じはするけど」

「あんたよくこんなところで愛想よく毎日過ごせるわねっ! あんた【エデン天災】を終息させた英雄じゃないわけっ⁉」


「俺は英雄なんかじゃないよ」


 ミルグレンは挑発したつもりだったが、エドアルトは苦笑した。


「俺はただ【次元の狭間】の中に入っただけだ。俺を媒介にすると、内部に魔術を行使出来るようになるって【ウリエル】が言ったから、じゃあやるって言っただけ。

 俺は呼びかけられて答えただけだよ。なんかすごい魔術が使えたわけじゃないし。

 ほんとたまたまだ。

 俺が出来なかったら、きっと他の誰かがやったことだと思う。

 あの時だって俺が頑張れたのは、メリクが生前色んなことを教えてくれて、魔術のことを話してくれたからもあるんだ。

 俺はメリクが視力を失った今も、すごく守られて教えてもらってると思ってるから、逆に視力を失っただけでメリクを心配し過ぎるのは、なんか違うと思うんだよ」


「…………あんたなんかムカつくわね」


「なんでだよっ」

「考え方がいい子過ぎてなんかムカつくわっ!」

「なんでだよっ!」


「今この瞬間もメリク様があの赤毛にこき使われてるかもしれないのに、あんたみたいな魔術師レベル2みたいな奴がなに悟りを開いたようなこと言ってんのよ!」


「う、うるさいな! 確かに魔術師レベルはそんなもんかもしれんが戦士レベルならもうちょっとは上だ!」


「戦士なんて興味全然ない!」


 ミルグレンの機嫌が全然直らない。

 エドアルトは溜め息をついた。


「……そりゃお前からしてみれば、こき使われてるように思えるかもしれないけどさー。

 でもさ、よく考えたらメリクだって、迷惑だったり嫌だったらはっきりと断るだろ。

 やっぱり魔術師のメリクから見ても、ラムセスさんって興味深いんだと思うよ」


 ミルグレンはドキとした。

 メリクの笑った顔が過る。


「俺は知らないけどさ。メリクって生前魔術学院で、同じ魔術師の人たちとああいう風に研究ばっかりしてたんだろ?

 正直、俺はまだメリクと対等に魔術の話なんてしてあげられないしさ……きっと話してても、楽しいんじゃないかなって思った。

 メリク生前ああいう同じくらいの年齢の魔術師の友人って、そんな持てなかったんだろ。

 俺にとってメリクは凄すぎる人だから忘れがちだけど、メリクだって普通に考えたらまだ若いんだし、同年代の友達と過ごしたいんじゃないかな……ってお前なんつー顔してんだよ」


 ミルグレンは苦虫を噛み潰した顔をしている。


「これもそれもあんたが早くあんな奴目じゃないくらい魔術師として立派にならないからいけないのよ!」


「えええええ⁉ そんな無茶苦茶な!

 あのひとエデン大陸史にも名前出て来る偉人で賢者だぞ!」


「あんたが面白くないからメリク様があんな奴相手にするようになっちゃったんだわ!」

「お、俺の心を無駄に抉るなよ!」

 面白くないと言われてエドアルトはショックを受けている。


「そりゃ確かに俺は全然魔術の知識もまだへろへろだけども……でもちょっとくらいはマシになってるぞ……ほんのちょっとだけども……。

 ……っていうかそこまで言うならお前はどーなんだよ!

