【紫紺のイーヴルアイズ】星空への階

なりちかてる

青藍の都 序の章:塔が見える風景(Vido de la turo)

 重い扉を押し開けた瞬間——黴臭い土と血の臭いを感じた。

 アカツキは思わず、その向こうへ脚を踏み入れることを躊躇った。


 危険信号が、体のなかで鳴り響いている。

 つい服の袖で、鼻を覆い隠してしまう。

 同時に、怒りが湧き上がってきていた。


 それに背中を押されるようにして、アカツキは扉の向こうへと、脚を進めていく。

 アカツキは、鎖帷子の上に黒いカラーリングの板金鎧に、腰に刀を帯びていたが、その足音は土が剥きだしとなっている床に吸収され、何も響かなかった。

 壁に掛けられた燭台と、窓から差す月の光が、ホールのように広い室内を空虚に照らしている。


 息を吐くと、白く漂っていった。

 寒いのではなく、この空間に澱む、無秩序界の魔力とアカツキの魔力が反応し、結晶化しているのだ。

 ここに、長い時間、留まっていると、肉体だけでなく、精神も蝕まれてしまいそうだ。

 早く——アカネを見つけ出して、こんなところから、脱出しなければ。


 脚を進めると、さらに血の臭いが濃厚となってきた。

 壁際には、鉄格子付きの木箱がたくさん、転がっている。

 壊れたものもあるが、なかには死体が入ったまま、となっているものもあった。

 血の海に沈んでいるものも、目についた。


「これは……酷いですわね」

 アカツキに追いついてきたセリカが、顔をしかめた。

 白い美貌が、歪む。


 セリカは、アカツキのパートナーだった。

 白尾の族ヒースネイン——獣人のひとりで、今は白と赤で着色された革鎧に身を包んでいる。

 銀色の髪は三つ編みで、首筋から腰まではあった。

 外耳の部分は長く垂れ下がっており、尖端の部分は獣毛に覆われていた。

 その部分が、ヒースネインの聴覚器官となっていており、彼女が獣人である証拠にもなっていた。


 獣人は、コモンよりもずっと体の育成が早く、十代半ばでもう、成人と認められることも多い。

 アカツキとセリカは、かなり年齢の開きがあるのに、パートナーとして、充分な働きをしてくれていた。

 小隊ランスとして組んでから、ふたりは、いくつもの依頼を解決し、ファル=ナルシオンのアリアンフロッド機関では、トップの成績を修めていた。


 これまでも、何人ものアリアンフロッドと組んできたが、彼女とのコンビが一番、ぴったりくる。

 彼女が動き出した瞬間、セリカの思惑がわかり、ふたりは言葉を挟まずに、お互いにサポートしているのだった。


 アカツキはうなずくと、ホールの中央、床から突き出している金属製の杭の側まで、歩いていった。

 杭には、鎖が繋がれていたようだが、中途で切断されてしまっている。

 鋭いもので断ち切ったのではなく、鎖の末端が歪んでおり、力任せに引きちぎったように見える。


 アカツキはストレージから、エーテル・リンケージを取り出した。

 折り畳み式の、情報端末だ。

 ワンタッチで伸張させると、電源を入れてみる。

 画面に見入った。


「——阻害のエリアとなっているようだ。検知に、何も引っ掛からない」

 画面には何も表示されず、『情報がありません』というメッセージが出たきりだ。

 舌打ちをして、エーテル・リンケージをしまう。


 濃厚な無秩序界の魔力は瘴気のように、ねっとりと肌や四肢にまとわりついてくるかのようだった。

