3話 アズライト
二人は夜明けと共に発った。
村人に見咎められぬよう、獣道を縫って街道へ出る。
コレットの荷物は小さな革鞄が一つだけ。中身は干し肉と水、着替えが僅か。
生まれ育った村を捨てるというのに、あまりに軽すぎる荷物。
それが、彼女がこの土地で積み上げてきたものの少なさと、残された孤独を無言のうちに語っていた。
歩き始めて四刻ほど。
休憩がてら、カインは魔力制御の講義を始めた。
だが、それは最初から暗礁に乗り上げた。
「……ダメだ。全然止まらん」
カインは苛立ち紛れに頭を掻いた。
目の前でコレットが脂汗を流し、必死に念じているが、彼女から放出される魔力の奔流は一向に収まる気配がない。
むしろ、意識すればするほど乱れ、周囲のマナを巻き込んでスパークしている。
「す、すみません……っ。どうやっても、指の間から水が漏れるみたいに……」
「謝るな。やり方が悪いだけだ」
転生者という前例は知っていた。だが、そのサンプルである男は「マナを持たない特異体質」だった。
つまり、今のカインにとっては何の参考にもならないのだ。
(あの野郎、せっかくなら魔力持ちで転生してこい。データが取れんだろうが)
どこにいるとも知れない旧友に理不尽な悪態をつく。
『えへっ! めんごめんご!』
舌を出してウインクし、サムズアップをしている男の姿が脳裏に浮かぶ。カインは無性に苛立った。
カインは魔法の天才だが、それはあくまで「この世界の理」の中での話だ。
コレットの魔力は、質も、挙動も、カインの知識体系とは根本的に異なる。
例えるなら、一流の時計職人に、未知の電子回路を修理させようとしているようなものだ。
「……お前、さっきから何をイメージしている?」
カインは問いかけた。
彼女の魔力の動きには、奇妙な癖がある。
ただ垂れ流しているにしては、必死に何かに「訴えかけている」ような切実さを感じるのだ。
「え……? あの、精霊さんに、力を抑えてくださいって、お願いを……」
「精霊?」
「え? はい……私の世界では精霊と契約して魔法を行使していましたので……」
「……それが原因か」
カインは深く溜息を吐いた。
「祈るな。この世界の精霊は、お前の言葉など聞いちゃいない。お前のそれは対話じゃない。一方的な懇願だ」
「でも……っ! 祈らないと、どうすればいいか分からないんです!」
その声には、単なる技術不足ではない、悲痛な響きが混じっていた。
「私には、これしか出来ないから……。父さんと母さんが病気になった時も、私はこうして祈ることしか出来なかった……っ」
カインの動きが止まる。
「父と母……? ああ、お前を育てた、この村の両親か」
「……はい」
コレットは俯き、震える声で告白した。
「二人は、去年の冬に流行り病で亡くなりました。……私は、前世の記憶があったから、『治癒魔法』が使えると思って……毎日、毎日、必死に祈ったんです。治してくださいって」
コレットの瞳から涙が溢れる。
「でも、魔法は発動しませんでした。代わりに、魔獣が来ました。私が祈れば祈るほど、森の獣たちが凶暴になって……私が、二人を助けようとしたせいで、村のみんなを危険な目に……」
顔を覆い、泣き崩れるコレット。
良かれと思って振るった力が、最悪の結果を招いた。
彼女の中に染み付いた「祈り」は、希望ではなく、消えない罪悪感そのものだった。
カインは黙って聞いていたが、その胸中には苦いものが広がっていた。
祈りが呪いになる。救おうとして、壊してしまう。
それは、かつてカイン自身が犯した罪と、あまりに似ていたからだ。
(……皮肉なもんだ)
カインは立ち上がり、コレットを見下ろした。
「泣いてもどうにもならん。それに、すぐに泣くな」
「うっ、ぐすっ……すみません……私……泣き虫なんです……」
「お前のやっていたことは、血を撒き散らしながら『助けて』と叫んでいるようなものだ。魔獣の格好の餌なんだぞ」
残酷な事実を突きつける。
だが、それは同時に「彼女の人格」ではなく「現象」に原因があるという、カインなりの線引きでもあった。
「思考を切り替えろ。祈りは届かん。だが、形にすることはできる」
カインは指先で空中に図を描いた。
「お前が放出している『生のマナ』を、祈りではなく、無害な『光』や『熱』といった単純な現象に変換して消費させる。垂れ流すのではなく、使い切るんだ」
「使い切る……?」
「そうだ。常に微弱な魔法を行使し続ける状態を作る。そうすれば、魔獣を呼び寄せる『匂い』は消える」
それは、常人なら精神が焼き切れる荒行だ。
だが、祈り続けることで罪を償おうとしてきた彼女なら、あるいは。
「やってみます……!」
コレットは涙を拭い、再び目を閉じた。
漏れ出る奔流を、誰かへの願いではなく、ただの灯火へと変える。