 お前がいつもみたいにメリクの迷惑も考えずメリク様ーっ! って連れ帰ってくればいいじゃんか!」


 ミルグレンは頬を膨らませている。


「…………それが出来れば苦労しないわよ」


「え?」

「うるさいわね! 仕方ないでしょ!」

「おわッ⁉」

 ミルグレンが足で思い切りエドアルトの座っていた椅子の背を蹴ったので、彼はそのまま、椅子ごと仰向けにひっくり返った。


「お前今……脳天ぶつけたぞ! これ以上俺が馬鹿になったらどーすんだよ!」


 エドアルトがさすがに怒って立ち上がると、ミルグレンはすでに窓辺に移動して窓の外を見ていた。

 人に怪我をさせておきながら次の瞬間、こういう神妙な顔が出来るのがこいつのすごいところだとエドアルトは思った。


「…………。私だってメリク様がただ楽しいなら……

 いいのよ別に。あんな赤毛でも、一緒にいるのが楽しいだけなら」


 打ち付けた後頭部を摩り、涙目になっていたエドアルトがふと、気づく。

「なんかあるのか?」

「……言いたくない」

 ミルグレンは窓辺に両脚を上げて座り込んで、顔を伏せた。

「おい」

 エドアルトが口許を引きつらせる。


「……だって言ったら、本当になりそうで怖いの」



 こわい?

 この世で一番、ミルグレンに似合わない言葉だ。



 メリクがいれば彼女は不死者も魔物も四大天使も熾天使も何にも怖くないのだから。

 エドアルトは側にやって来て、しゃがみ込んだ。

 ミルグレンの背を撫でてやる。


「なんだよ……。おまえが『こわい』なんて言うはずないのに。

 なんか、思うことがあるんだろ、ミルグレン。

 言ってみれば。

 おれ、お前が言うなって言うなら別に誰にも言わないし……。

 俺はメリクの弟子だけど、お前は俺よりずっとメリクのこと真剣に見てるよ。

 俺が気付けない何かもお前なら気づけると思う。


 メリクに関することなのか?


 お前、前は視力を失ったメリク気にして【天界セフィラ】によくいたのに最近地上にいるよな。

 それ、なんか関係してるのか?

 ……ああ違う。そうだったけど、最近また天界の方によく来るようになったんだ。

 メリクのとこに来ると、留守が多くても待ってることがある」


 エドアルトという青年はこういう所を、見てないようでちゃんと見ているのだった。



「……。……なんか最近……メリク様、前と様子が違う気がしない?」



 つまりそう、ミルグレンは感じているのだ。

 エドアルトは特別そうは思っていなかったが、何も言わなかった。

 否定をすればミルグレンが怒る。それが分かるからである。

 彼女を怒らせると話が出来なくなる。エドアルトはよく分かっていた。



「…………似てるの」



「似てる?」

「…………メリク様が生前、サンゴールから出て行っちゃう、直前のあたりの空気に……」

 エドアルトは驚いた。


 メリクは最近、よくラムセスと一緒にいる。

 魔術師友達が出来たようで、楽しそうに見えた。


「……どういうところが?」


「上手く言えないけど……」


 エドアルトはミルグレンの肩に手を置いた。

 彼女は顔を上げる。


「言えよ。ミルグレン。

 おれ、何となく分かる。

 そういうの魔術の世界だと、気のせいとか偶然とかじゃないって言われるんだ。

 言葉には出来ないけど確かに感じるもの。

 すごい大切で、見逃しちゃいけないものらしい」


 ミルグレンは不安げな顔はしていたが、エドアルトの強い眼差しで見つめられると、やがて小さく頷いた。



「メリク様が国を出て行った時は……――」



 ミルグレンは記憶を手繰り寄せて少しずつ話し始めた。

 彼女自身、あまり思い出したくない記憶だったので普段は奥に封じ込めていたが、なんとか思い出そうとする。


 妙に平和で、穏やかな空気がサンゴール王宮に流れていた。


 ミルグレンは王立アカデミーに入学し、同年代の、貴族の子息たちと会うようになっていたがそれが余計、彼女のメリクへの思慕を募らせるようになっていた。

 

 あんな人はどこにもいないのだと、実感したからだ。


 会いたくてたまらなくて、

 でも宮廷魔術師になったメリクは城から出ていることが多く、会えないことが多かった。

 それでもたまに戻って来るとアミアカルバと、リュティスと、ミルグレンとメリクで一緒に食事をした。


 楽しくて、幸せだった。


 アミアカルバも、あの頃はメリクが戻って来ると嬉しそうだった。

 母親が嬉しそうだったのでミルグレンも幸せだった。


 ……リュティスは相変わらず寡黙なひとで、


 深くフードを被って表情も見えず、何を考えているのかミルグレンには全く分からなかったけれど……。


 その頃は幼い頃よく見たように、メリクを魔術の師として厳しく叱責することもなくなっていた。それはそうだろう。メリクは当時魔術学院でも首席で、若き宮廷魔術師で、師として例え誉めるような性格でなくとも、彼を怒るような要因が何一つなかった。


