1話 一食の礼
森の空気が変わった。
湿った土の匂いに、鉄錆のような臭気が混じり始めている。血と、捕食者の匂いだ。
カインは眉根を寄せ、獣道を歩いていた。
先ほど別れた娘、コレットの足跡は、村の方角へと続いている。
だが、それとは別に、森の奥から急速に近づいてくる巨大な質量の気配があった。
「……引き寄せているな」
カインは独りごちた。
コレットから発せられる異質な波長。それは、マナに飢えた魔獣たちにとっては極上の餌のようなものなのだろう。
通常、魔獣というのは縄張り意識が強い。だが、今のこの森からは、理性を焼き切られたような、異常な興奮状態にある獣の気配が漂っている。
――ズゥゥゥン……。
地響きと共に、木々が薙ぎ倒される音が響いた。近い。
「……やれやれ」
カインは歩調を早めた。
走ってはいない。だが、その移動速度は常人の全力疾走を遥かに凌駕していた。地面を滑るように、音もなく森を駆ける。
◇
一方、コレットは走っていた。
息が切れる。足がもつれる。茨がスカートを裂き、白い肌に赤い筋を作るが、構ってはいられなかった。
(やっぱり、来てる……っ!)
――背後から迫る濃密な殺気。
コレットには分かっていた。
自分がこの村に産まれてから、森の魔獣たちが凶暴化していることを。
村人たちが向ける冷ややかな視線。「あの娘が産まれてからおかしくなった」という陰口。
それは事実だった。この世界のものではない自分の魂が、魔力を垂れ流し、獣を狂わせている。
分かっている。
分かっているからこそ、あの不愛想だが親切な男――カインを巻き込むわけにはいかなかった。だから逃げたのに。
「グルルルゥ……ッ!」
轟音と共に、目の前の巨木が弾け飛んだ。
コレットは悲鳴を上げて尻餅をついた。
土煙の中から現れたのは、異形の熊だった。体長は五メートルを超え、その全身からは赤黒い瘴気が立ち上っている。
『
通常種でも熟練の冒険者パーティが全滅するほどの猛獣だが、目の前の個体は明らかに違う。波長に当てられ、変異し、
「あ、あぁ……」
コレットは後ずさった。
腰が抜けて力が入らない。琥珀色の瞳が見開かれ、絶望に染まる。
暴熊が腕を振り上げた。その爪にはドス黒い魔力が収束している。
(ごめんなさい……お父様、お母様……)
前世の記憶が走馬灯のように過る。
何も成せず、ただ追われ、またこうして死ぬのか。
暴熊の腕が振り下ろされる。
コレットはギュッと目を閉じた。
――ジュウッ。
肉が裂ける音ではなかった。
まるで熱した鉄板に水滴を落としたような、何かが蒸発する音が響いた。
痛みがない。
恐る恐るコレットが目を開けると、そこには信じられない光景があった。
黒髪の男の背中。
先ほど別れたばかりの、泥だらけのシャツを着た男――カインが、コレットの前に立っていた。
武器は持っていない。ただポケットに手を突っ込み、無防備に立っているだけだ。
なのに、暴熊の爪はカインに触れる寸前で止まっていた。いや、触れることができないのだ。
カインの体の表面数センチで、暴熊の爪を覆っていた強大な魔力が、煙のように霧散している。
「……喧しい」
カインは低く呟いた。
その声には恐怖も焦りもない。ただ、昼寝を邪魔された猛獣のような、底冷えする不機嫌さだけがあった。
「カイン、さん……?」
「下がっていろ。服が汚れる」
カインが一歩踏み出すと、暴熊は本能的な恐怖を感じたのか、数メートル後方へと飛び退いた。
暴熊は驚愕に目を見開き、すぐに激昂して咆哮を上げた。全身の瘴気が膨れ上がり、周囲の空間が歪むほどの
それは、村一つを更地にするほどの破壊魔法の予兆だった。
「ッ! だめです、逃げてください! あれは魔法を使います!」
コレットが叫ぶ。
だが、カインは動じない。白シャツの袖を少し捲りながら、暴熊を見上げる。
「魔法、か」
カインの青灰色の瞳が、暴熊の周囲に展開される魔法式を映した。
原始的な術式だ。本能のままに魔力を爆発させるだけの、芸のない破壊魔法。
かつて亡国ヴァニタスで魔法の基礎を築いたカインにとって、それは解析する価値すらない落書きに見えた。
暴熊が咆哮と共に、極大の炎弾を吐き出した。
全てを焼き尽くす熱量がカインに迫る。
カインは避けもしない。防御魔法すら唱えない。
ただ、そこに在るだけだ。
炎弾がカインに直撃する――その瞬間。
音もなく、炎が消えた。
防がれたのではない。まるで最初からそこになかったかのように、現象そのものが分解され、透明なマナへと還ったのだ。
――
魔法とは、マナを「構成式」という接着剤で繋ぎ合わせて形作る積み木のようなものだ。
カインが常時展開している結界は、その接着剤の結合のみを強制的に解除する。
カインに触れた瞬間、どんな大魔法であっても構造を維持できず、無害な素粒子へと還る。
それが、最強の魔法士が持つ「理不尽」の正体だった。
「遅い」
カインが右手を軽く掲げた。
森を焼くわけにはいかない。
使うべきは、最小にして最大の貫通力。
詠唱はない。魔法式の構築すら、瞬きより速い。
『
カインが人差し指を弾いた。
ただそれだけの動作。
だが次の瞬間、暴熊の眉間に風穴が開いていた。
圧縮された空気の杭が、音速を超えて頭蓋を貫通し、脳幹を破壊して後方へ抜け去ったのだ。
血飛沫すら上がらない。あまりに綺麗な即死だった。
ズシン、と巨体が崩れ落ちる音が、静寂を取り戻した森に響く。
カインはふぅ、と息を吐き、振り返ってコレットを見下ろした。
「立てるか」
ぶっきらぼうな声。
コレットは震える唇で、呆然と彼を見上げていた。
村人たちが恐れ、自分を忌み嫌う原因となった災厄を、この男は指先一つで、魔法名すら口にせず処理してしまった。
「な、なんで……どうして、戻ってきてくれたんですか……?」
コレットの問いに、カインは乱れた前髪をかき上げ、面倒くさそうに言った。
「言っただろう。一食の礼は返すとな」
「そ、それだけで……命を懸けたんですか?」
「お前の施しが無ければ、俺は餓死していたかもしれん。あの一食は俺の命を救った。救われたのが命なら、命で返すのは当然のことだ」
カインはコレットに手を差し出した。
その手は大きく、節くれ立っていて、温かかった。
「行くぞ。村まで送る。……それに、その奇妙な波長についても、少し話を聞かせてもらうぞ」
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