指先から、蛍のような淡い光が明滅し始めた。
「……! 出来ました、カインさん!」
「まだだ。安定させろ。瞬きするな」
カインの指導はスパルタだった。
一刻、二刻。コレットの顔から血の気が失せ、指先が震え始める。だが、彼女は決して弱音を吐かなかった。
「……よし。一旦休憩だ」
カインの声に、コレットはその場に崩れ落ちた。
肩で荒い息をしている。だが、その周囲に漂っていたあの甘い芳香は、確かに薄れていた。
「あ、ありがとう……ございます……」
「礼には及ばん。毎度毎度魔獣に出てこられても処理するのが面倒だしな。制御の仕方を教えるのは俺が楽をするためだ」
カインはそっけなく言い、水筒を放り投げた。
コレットがそれを受け取り、喉を鳴らして飲む。
ふと、彼女の視線が道端で止まった。
「あ……」
雑草の中に一輪、鮮やかな青い花が揺れていた。
コレットが吸い寄せられるように近づき、指先で花弁に触れる。
「綺麗……。私の……いえ、私の国にも、これによく似た花が咲いていたんです」
「そうか」
「はい。父が好きで……庭師と一緒に、私もよく水をやっていて」
琥珀色の瞳が細められる。
脳裏に浮かぶのは、陽光降り注ぐ王宮の庭園。父の穏やかな笑顔。
だが、不意に彼女の指が止まった。
「……あれ?」
カインは眉根を寄せた。コレットの指先が、小刻みに震え始めている。
「名前……何だったっけ……あんなに、毎日呼んでいたのに」
――思い出せない。
花の色も、土の匂いも、父の声色さえ鮮明なのに。
その「名」だけが、インクを零したように黒く塗りつぶされている。喉元まで出かかっているのに、霧散していく。
「嘘……どうして? 忘れちゃった。あんなに大切だったのに……」
悲痛な響き。そして、削り取られていく記憶。
世界からの同化という名の、残酷な洗礼。
カインは彼女の素性を知らない。だが、彼女が今、魂の一部をもぎ取られたことだけは痛いほど伝わってきた。
かける言葉を探し、カインは短く吐き捨てた。
「『アズライト』だ」
「え……?」
「この世界じゃ、そいつをアズライトと呼ぶ」
カインはしゃがみ込み、その青い花を手折った。華奢な茎が、プツリと音を立てて千切れる。
「前の世界での名は知らん。だが、今お前の目の前にあるのはアズライトだ。……今は、それでいいだろう」
慰めになどならないかもしれない。
だが、失った穴を埋めるには、新しい楔を打つしかない。
コレットはハッとしてカインを見た。瞳に涙が膜を張る。
「……そう……ですね」
涙を袖で乱暴に拭い、彼女は笑った。無理に作った、今にも壊れそうな笑顔で。
「アズライト。……覚えました。今度は、忘れません」
その笑顔が、カインの胸に小さく棘を刺した。
カインの旧友は言った。
『記憶を忘れんのは、自然なことだと思うぜ。実際、俺は転生前の名前すら覚えちゃいねぇし、いずれは、自分が転生したってことも忘れるんじゃねぇかな。そんな気がすんだ』
そんなことを言いながら、彼は笑っていた。
だが目の前の少女にとって、それは身を切り刻まれる処刑に等しい。
(……罪な世界だ)
カインは心の中で毒づくと、手の中にある青い花に魔力を通した。
パキリ、と硬質な音が鳴る。
カインの手のひらで、アズライトが一瞬にして透き通る結晶の中に封じ込められた。
薄く、平たい、長方形の結晶板。中で咲く青い花は、永遠に色褪せることのない輝きを放っている。
「……カインさん、それは?」
「やる」
カインは無造作にそれを放り投げた。コレットが慌てて両手で受け取る。
ガラスのように透明で、しかし鋼鉄のように硬い。
「魔力感知式の魔道具だ。即席だがな。お前が魔力制御を失敗すれば、中の花が赤く光る。光ったら修正しろ。修行用の道具だ」
「綺麗……。まるで、宝石みたい」
「ただの樹脂硬化だ。……それと」
カインは背を向け、歩き出しながら背中越しに言った。
「栞(しおり)だ」
「え?」
「本に挟む栞だ。……人は忘れる生き物だ。忘れたなら、そこから読み直せばいい。その青いのが目印になる」
不器用な言葉だった。
だが、コレットにはその意味が痛いほど伝わった。
記憶が消えても、この栞がある場所が「今の私」の居場所だ。ここからまた、ページを捲ればいい。
コレットは、手の中の青い結晶を、祈るように胸に抱いた。冷たいはずの結晶が、ほんのりと温かい気がした。
「……はい。大切にします」
彼女の表情から、先ほどの悲壮な色は消えていた。
森の木漏れ日の中、青い栞を胸に抱く少女と、それを振り返りもしない男。
ちぐはぐな二人の旅が、ここから本当の意味で始まった。
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