 だからリュティスとメリクの関係も、あの時は落ち着いて見えた。


 親しいとは思わなかったが、リュティスの苛立った気配はあまり見なくなっていたから、さすがに彼もメリクが立派にやっていると認め始めてくれているのだと、ミルグレンはそんな印象だった。


 何もかも、完璧で。

 まだ具体的な話にはなっていなかったけれど、

 アミアカルバとも結婚の話をしたことがあった。

 二人が望めば、本当の兄妹ではないのだから結婚は反対しないと、母親は言ってくれていた。


 メリクは会えばいつものように優しかった。

 ……優しすぎるほどだった。


 これはミルグレンが、あとで知ったことだ。

 メリクが出奔した後に聞いた。

 メリクが反逆罪の疑いを掛けられて、軟禁されるという事件があった。

 ミルグレンの耳に入ればすさまじい騒ぎになるので、決して耳に入れないようにされていたようだがメリクが軟禁され、当時外遊の為に国を留守にしていたアミアカルバが戻って来た時、それを知りながら軟禁を解かなかったリュティスと、かなり激しく言い争ったらしい。


 メリクの周囲に吹く風は目まぐるしく変わっているのに、

 ミルグレンの目から見るメリクの姿は、平穏の中にある。


 彼が必死に、見せまいと振る舞っていたあのミルグレンへの優しさは、そういう風を少しでも彼女が感じないようにするためのことだったのかもしれないのに、ミルグレンは気づいてやれなかった。


 メリクはそういえばあの頃、城にあまり戻りたくないような素振りを見せた。

完全に後から考えればであるけれど。

 多忙だと聞いて、変に思わなかった。

 宮廷魔術師ってそんなに忙しいのと残念がって、叔父のリュティスに聞いたりしたこともある。


 前触れというのなら……、


 緩やかにそうやってメリクの姿を見なくなることが多くなった。

 城の者達は彼が消えた時、突然の失踪だと慌てふためいた。

 しかしメリクが出て行ってから、実のところ失踪が発覚するまで数日を要した事実がある。

 アミアカルバでさえ、気づいていなかった。

 彼は突然消えたのではない。


 ……ゆっくりと、静かに消えて行ったのだ。



「……最近メリクがよく出歩いてるのが、不安なんだな」



 あまりよくは分からなかったが、エドアルトは読み取って、そう言った。


「ラムセスがメリク様を連れ出してるのは、最初から。

 生前も【知恵の塔】や宮廷魔術師団や、養父の軍部大臣オズワルト・オーシェが彼をなんやかんやと連れ出してたわ。

 でも、そんなことじゃない。

 その中に不必要な留守があった気がするの。

 なにかメリク様が不安に思っている、何かがある気がする。

 手を打てることなら何でも手を打てるあの人が、何もしないで、

 ……自分の方が遠ざかってしまう」


 エドアルトは、何となく分かった。

 本当に何となくだけれど。

 分かりたいと思ったし、ミルグレンを信頼していたのもある。

 彼女のメリクを見る目はいつも確かだったから。


 エドアルトが気付かないような細かい所まで、彼のことを見ている。

ミルグレンはメリクに対してだけは、何故かそうなのだ。


「……なんとなく分かる、気がする」


 ミルグレンがそっとこっちを見た。


「俺も生前メリクに撒かれた時、お前に今言われて気づいたけど、なんていうか……メリクって、一番今いなくならないだろうなって思った時にいなくなるんだ。

 何の前触れもないんだけど、でも後で思うと不思議なくらい、自分が安堵してる時に置いて行かれた。


 多分あれを、メリクは感じてたんだと思う。


 例えば本当にメリクが俺を撒きたいならさ、山越えの途中の野宿で、俺が疲れ切って寝てる時とかに置いて行けば楽だろ?

