灰色の鵠は泥濘に囚われ、日陰の黄色に羽を染める
花恋亡
己
パスパスパスパス。
対した手応はなく、女は四十三回目で振り下ろす手を止めた。腕が疲れたからと三十五回心の内で数え、残る惰性でもう八回、合わせて四十三回。ふうと静かに鼻孔から溜息を漏らす。「不快だ」とでも思っているのであろう。もう少し何か思うものがあるかと想定していたのだが、腕に溜まる乳酸の代わりに得たものに満足は得られなかったようだ。
所々崩れかけたコンクリート。天井の石膏ボードはほぼ落ち床で粉微塵となっている。床はかつてカーペットが敷かれていたであろう痕跡を僅かに遺してはいるが、今では剥き出されたコンクリートに朽ちた内装、砂埃に覆われている。呼吸が僅かし辛くなるような埃臭さに、湿った空気が淀んで満たされる空間。いつかは大広間として使われていたのだろう、二十か三十畳ほどのがらんとした部屋。ドアは既に無く、通路の窓から溢れる僅かな光。その通路の窓も所々に割れ、風が吹けば始まったばかりの夏の新しい空気を僅かに運んでくる。
薄暗く湿った息苦しいカビと埃の臭い、それと呼吸音が二つ。
ドアの外された部屋の入り口付近には、この部屋には不釣り合いな比較的新しいであろう物品が積まれている。
そこから廊下に出た窓の前には値の張りそうな立派なキャンピングチェアが置かれ、部屋の中へ向かい歩数にして十一歩半の位置にこの場所で元より使われていたであろう古びたパイプ製の椅子が置かれていた。
その椅子は堅牢な造りであり、太い金属製のパイプを繰り返し折ることで造形されている。その脚は土嚢でしっかりと固定されており、尚且つまだ無数のロープで別の土嚢に結ばれていた。座面のスポンジは劣化でそのクッション性を無くしている。
その椅子に座らされている分厚い眼鏡を掛けた初老の女。両の肘掛けに両腕を、背もたれに上半身を、座面に太腿を、椅子の脚に両足首をそれぞれガムテープで執拗に固定されていた。口もガムテープで二重、三重と塞がれており、その塞がれた口からは声にならぬ叫びが濁音として唸り出されてる。
そんな初老の女の太腿を先ほどまで注射器の針で滅多と刺していたのは、初老の女と比べて半分程の歳に見える女だった。
この注射器を手にしている女をA、初老の女をBとしよう。
Bは先ほどまで眠らされており、今し方痛みによって起こされる。AはBの塞がれた口から漏れ出る声が不快で堪らなかった。こんな奴の声など聞きたくはない。どうして黙ってられないのだろうかと憤りながら、再び握った注射器でBの反対の太腿を刺し始めた。今度は端から数える気などなかった。疲れて嫌になるまでただただ無心で刺した。執拗に同じ個所を刺された肉がグズグズとし始め、履いているボトムを真朱に染め上げていく。
そこまでしてやっと手を止めたAは無数と積まれたかつて自身が買い求めた物の山へと向かった。100円ショップやホームセンターで気の向くままに買ってはここへと運んだ。数年かけて行ったそれは膨大な点数に及んでいた。一つ一つに目的や用途があって買った訳ではない。何かに使えるだろうとただ闇雲に選んだ。それらを物色する。
Aはハンディーファンを手にしBの元へ戻ってきた。
Aは髪の毛が巻き込まれるのが怖くてハンディーファンやネッククーラーを使ったことがなかった。だから単純に興味があったのだ、どうなるのだろうかと。
ハンディーファンの外側のカバーを力任せに外し電源を入れる。そうしてゆっくりとBの頭へと近づけた。
カッカッカッカッ始めは勢い良く回る羽根に弾かれるだけだった髪がある時絡まり巻き取られ始める。だがある程度の量を巻き込むとハンディーファンは止まってしまった。
Aはなんだこんなものかと次は数本をあらかじめ羽根に巻き付けてからスイッチを入れる。今度は羽根の勢いが殺されることなく髪が抜けた。
Aは巻き込んだ髪が羽根の隙間に詰まり回らなくなるまでこれを続けた。
次に持って来たのは電動ミルクフォーマーだった。
これも同様に頭に近づけると勢い良く髪を巻き取った。やはりある程度の量を巻き込むと止まる。
Aはそれを無理やりに引っ張り髪を引き千切った。繰り返し繰り返し飽いても続けた。
ミルクフォーマーの電池が弱まり回転が鈍くなる頃にはBの頭は見窄らしい見た目へと変わっていた。
Bを覚醒させた時刻が遅かった為、この時点で日は落ちかけている。
Aは注射器でアンプルから液体を吸い上げるとBへと注入した。痛みや恐怖で五月蝿く喚いたBはやがて静かになり、ぐたりと頭を傾けると寝息を立てる。
Aは通路の窓へと向かうと日が沈み暗くなっていく外を眺めた。
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