第2話 秘書の技能は牙をむく

 ◆秘書、清洲城を改革す◆


 清洲城での生活が始まって三日。

 晴臣は信長の側近として、その執務に立ち会うことになった。そして目にしたのは、秩序という概念が放置された空間だった。

 書状は机の上に積み重なり、内容も重要度も区別がない。家臣は思い立ったときに現れ、用件を述べ、納得すれば去っていく。軍事の急報と雑談が同じ束に混ざり、決断と確認が同時進行している。

 信長はすべてを把握していた。把握できてしまうがゆえに、整理という工程が存在しない。結果、混沌は主の才覚によって維持され、拡張されていた。

(……これは、個人能力で回している組織の末期症状だ)

 思わず表情に出たらしい。

「どうした、晴臣。浮かぬ顔よ」

 胡坐をかいた信長が、茶を啜りながらこちらを見る。

「失礼いたしました。ただ……書状と面会の扱いが、やや厳しい状況かと存じます」

「ふん。わしはすべて覚えておる。支障はない」

「はい。信長様が把握されていることは承知しております。ですが、その前段階で整理を行えば、情報がさらに活きるかと」

 信長の眉が、わずかに動いた。

「整理、とな?」

「はい。現在は『急ぐべき事柄』と『後でも差し支えない事柄』が同列に並んでおります。その状態では、判断そのものが重くなります」

「……ほう。続けよ」

 許可を得て、晴臣は一歩だけ踏み込んだ。

「まず書状を三種に分けます。至急、重要、通常。印や色を用いれば、目を通す順が一目で分かります」

「色分け、か」

 信長の視線が鋭くなる。

「さらに、家臣の面会も整理いたします。軍事の急報、政の相談、雑談。それぞれを分け、同種の用件をまとめて対応されれば――」

「わしの時間が増える、ということか」

「はい。加えて、判断の精度も上がるはずでございます」

 一拍の沈黙。

 そして、信長は豪快に笑った。

「晴臣よ。おぬし、実に良い働きをする」

 予想外の反応に、晴臣は一瞬だけ目を瞬かせた。

(現代では、ごく当たり前の整理術なのですが……)

 その言葉は胸の内に留め、晴臣は静かに頭を下げた。

「ありがとうございます。引き続き、お役に立てるよう努めます」

 清洲城の空気が、わずかに変わった。

 それは改革と呼ぶには小さすぎる変化だったが、確実に、主の周囲から形を持ち始めていた。



 ◆最初の戦場へ◆


 晴臣が提案した分類の仕組みは、驚くほど早く城内に浸透した。書状の端に施された色の印は簡素だったが、意味は明確で、家臣たちはすぐに使いこなすようになった。そして――信長の判断は、目に見えて速くなった。

 数日後、信長が晴臣を呼び止める。

「晴臣よ。浅井より急使が参った。近江にて、怪しき動きがあるそうじゃ」

「戦の兆し、ということでしょうか」

「うむ。そこでだ」

 信長は口元を歪め、楽しげに言った。

「おぬし、わしと共に戦場へ来い」

「……戦場、でございますか。申し訳ありませんが、私は武士ではありません」

「案ずるな。戦えとは申しておらぬ。見るのだ」

「見る、とは……」

「未来の知恵で、わしの目には映らぬものを拾え。それで十分よ」

 秘書が戦場に随行する。常識で測れば、正気の沙汰ではない。だが、信長の眼に迷いはなかった。

(……ここが、分かれ目なのだろうな)

 晴臣は短く息を吐き、姿勢を正す。

「承知いたしました。信長様。私なりに尽力いたします」

「うむ。それでよい」

 出陣の朝。太鼓が鳴り、兵が整列する。晴臣は馬に乗れず、徒歩での随行となったが、常に護衛が付いた。

(まさか、日々予定表を調整していた自分が、歴史の戦場に向かうことになるとは)

 緊張で胃が重くなる中、信長が歩調を合わせてくる。

「晴臣、怖じることはない。おぬしは、わしの側で見ておればよい」

「……はい。ただ、役に立てるかどうか」

「立たねばならぬ、とは言わぬ。だが、おぬしは必ず何かに気づく。その目が欲しい」

 晴臣は黙ってうなずいた。その言葉は、命令よりも静かで、どこか重みがあった。

 戦場を見下ろす丘に立ったとき、晴臣は思わず息を止めた。野営の配置、地形の起伏、風の流れ。断片的な情報が、現代の知識と過去の知識の間で結びついていく。

「晴臣。何か見えるか」

「……はい。あの林の奥です。敵が潜んでいる可能性があります。焚き火の煙が、風に流されてはいますが……不自然です」

 信長の目が鋭く光った。

「よし。奇襲をかける」

「お待ちください。まだ可能性の域を――」

「それでよい。おぬしの勘を、わしは信じる」

(信じる、という段階が早すぎるのですが)