 でもそうじゃないんだ。

 そういう大変な時に置いて行けば、簡単に撒けるのにそうしない。

 次の街に無事について、俺が安心して一番安全な所にいる時に置いて行ったんだ。

 しかも色んなもの置いてだ。

 お金とか容赦なく全部置いて行くんだ。

 まるでこれを使って、帰りなさいっていうみたいに」


 ミルグレンは自分の膝に頬杖をつき、黙ってエドアルトの話を聞いていた。


 ミルグレンが加わってからはあの……最後の別れ。


 北嶺にメリクが単独で向かい始めるまで、メリクがミルグレンとエドアルトを置いてどこかに消えるようなことはなかった。

 別行動はしたが、置いて行かれたわけではない。


 だがエドアルトと二人旅の時は、最初の頃はよくそういうことがあったらしいとは聞いていた。


「……あんた言ってたよね。ある時メリク様が、一緒にいていいよって言ってくれたって」

「うん。それからは本当に、置いて行かれなくなった」

「なんでだろう?」

「……俺があまりにしつこいのに根負けしたって言ってたけど」

 ミルグレンは呆れた顔をする。


「馬鹿ね、あんた。

 メリク様を舐めるんじゃないわよ。

 あんたのしつこさに根負けするようなヤワじゃないわ。あの人は。

 サンゴール王宮で、どれだけ辛い想い、耐えてきた人だと思ってるのよ。

 あんたのしつこさくらい、何でもないわよ」


「そうかな? 俺、ホントにしつこかったなーと自分でも思ったし……」


「……なんであんたの同行を許したんだろう」


 ミルグレンは呟いた。

 エドアルトは考えたことも無かった。


(……考えるべき、ことだったかも)


 その時はじめて気づいた。

「お前って、本当メリクに関してはすげー鋭いな」

「え?」

「感心する」

 エドアルトは笑った。

 なに笑ってんのよ、とミルグレンは呆れて、軽く隣にいるエドアルトの肩を小突いて来た。


「なんか思い出してよ。エド。

 あんたは一度、許されてる。

 私にもそれが出来れば、私も一緒にいること、許してもらえるかもしれないから……」


「許すも何も……」


 お前は一度も、撒かれてないだろと笑いかけて、エドアルトは思い出した。



『過去を辿って俺を追って来るサンゴールの者がいれば、俺は全てを拒絶する。

 でも唯一拒絶できないのが、あの子だった』


 生前メリクが話してくれた、数少ない真実。


『俺は彼女がこの世で一番大切だけど――。

 ――だからといって、彼女に全てを与えられるわけじゃない』


 何故ミルグレンが一番大切なのに、

 全て与えられないのか。


 そこが繋がらない所にメリクの普段見せない、本質の難解さがある。



「……エド?」



 ふと、ミルグレンは気づいた。

「どうかした?」

「あ、いや……」

 エドアルトは思い出した。

 なんで忘れてたんだろうと思うようなことだ。


「思い出した。メリクが俺について来ていいって言った時、なんでだったか」

「なに?」

 ミルグレンが表情を輝かせる。


「母親の話を確かしてたんだ」


 ミルグレンの瞳は瞬く。

「……オルハ?」


「うん。たしか……。いや、絶対そう。

 何でそうなったかは分かんないけど、メリクと結構長く離れて、一年くらいだったかな……再会した時、弟子にしてくださいってまた頼み込んだら、それまでのメリクっていいよとも言わなかったけど、駄目とも言わなかったのに、初めてついてきてほしくないってはっきり言われたんだ。

 それでも粘って、側にいたら……俺なんかの側にるくらいなら親元に戻ってあげなよって言われて。母子家庭ていうのは話してたから。

 だから俺の母親はアリステアの神官だから、自分の許にいるより世界の困っている人を助けてあげなさい、って言うような人だみたいな話をしたんだよ。


 そうだ! そうしたらメリクすごく驚いたみたいな顔して、すぐに二階に行っちゃって……なんで忘れてたんだろ」


 ミルグレンは眉を寄せる。


 オルハ?


