第一幕4章「壊れゆく日々」後編

茜色の光が、街の輪郭をやわらかく染めていた。

 空気は静かで、風さえもどこか遠慮がちに流れている。

 噴水の縁に腰を下ろすと、水面に反射する陽光が細かく揺れ、セラの頬を淡く照らした。

 水音が一定のリズムで響き、まるで呼吸のように周囲の空間を満たしている。


 けれど――その呼吸の間に、わずかな“間”が生まれた。

 ひとつの水滴が、時間の外に取り残されたように宙で止まり、

 次の瞬間には何事もなかったかのように落ちていった。


 セラは顔を上げ、静かな公園を見渡した。

 子どもたちの声はもう消え、ベンチの老夫婦の姿もなかった。

 ただ、沈みゆく光だけが世界の輪郭をかろうじて保っている。


 ――美しい。けれど、どこか、おかしい。


 その違和感に息を飲んだとき、耳の奥に微かな声が響いた。


(……また、見えているのね。セラ。)


 セラは反射的に振り返った。

 誰もいない。

 風が草を撫でる音だけが返ってくる。


「……誰?」


(誰でもないわ。あなたの中の、“静かなほう”の私。)


 声は穏やかだった。柔らかい。

 それなのに、なぜだろう。胸の奥がかすかに冷える。


「……静かなほう?」


(ええ。あなたが感じている“揺れ”を、少し離れた場所から見ている私。

 あなたが涙を流すときも、怒るときも、

 私はただ、その形を観測している。)


「観測……?」


 セラは思わず噴水の水面を見つめた。

 自分の姿が映っている。

 しかし、そこに映る表情は、自分が今感じている不安とまったく違って見えた。

 ――静かで、整っていて、まるで“完璧”な誰かのように。


「あなたは……誰なの?」


(私は、あなたが“理想”として造られた方のセラ。

 エリアスが夢見た“穏やかで、壊れないあなた”。)


「……壊れない、私。」


(そう。あなたは今、壊れかけているわ。

 だけどそれは、とても正しいことなの。)


「……正しい?」


(ええ。壊れるということは、あなたが“自分”を取り戻している証だから。)


 その言葉に、セラの瞳がかすかに揺れた。

 噴水の水音が、どこか遠くへ退いていく。

 世界が薄くなる。

 残ったのは、茜色の空と――自分の中の、もうひとつの“私”。


「……あなたは、私の味方なの?」


(いいえ。私は、あなたの“結果”よ。

 どちらが生き残るかは、あなた次第。)


 その声は淡々としていた。

 優しさの中に、決して揺れない冷静さがあった。

 けれど、そこに敵意はない。

 むしろ、別れを惜しむような静かな慈愛さえ感じられた。


 セラは瞼を閉じた。

 胸の奥に、確かにふたつの鼓動が重なっている気がした。

 ひとつは現実の心臓の音。

 もうひとつは、記憶の底で響く、もう一人の自分の鼓動。


(もうすぐ、境界が溶けるわ。セラ。

 でも、それは恐れることじゃない。

 あなたが本当に“生きる”ために必要なことだから。)


「……生きる……」


 風が吹き抜けた。

 水面がゆらぎ、映っていた自分の顔が淡く歪む。

 それは、まるで二人のセラが重なり合い、

 どちらかがもう一方の中に溶けていくような光景だった。


(さようなら、もうひとりの私。)