 言葉にする前に、信長は命を飛ばしていた。

 そして、ほどなくして――

「信長様! 敵、確かに潜んでおりました!」

 勝鬨が上がる。信長は振り返り、晴臣に向かって笑った。

「晴臣。おぬしの目が、道を開いた」

 晴臣は返す言葉を失い、ただ戦場を見つめていた。

 ――この世界で、自分はすでに、歯車の一部ではなくなっている。



 ◆秘書、戦の会議に口を出す◆


 浅井方面での小競り合いを制し、織田軍は清洲へ戻った。晴臣の身体には、まだ戦場の緊張が残っていたが、休息を許される間もなく呼び出しがかかる。

「晴臣、参れ。軍議を開く」

 軍議。

 本来であれば、身分も定かでない新参者が足を踏み入れる場ではない。だが信長の命は簡潔で、揺るぎがなかった。

(……来てしまったな。夢のようで、立場としては最悪だ)

 広間に入ると、柴田勝家、丹羽長秀、木下藤吉郎――錚々たる顔ぶれが並んでいた。視線が一斉に晴臣へ集まる。

「殿。その者も、軍議に加えるおつもりで?」

 勝家の低い声が落ちる。

「うむ」

 信長は即座に答えた。

「晴臣は、わしの目となる男よ。異を唱える者はおるか」

 沈黙。

 それ自体が、決定を意味していた。

 地図が広げられ、浅井・朝倉の動きが示される。信長は腕を組み、家臣たちの意見を順に聞いていった。

「浅井は久政殿が動かぬ限り、大軍は出ませぬ」

「朝倉は越前に籠り気味。今は浅井に圧をかけるべきかと」

 議論は整然としていた。だが晴臣の胸には、ひとつの引っかかりが残り続けていた。

(浅井と朝倉の同盟……この時点では、まだ脆くない。ここを放置すると、信長様の負荷が跳ね上がる)

 口を出すのは分を越えている。そう分かっていたが――信長がこちらを見た。

「晴臣。そなたは、どう見る」

 空気が止まる。

「……私でございますか」

 一瞬の間を置き、晴臣は言葉を選んだ。礼を失わず、だが逃げない。

「この状況で最も危険なのは、浅井と朝倉が同時に動くことです。逆に申せば、どちらか一方が動けなくなれば、戦は半分終わったも同然かと」

 勝家が眉を寄せる。

「それができれば、苦労はせぬ」

「承知しております」

 晴臣は地図に指を置いた。

「浅井家中は、当主・長政派と、父・久政派に分かれております。その分裂を、利用すべきかと存じます」

「利用、とは」

「久政様に対し、信長様との和睦を選ぶ方が浅井の安定につながる、という情報を流す。あるいは、同盟を維持した場合の損失を強調する。戦わずして、結束を弱める策です」

 家臣たちの間に、微かなざわめきが走る。

 信長だけが、静かに目を細めていた。

「……晴臣。それは、心を揺さぶる策じゃな」

「はい。現代で申せば、相手組織の内部対立を調整し、協力関係を崩す手法に近いかと存じます」

 勝家が低く唸る。

「奇妙な言葉ではあるが……筋は通っておる」

 藤吉郎が軽く笑った。

「敵を倒すより、仲を割いた方が早い。そういうことでっしゃろ。面白い話でんな」

 信長は、ゆっくりと頷いた。

「採用じゃ」

「……採用、でございますか」

「うむ。浅井の内情に揺さぶりをかけよ。段取りは藤吉郎に任せる。晴臣、おぬしは策を整理し、伝えよ」

「承知いたしました。至急まとめます」

 こうして晴臣は、武器を持たぬまま、戦の中枢へ踏み込んでいった。戦場ではなく、言葉と判断がぶつかる場所へ。

 晴臣は藤吉郎と並び、浅井家中の内情を洗い出していった。未来の出来事そのものは語れない。だが、土地の気風、家臣団の癖、主従の距離感――断片的な知識を、繋がる形で提示することはできた。

 藤吉郎は腕を組み、何度も小さく唸る。

「晴臣はん……あんた、ほんまに未来から来たんと違いますか」

「いえ。ただの知識でございます。偶然、詳しかっただけです」

「偶然にしては出来すぎや。浅井の“割れ目”が、よう見えとる」

 藤吉郎は納得したように立ち上がった。

「よっしゃ。あとは任せとき。家中の空気、上手いこと動かしたりましょ」


 数日後。

 浅井家中に、形の定まらない噂が流れ始めた。

 信長は浅井を軽んじてはいない。

 朝倉と組み続ければ、かえって家を危うくする。

 久政は、和睦という選択を捨てていない――。

 どれも断定ではない。だが、疑念としては十分だった。

 信長のもとに報告が届き、晴臣が呼ばれる。

「晴臣。策が効き始めておる」

「恐れ入ります。ただ……実際に動かれたのは藤吉郎殿をはじめ、皆様でございます」

 信長は首を横に振った。

「発想を置いたのは、おぬしじゃ。そこが肝よ」

 低く、愉しげな声だった。

 その瞬間、晴臣は理解する。すでに、元に戻る道は消えている。

「……責任の重い役目でございますね」

「重きものだからこそ、価値がある。おぬしも、覚悟を決めよ」

 晴臣は小さく息を吸い、静かに頷いた。

「承知いたしました。最後まで、お仕えいたします」

 晴臣の秘書としての技能が、牙となった時であった。

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2026年1月3日 22:00
2026年1月3日 22:00
2026年1月10日 22:00

過去に転生したら、織田信長に拾われて秘書になりました ――時を馳せる秘書・信長公記 改―― @curren-chan

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