「それですぐに同行を許されたの?」


「ううん。次の日、朝ごはん食べてたらいきなり。

 俺は呆れられちゃったのかなあと思ってたけど。

 いきなり言われて。嬉しくて今の今まで忘れちゃってたよ」


「オルハのこと、詳しく話したの?」


「違う。アリステアの神官でオルハ・カティアって名前だけ」

「メリク様が驚いた顔してた?」

「うんそれは。すごい驚いてたみたい」


「……それまであんたのこと、オルハの息子ってメリク様は知らなかったのよね」


「そう。俺エルシドってとこで不死者に襲われてるとこ偶然メリクに助けてもらったから。

 メリクは『エルシドのエド』って俺のこと覚えていたみたい」


 それはそうだ。


 もしメリクが『アリステアのエドアルト』と聞いていたら、最初からオルハの息子だと思った可能性がある。

 でも、とミルグレンは不審がった。


 おかしくないだろうか?


 メリクが望んだのは、過去との決別だったはずだ。

 最も忘れたがったのはサンゴール王国での過去だろうが、アリステア王国はサンゴール王国と密接に繋がっている。

 特にオルハは母であるアミアカルバの、学生時代からの腹心だった。


 そう、メリクが滅んだ村から助け出された時、アミアカルバと共にオルハがいた。

 オルハはつまり、十分にサンゴール王国の因縁の中にいる女性だ。


 信じがたい偶然にせよ、エドアルトの母親であることにメリクが驚いても不思議ではないが、それでも彼女だと知ったから同行を許すというのは、変な気がした。


 しかしアミアカルバとオルハに自分の命を救われたとメリクが思っている場合、サンゴールの過去とは無関係になりたいと願っていても、そういう風に思うものなのだろうか?


 確かにメリクはそういう所があった。

 最後の最後で、冷酷になりきれないのだ。

 エドアルトがオルハの息子だと知り、自分の命の恩人の息子だと知り、

 助力をしようと思った可能性は否定しきれない。


「……あんたはどう思う?」


「おれは……。……母さんが一時期、サンゴール王宮でメリクの守り役みたいなことしてたって随分後になってメリクから聞いたから、それで……特別に許してくれたのかなと。

 母さんへの恩返しとして」


 エドアルトの見立てはミルグレンと全く同じだった。


 でもなんだろう。

 釈然としない。

 そういうのも全て含めて、メリクは苦しみながら捨てたのではなかっただろうか?


 城の外に出たこともない少年が命すら投げ出す覚悟で、サンゴールを出たはずだ。

 オルハの息子ならば、余計遠ざけるべきではないのか。


 何かが引っ掛かる。

 ミルグレンはメリクの姿を思い出した。

 一人で佇んでいる姿だ。


 何かに自分は、気づいていない。

 これは彼女の直感だった。


「なあ……ミルグレン……一応こうやって話しても、どうだったかなんてメリク本人にしか分からない。そうやってお前が心配なら、ちゃんと一回メリクに話してみたらどうだ?」


「話すって何をよ。

 メリク様は何かを考えて、苦しんでるかもしれないのよ。

 私がそれを分かってあげもしないで、答えだけ聞くなんて甘えてるわよ。

 そういうことも、すごく煩わしいかもしれないじゃない」


「お、お前はほんとメリクが関わることだけ、ものすごく立派なことを言うよな」


「喧嘩売ってんの! エドアルト!」

「わああああああ! いでででで!」

 首を渾身の力で締め上げられて、エドアルトは慌てた。

 こいつ王女のくせになんでこんな力あるんだろう。


「いや! そうじゃなくて! 売ってなくて!」


 必死にミルグレンの腕力から逃れて、エドアルトは立ち上がった。


「おれは! この世でお前だけはメリクにそういうこと聞く資格があるって言ってんの!」


 ミルグレンはきょとんとした。

「……あんた何言ってんの?」


「だってメリク言ってたもん!

 生前だけど!