 立ち上がろうとしても、妙に腕や脚などが取られるような感覚がある。


 不意に、アカツキは首筋に、冷たいものを感じた。

 手のひらで、触れてみる。

 掌を見ると、黒い滴がついている。


「血だ。セリカ……上だ!」

 叫ぶのと同時に、刀を抜いた。

「ええ! わかっておりますわ」


 何かが、奇襲を仕掛けるために、天井に貼りついていたようだ。

 ずしん……と床に着地する。


「そのまま、隠れていればよかったものを」

 言いながら、アカツキは目の前の敵を見る。


 一見、それは泥の塊のように見えた。

 頭部はなく、首のところに首輪のようなものが見える。

 そこに繋がれていたであろう鎖が、ぶらぶらと揺れている。


 かろうじて腕と脚はあるものの、バランスを欠いていて、とてもグロテスクだ。

 起き上がろうとしているものの、床に体を打ちつけ、のたうちまわっているようにしか見えない。


「のたうつ汚泥です。叫びに気をつけて!」

「了解」


 アカツキは刀に、左手を添える。

『我は放つ、紅蓮の華の如く、刀刃は暁の色に染まれリ。「血の契約」よ。仇敵を屠る赤熱の刀を我に与えよ!』

 アカツキが言葉を唱えると、体の周囲を呪符フォース・インテンシブ・カードが舞い始めた。

 トランプほどの大きさの、イラストと文字の入ったものが、ひらひらと回転する。


 そのなかの一枚が霧散すると、刀が炎に包まれた。

 一撃を放とうと一歩、踏み込むと、のたうつ汚泥の体がぐるっと一回転をした。

 泥の塊が弾となって、アカツキに迫ってくる。


 と——セリカが、アカツキの正面に走り寄ってきた。

 泥の一撃を、足蹴りで一蹴する。

 塊が弾け、飛沫となって散った。


「うわちゃ~、やらなきゃよかったですわ」

 腐ったような異臭が、周囲に漂う。


 のたうつ汚泥は床に倒れ伏すと、その体の一部が溶けるみたいに、裂けていった。

 亀裂の間から、いくつかの人間の胴体や腕と脚、顔などが覗く。


 のたうつ汚泥に、飲み込まれた人々だ。

 死にきれず、汚泥に無秩序界の魔力を流し込まれて、強制的に生かされているのだ。


 黒い涙を流した人々の口が、叫びを放つ。

 声と声が重なり、ホールの空気を震わせる。

 衝撃波となって、押しよせてきた。


『私たちの先に道がある、迷わず進もう! 仲間と共に、この悦びを分かち合おう』

 セリカが歌声をあげた。

 彼女は、【吟遊詩人バード】の天恵の持ち主だ。

 声に魔力を乗せることができ、呪文の力を歌声が聞こえる範囲まで、届かせることができる。


 それで、のたうつ汚泥の叫び声の効果を相殺する。

 ぴりぴりと、全身に電流のようなものが流れるのを感じながら、アカツキは「おぉおおおお!」と吠えた。

 怒りに勢いを乗せるようにして、刀を振り切る。


 炎が刀の尖端から放たれ、のたうつ汚泥ごと、床を燃え立たせた。

 じゅぅうううう……と、蒸気が発生し、水分が沸騰する音が響く。

 泥の表面が崩れ、ばらばらに切り裂かれた。

 たちまち、土塊となり果てる。


 そのなかに、人間の体がばらばらと舞い落ち、そして、炎と煙に飲み込まれていった。

 と——アカツキは、悲鳴を耳にした。

 粉塵の向こうから、聞こえてくる。

 のたうつ汚泥の、断末魔ではない。


「この声は——」

 ひとり娘の声を、聞き違うはずがない。


 ——アカネだ!