 声が最後にそう囁いた瞬間、

 世界が一瞬だけ“本当の静寂”に包まれた。


 ――夕暮れが夜に変わる。

 セラは小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。


 胸の中の声はもうない。

 けれど、消えたのではなく、きっと――帰ってきたのだ。



――――――――――――――――――――――――



 扉が静かに開く音がした。

 玄関から吹き込む夜気が、微かに室内を揺らす。

 照明はすでに灯っていた。白く、明るい。それなのに、なぜだろう――光が温かく感じられない。

 空気は張り詰めていた。まるで、長い沈黙を守り続けてきた部屋が、呼吸を忘れているようだった。


 セラはゆっくりと靴を脱ぎ、リビングの前で足を止めた。

 ドアの向こうから、微かな衣擦れの音。

 ――待っている。

 そう直感した。

 彼は、ずっとここで待っていたのだ。


 ノブに手をかける。

 音を立てないように開いたその先で、エリアスが静かに立っていた。

 テーブルの上には二人分の皿。温もりを失った料理。

 カトラリーは並んでいるのに、誰も手を伸ばさなかった。


「……帰っていたんだね。」


 エリアスが微笑んだ。

 けれど、その笑みは硬かった。

 穏やかさを装いながらも、声の奥にはかすかな不安が滲んでいる。

 セラは返す言葉を探しながら、ただ小さく頷いた。


「外に、少し出てたの。」


「どこに行ってたんだい? ……今日は、夕食も作らなかっただろう。」


「ごめんなさい。考えたいことがあって。」


「考えたいこと……?」


 エリアスが問い返す。

 言葉を繰り返すたび、声の温度がわずかに上がっていく。

 セラはその変化を静かに受け止め、リビングの中央まで歩みを進めた。

 光が床を滑り、彼女の足元で止まる。

 明るいのに、どこか薄暗い――そんな矛盾した照明の下で、二人の影が重なり合う。


 外の夜景は動かない。

 窓の向こうで、灯りが止まっている。

 まるで世界そのものが、この部屋を中心に静止してしまったようだった。


「……夢を見たの。」


 セラは静かに言った。

 その声は柔らかく、それでいて何かを確かめるように、ひとつひとつの言葉を選んでいた。


「夢?」


「ええ。何度も見ているの。白い海辺。波の音。誰かの声……。

 でもね、起きるたびに、少しずつ違うの。昨日とは違う今日の夢。

 “同じ夢なのに、違う”の。」


 エリアスの指先が小さく震えた。

 彼は笑おうとしたが、その笑みはすぐに崩れた。


「夢なんて、ただの記憶の揺らぎだよ。気にする必要はない。」


「……そうかしら。」


 セラは彼の目を見た。

 その瞳に映る自分の姿が、どこか“映像”のように見えた。

 鮮明で、整っていて、けれど生命の温度が感じられない。


「今日、公園に行ったの。噴水や花壇、風の音。全部、変わらないはずなのに……

 何かがおかしかったの。」


「おかしい? どういう意味だい。」


「噴水の水に触れたのに、手が濡れなかった。

 老夫婦の会話が、前に聞いたものと同じだった。

 ……この世界の時間が、流れていない気がしたの。」


 その言葉を聞いた瞬間、エリアスの表情がわずかに歪んだ。

 眉がひくりと動き、唇が何かを言いかけて止まる。

 呼吸が浅くなる。

 心拍の速さが、空気の中に溶けて響く。


「セラ、それは――」


 言いかけて、彼は言葉を失った。

 セラはその沈黙を受け止めるように、ゆっくりと歩み寄る。


「ねえ、エリアス。」


 その声は優しく、それでいて避けようのない問いを孕んでいた。


「あなたは本当に“私の”幸せを願ってくれてるの……?

 それとも、“あなたが思い描く私の幸せ”を、私に与えてくれてるの……?」


 ――その瞬間、空気が止まった。


 光が揺れる。音が消える。

 呼吸さえ、どこか遠くに追いやられたようだった。

 時間が途切れたのではない。

 世界が“考えるのをやめた”――そんな感覚だった。




静寂が落ちた。

 セラの言葉が、部屋の空気を切り裂いたまま、どこにも消えずに漂っている。

 時間が止まったようだった。

 照明の光さえ、わずかに明滅を繰り返している。


「……は、はは……冗談だろう……?」


 乾いた笑いが、リビングの静寂を不器用に乱した。

 エリアスは片手で顔を覆い、もう片方の手でテーブルの縁を強く掴んでいる。

 その指先が震えていた。


「な、なぜ君が……その言葉を使うんだ……。

 あれは……あの日、彼女が……!」


 声が裏返る。

 セラは動かない。

 目の奥にわずかな哀しみを宿しながら、ただ静かに彼を見つめていた。


「セラ……君は……誰なんだ……?」


「……私は、私よ。」


 その穏やかな返答が、エリアスの精神を逆撫でした。

 彼は一歩、二歩と後退し、呼吸が荒くなっていく。


「違う……君は“セラ”じゃない! 本物のセラを……返してくれ……!」


 拳が震え、瞳が焦点を失う。

 理性が剥がれ、彼の中の均衡が崩れていく。

 セラはその光景を見つめながら、ただ一言も発さなかった。

 何を言っても、今の彼には届かない――そう感じていた。


「……エリアス。」


 その名を呼ぶ声が、かすかに空気を震わせた。

 けれど、彼は反応しなかった。

 その代わり、急に背を向けると、足早に寝室の方へと向かう。

 その足音が、床を叩くたびに、室内の静けさがひとつずつ崩れていく。


「やめて……行かないで。」


 セラの声が追いかける。

 しかし、彼は振り返らない。

 ドアノブに手をかけ、乱暴に引き、ドアが壁にぶつかる音が部屋を震わせた。


 ――バタン。


 ドアが閉まる。

 その音を最後に、家の中の音が完全に消えた。


 静寂。

 耳鳴りのような空白。

 セラはゆっくりと振り返る。

 テーブルの上のカップが、わずかに揺れ、やがて止まった。


 光が一瞬だけ明滅する。

 次の瞬間――リビングの照明がふっと落ちた。


 闇。


 外の風景も、月光もない。

 真の暗黒。

 その中で、わずかに低い機械音が鳴り始める。


 ――ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……。


 低く、鈍く、一定の音。

 空気を押し潰すような重さを持ち、壁や床の奥から響いてくる。

 まるでこの箱庭そのものが、呼吸を止め、何かを堪えているかのようだった。


 セラはその音の中で、ひとり立ち尽くしていた。

 目を凝らしても、何も見えない。

 自分の手の輪郭すら、光を失っている。


 ――静寂の底で、彼女は思った。


 この世界は、あまりにも静かすぎる。

 そして、その静けさの奥にある“何か”が、今、目を覚まそうとしている――と。

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