 メリクはサンゴールという国から逃れたくて、それで国を出て来たから、例えサンゴール王国から過去を辿って誰が追って来ても、全部、全員俺は拒絶するけど、唯一拒絶できないのがお前だったんだって!」


 ミルグレンは目を見開いて驚く。


「お前は知らないかもしれないけど、

 メリクだって、ちゃんとお前のこと大切に思ってるんだぞ!」


 ハッとしたように、彼女は立ち上がる。

「なに言ってんのよ……私なんてまだ、メリク様には手のかかる妹くらいにしか思われてないわよ」

 そのくらい知ってんだから、と歩き出した。



「お前ばっかじゃねえか?」



「なんですって?」

 数歩行った所で殺し屋みたいな表情でミルグレンが振り返る。

 まさに鬼の形相だ。

 エドアルトは慌てる。

 殺される前に言っておかなくては。


「手のかかる妹なら、とっとと国に送り返したよ!」


 自分はメリクから聞いたのだ。

 ミルグレンは聞いていない。

 それを伝えなければいけなかった。


「メリクが言ったんだよ!

 お前は、自分にとってこの世で一番大切な女性だって!」


 ミルグレンの怒りの表情が解け、驚きの表情に変わった。


「一番大切な女性だけど、――それは確かだけど、でもだからと言って、……彼女に全てを与えられるわけじゃないって……そう……言ってたから……」


 よく考えたら言葉の最後の方は、ミルグレンを喜ばせるものではなかったと思い当たり、どんどんエドアルトの声は自信が無くなって行った。


 次の瞬間、驚きに目を見開いていたミルグレンの目から、大粒の涙が零れた。

 しかも両目からだ。

 エドアルトは驚いた。


「おわあああああああああ! なんで⁉」


 ミルグレンは顔を歪め、両手で顔を覆った。


「……いつのこと?」

「えっ⁉」

「いつ、メリク様がそう言ったの?」

「…………。……メリクが、一人で、……北嶺アフレイムに向かう日の、朝……」


 聞かないようにしていた、それは聖域だった。

 聞いてしまえばメリクの側にいられなくなるような気が本能的にしたからだ。


 ミルグレンはもう自分にとって何の価値もないから、エドアルトに国に連れ帰って欲しいと、メリクはそう言ったのではないかと、彼女が長い間思っていたのはそうだった。


 エドアルトはその時の会話は、ミルグレンを必ず傷つけると思って話すのは口を噤んでいたから、男二人が何を話したのか彼女は知らない。

 ミルグレンに話すべきなら、きっとメリクは話してくれたと思ったからかもしれない。


 結局あの時、メリクが信頼したのはエドアルトだった。


 ミルグレンを信じたのなら、彼女にも話してメリクは去っただろう。

 エドアルトほどには、自分は信じてもらえなかったのだと、ずっとそのことがミルグレンの心の傷になっていた。


 でも。



(――メリクさま!)



 彼の優しい、瞳や、声や、笑い方を思い出した。

 自分に向けてくれた、何千何万回のそれを。

 そしてどうしてそれを、自分は信じなかったんだろうと思った。


 この世で一番大切だけど、全てを与えてはやれない。


 それはまさにミルグレンがメリクから感じる、あの情け深い波動をそのまま言葉に紡いだものだった。


 どこか欠けている、

 完璧じゃない、なにか。


 それでも繋がっていると信じれるもの。


「なんでその言葉を、あの日言ってくれなかったのよ……、

 それを知ってたら……、わたし……

 ……わたしは……!」


 ミルグレンがエドアルトの身体にほぼ体当たりしてくるように、飛びついて来た。

 声を出して大泣きをしている。

 エドアルトは呆気にとられた。

 それでもミルグレンがあの時、数日後、もうメリクは俺たちの許に戻って来ないと話した時、同じように彼を想って大泣きをした時とは違うことが、彼には分かった。


(……ほんとうに)


 早く、話してやればよかったと彼は心底後悔した。


 ミルグレンは今、一番欲しかったメリクからの言葉を貰えたのだ。


 メリクからの彼女への本当の想い。

 紛れもない、愛情の言葉を。



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