4.春 2-C 相生 佳奈

 新学期の掲示板の前は、朝からざわざわしていた。

 誰かが歓声を上げ、誰かが落ち込んで、誰かが写真を撮っている。

 いつもの春の光景。


(はい、今年も出席番号1は私……と)


 視線をすべらせると、すぐ見つかった。


 相生佳奈 2-C


「ほらね」


 小さくつぶやく。

 当たり前のことを当たり前に確認しただけなのに、自分で自分に言い聞かせたみたいな声になった。


「佳奈ー!あー良かった。同じクラスー!」


 後ろから伸びてきた声。

 振り返ると、笹森薫が手を振っていた。

 いつも眠たそうで、ふわっとしていて、だけどテストだけ突然強いという、不思議な子。


「薫、今年もよろしく。ふふ……新学期早々、元気だね」


「元気じゃないよー?お腹すいてるだけだよー。

 ねぇ佳奈、今日の学食なんだと思う?私、唐揚げの気がしてるんだよね。あ、でも遠いんだよねー2-Cって」


「学食の心配するの早すぎじゃない?」


「だって大事じゃん?お昼を制す者は一年を制すんだよー」


「そんな名言初めて聞いたけど」


 薫はにこにこと笑っている。

 この子は、たぶん世界の大半を“なんとなく”で生きている。


 それが羨ましいと思う時もある。


「で、佳奈は席どこがいい?私はねー、窓側も好きだけど、風が強い日はプリント全部飛んじゃうんだよねー」


「今年も飛ばす気満々なんだね」


「あははっ。佳奈が拾ってくれるでしょー?」


「……一応、ね」


 そんな他愛もない会話をしながら、私は掲示板から少し離れた。


 と、そのタイミングで——


「ボケ!?いや待って、それ時間じゃなくて距離だからね!?

 100万光年は距離!俺そんな遠いのーー!?!」


 廊下に響き渡る大声。

 近くにいた何人かがびくっと肩を揺らすほどの音量。


(わ……すごい声……)


 声だけで衝撃波が来そうだ。

 けど、誰の声かなんて分からない。

 ただの“どこかのクラスの騒がしい男子”。


 騒がしいのは嫌いじゃないけど、強すぎる音は胸の奥がざらつく。


「佳奈、大丈夫?びくってした」


「ううん、大丈夫。ちょっと驚いただけ」


「だよねー。あの人、声だけで教室揺らせそうだもんね」


「そんなこと言ったら失礼だよ」


「えへへ。でも本当だよー?」


 薫が笑う。

 その笑顔は本当に無邪気で、見ているだけで肩の力がぬける。


 だけど。


(……今年も“二つの私”でいくしかない)


 胸の奥でひっそりと呟く。


 外側の私は、いつも整っていて完璧。

 真面目で、優秀で、誰とでも穏やかに関われる。


 でも内側の私は——

 今日も、家に帰ったら書きかけの物語の続きを書きたい。

 一文字でも早く、続きを紡ぎたい。

 その時間だけが、私を自由にする。


(誰にも知られちゃいけない)


 この秘密を知っているのは、私だけ。


「佳奈ー?どしたのー?

 教室いこ?」


「あ、うん。行こっか」


 薫が先に歩き始める。

 その背中を見ながら、私は深呼吸をする。


 廊下にはまだ、いろんな声が飛び交っていた。

 新しいクラスの歓声、名前を探す焦り、久しぶりの再会の笑い声。


(……今年も始まる)


 胸の奥に、静かで小さな緊張が混じる。

 でも、表には出さない。


「薫、急ぎすぎだよ。こけるよ?」


「だいじょーぶだよー?私は足つっても転ばない女だからねー」


「それはどういう根拠なの?」


「ないよー?」


「だよね」


 そんな会話をしながら、教室が近づいてくる。


 扉の前で、私は一度だけ息を吸った。


(……よし)


 今日も“相生佳奈”を演じきる。

 その覚悟を胸に、私は教室の扉に手をかけた。




教室に着く。

 薫はすでに席にいて、斜め二つ後ろから手を振ってきた。

(……毎回思うけど、なんでそんなに手を振るんだろ)


 その瞬間――


「……ぶっ!」


「え、なにこれ、やば……!」


「真奈、顔っ……!!」


 教室が爆発したみたいに騒がしくなる。

(また……今年も私は委員長するなら大変そう……)


「はいはーい!みんな、そろそろ座って準備しようねー!」


 “委員長の顔”を自然に貼り付けて声をかける。


「樹くん、去年は委員会だけ一緒だったけど、

 今年は同じクラスだね。なんか……イメージより騒いでるけど、

 そんなキャラだったのかな? とりあえずもう時間になるよー」


 樹が苦笑しながら肩をすくめる。


「委員会はみんな真面目にやる場所でしょ?

 今は朝の自由時間。場面が違うだけで俺は俺ですよ。

 そんな堅苦しくしないでくださいよ」


(……委員会樹くん、ほんと堅かったけど。ギャップ? ずるい……)


 その横で――


「千葉……なんか面白いことやって目立つように、

 いつもみたいに犬みたいに走り回ったり」


「えっ? 犬!? 俺そんなことした!? えー、わんっ!」


「うるさい。ハウス」


「ええーーーー!?!?!?」


 クラスがどっと和む。


(……ほんと、この子たち空気作るの上手すぎる)


 私はもう一度、委員長らしく空気を締めた。


「ん。まあ、わかってるなら大丈夫だけど、

 節度はちゃんと持ってね。

 ——それと真奈さん、その顔はやめといたほうが

 将来ほんとに恥ずかしい思いするわよ」


 言った瞬間、真奈が「ひぃっ」とカバンで顔を隠す。


(ああーーーなんで私、こういう“悪者”ムーブになるの……

 違うの!ねぇ?誰かわかってよーーーーーー!!)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る