 床が大きく抉れ、その下から、大きな溝が覗いている。

 下水道だ。

 溝から、汚水が流れてきているのが見えた。


『父さん! こっち——』

 今度ははっきりと、声が聞こえてきた。

 上流からは、黒い水と、凄まじい臭気が流れてきている。

 ずっと、吸い込んでいると、肺が灼けてしまうのではないか、と思うくらいの、ひどい臭いだった。


 しかし、アカツキは躊躇うことなく、その溝に飛び降りていった。

 汚水が跳ね、足元にぐにゃり、と嫌な感覚が走る。

 下流のほうへと、視線を向けた。


「アカツキ!」

 セリカも、下水道へと降りてきた。


『光明よ。よきものを伴いて、天空の輝きは我を保護するがために、輝き渡らん。その目映く、麗しい光条を運び来たれ!』

 呪文を唱えると、アカツキとセリカの体がほのかに、光を放ちはじめた。

 下水道のなかを、照らす。


「こっち——だな」

 アカツキはばしゃばしゃと、下水を蹴立てながら、下流のほうへと歩いていった。

「アカネ——アカネ!」


 急ぎたいが、脚の下がぬるぬるしているので、滑りそうだ。

 汚水は、既にふくらはぎまで達している。

 下水道のなかは、天井も低く、セリカの光の呪文では、完全には見通せないので、暗がりに何が潜んでいるのか、わからなかった。

 警戒を解かず、アカツキたちは下水道のなかを歩いていった。


 下水道の底が、傾斜してきた。

 浅くなってくる。

 と同時に、空気を感じた。


 下水が流れている溝の他に、横に歩ける足場のようなものが現われた。

 その足場に、ところどころが黒く汚れている、スリップワンピを着た少女が、四つん這いとなっていた。


「アカネ!」

 下水道からあがり、アカツキは足場へと移動した。

 顔を伏せていたアカネが、アカツキを見る。


「お父さぁん……」

 泣き顔を見せて、体を震わせている。


 下水道のなかは、冷気が忍びよってきている。

 スリップワンピを着ただけでは、寒さで凍えてしまうだろう。

 ここまで、どうやって歩いてきたのか。


 汚水で真っ黒になった彼女の腕や脚、それに、陽の光の下でよく映える、母親似の紅葉色の髪も乱れ、アカネがこれまで受けてきたであろう仕打ちに、アカツキの胸は痛くなった。

 あぁ——早いところ、こんなところから撤退して、体を清めてから、休めてやらねば。


「お父さん! 助けてあげて、ジンライが……ジンライが、死んじゃう!」

 アカネは、涙を拭おうともせず、父親の脚に抱きついてきた。

「ジンライ……?」


 すぐそこに、少年が足場のところに横たわっていた。

 目を閉ざし、ぐったりとしている。

 年の頃は、アカネと同じぐらい——十歳くらいだろうか。


 男の子で、上半身は裸だ。

 その全身が、紅に染まっている。

 血だ——返り血ではない。

 こうしている間も、その体からは血が流れ続けている。


「お願い! ジンライは、あたしを庇ってくれたの」

 見ると、その少年——ジンライのそばに、血に濡れた小剣が転がっている。


 さらに、その向こうには、やはり血で下半身で真っ赤になった少年がうずくまっていた。

 ただ、こちらはもう、息はないようだ。

 目を開けたまま、亡くなっている。


 状況はよくわからないが、アカネとジンライは、下水道から逃げようとしたが、追っ手につかまり、反撃したものの、相打ちとなりかけた、といったところだろうか。

「アカツキ……これを」

 ドラッグショットを渡される。

 ショットのなかのラベルを見た。

 ——スリーピングソーンか……。


 睡眠の状態異常を与えるが、その間、標的は常に肉体回復の能力を得る、というドラッグだった。

 ドラッグショットは、セットされたドラッグを直接、体内に転送させる魔工具プライマリア・サプライアで、即座に効果を発揮させることができる。


 アカツキは膝をつくと、筒型のドラッグショットをジンライの腕に当てた。

 緑色のゲージがひとつ、減少し、スリーピングソーンのドラッグが送り込まれたことを確認した。

 心なしか、土気色だったジンライの顔が少し、赤みがさしてきたような気がする。


「ねぇ、大丈夫? ジンライ、助かる?」

 ——それは、ジンライの体力次第だ。

 体力が低下し過ぎていれば、ドラッグも効果が少なくなる。


「……アカネちゃん——」

「大丈夫だ。父さんが、約束する」

 セリカの言葉を遮ると、アカツキはアカネを抱き上げた。


「さぁ、帰るぞ。家に」

 ジンライは、セリカが背負った。

「ねぇ……あたし、弟がずっと、欲しかったのぉ。家に帰ったら……」


 アカネは、安心したからか、ゆっくりと目を閉ざした。

 体力の限界だったのだろう。

「おやすみ、お姫さま」


 額にキスをすると、アカツキは下水道に再び、脚を浸した。

 振り返り、セリカが背負ったジンライを見る。

 なんとなく——だが、アカツキはジンライとのつきあいが、長いものになるような気がしていた。

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