プロローグ
プロローグ
『タワマン追放されたので、静かにコードで世界を獲ります』
「……止まってる?」
洗面台の蛇口をひねっても、水は一滴も落ちなかった。
金属同士が擦れるような、乾いた音だけが虚しく響く。
「……え?」
もう一度、強めに回す。
冷たいはずの水の気配が、まるでない。
耳の奥で、嫌な音が鳴った。
スマホが震えた。
《【重要】ご利用停止のお知らせ》
《家賃のお支払いが確認できませんでした》
《電気の供給を停止しました》
《クレジットカードは現在ご利用いただけません》
「……は?」
喉の奥が、ひゅっと縮む。
裸足の足裏に、タワマンの床の冷たさがじわじわ染み込んできた。
「ちょっと……待って」
指先が震えながら、通帳アプリを開く。
残高は――ゼロに近い数字。
「……嘘でしょ」
背後で、冷蔵庫のモーター音が止まった。
静寂が、いきなり部屋を支配する。
五十階。
ガラス張りのリビング。
昨日まで、夜景が宝石みたいに輝いていた場所。
「……誰の、冗談?」
スマホが、また震えた。
今度は母からの着信。
「……はい」
『ああ、凛? もう気づいた?』
母の声は、いつも通りだった。
落ち着いていて、事務的で、感情がない。
「……何が?」
『電気とか、水とか。今日で止めたから』
「……止めた?」
喉が渇く。
唇がうまく動かない。
「……どういう、意味?」
『だってもう、あの部屋、凛のじゃないでしょ』
「……は?」
『弟夫婦が住むの。妊娠してるんだから』
耳鳴りがした。
ガラスの向こうの景色が、ゆらりと歪む。
「……妊娠?」
『そうよ。あの子も、もう三十だし。家庭を持たせてあげないと』
「……誰が?」
一瞬、沈黙。
その間に、すべてを察してしまった自分がいた。
『……拓也さん』
その名前を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「……私の、婚約者、だよね」
『そう。でもね、仕方ないのよ』
「……何が?」
『凛、あなたフリーランスでしょ。将来不安定だし』
「……」
『弟は正社員だし、奥さんもできて、子どももできて』
「……」
『あなたは一人でも生きていけるでしょ? 頭いいし』
頭が、真っ白になる。
「……じゃあ、私は?」
『もう三十二だし。そろそろ身の丈考えなさい』
「……」
『荷物は今日中にまとめて。鍵は管理人に返して』
プツリ、と通話が切れた。
しばらく、動けなかった。
耳の奥で、母の声だけが反響している。
――一人でも生きていけるでしょ?
「……ふざけないで」
声が、震えた。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。
「……ふざけんなよ……」
ソファに崩れ落ちる。
革張りの感触が、やけに他人事みたいだった。
窓の外。
朝の光が、街を照らしている。
昨日までと、何も変わらない景色。
でも――
私の世界だけが、止まっていた。
「……拓也……」
メッセージアプリを開く。
未読。
既読も、つかない。
「……説明、くらい……」
送信しようとして、指が止まった。
――説明されて、何になる?
胸の奥で、静かな声がした。
「……はは」
乾いた笑いが、漏れる。
「……奪うもの、全部奪っておいて……」
立ち上がり、寝室へ向かう。
クローゼットを開くと、高価な服が整然と並んでいる。
でも今、必要なのはそれじゃない。
ノートパソコンを取り出す。
指で触れると、いつもより少し温かい気がした。
「……あんたは、止まってないよね」
画面を開く。
暗闇の中で、リンゴのマークが浮かび上がる。
電気が止まる前、
ギリギリで起動できた。
「……よし」
スーツケースに、最低限の服とPCだけを詰める。
ブランドバッグも、アクセサリーも、置いていく。
玄関に立つ。
最後に、部屋を振り返る。
「……さよなら」
声は、思ったより冷静だった。
エレベーターを降りる間、
心臓がやけに静かだった。
ロビーの自動ドアを出ると、
朝の空気が、肺に突き刺さる。
「……寒」
でも、不思議と泣けなかった。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、呟く。
「……仕事は、奪われてない」
ポケットの中で、
スマホが震えた。
《海外案件/至急対応可能なエンジニア募集》
画面を見つめて、
私は、ゆっくり息を吸った。
「……世界、まだ終わってない」
指先に、確かな感触が戻ってくる。
「……静かに、取り返そう」
タワマンじゃない。
家族でもない。
婚約者でもない。
――私の人生を。
私は、歩き出した。
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