婚約破棄された没落男爵の息子ですが、公爵令嬢の《幼馴染》として雇われたら溺愛されています
Ruka
婚約破棄と運命の出会い
第1話 君では釣り合わない
ローレンス伯爵邸の応接室は、僕の実家が十軒は入りそうなほど広かった。
壁には高名な画家の絵画が並び、天井からは眩いシャンデリアが吊り下がっている。調度品の一つ一つが、没落したアッシュフォード男爵家の年間収入を軽く超える値打ちものだ。
そんな場所に、僕——レイン・アッシュフォードは呼び出されていた。
婚約者のセレスティアから、直々に。
「お待たせして申し訳ありませんわ、レイン」
扉が開き、蜂蜜色の髪を揺らしながらセレスティアが入ってきた。
伯爵家の令嬢に相応しい気品。完璧に整えられた身なり。社交界でも指折りの美貌。
彼女は僕の婚約者だ。両家の親同士が決めた政略結婚——とはいえ、僕は密かに彼女に想いを寄せていた。
「いや、気にしないで。……それで、今日は何の用だい?」
わざわざ屋敷に呼び出すなんて珍しい。
もしかして、二人きりで話したいことでもあるのだろうか。そう思うと、自然と胸が高鳴った。
しかし——
「単刀直入に申し上げますわ」
セレスティアは僕の正面に立ち、冷たい瞳でこちらを見下ろした。
「あなたでは、私に釣り合わない」
「……え?」
「婚約は破棄させていただきます」
時が止まった。
いや、止まったように感じただけだ。窓の外では鳥が囀り、庭師が植木を整えている。世界は何事もなく回り続けている。
壊れたのは、僕の世界だけだった。
「待ってくれ、セレスティア。どういう——」
「どういう、ですって?」
彼女は嘲るように笑った。見たこともない表情だった。いや、今まで見せなかっただけか。
「あなた、ご自分の立場をわかっていらっしゃるの?」
「立場……」
「没落貴族の息子。領地は痩せ細り、屋敷は荒れ放題。使用人すらまともに雇えない家。そんな男が、伯爵令嬢の隣に立てるとでも?」
言葉が出なかった。
確かに、アッシュフォード家は没落している。父が事業に失敗し、領地の大半を手放した。かつての栄光は見る影もない。
だが、それでも——婚約は、両家の間で正式に結ばれたものだ。
「婚約は……父上同士が……」
「ええ、あなたの家がまだ『男爵家』としての体裁を保っていた頃の話ですわね」
セレスティアは窓際に歩み寄り、カーテンを揺らした。
「でも今は違う。あなたの家に、私を娶る力はない。それどころか、私の家に縋るつもりだったのでしょう?」
「そんなつもりは——」
「嘘おっしゃい」
鋭い声が飛ぶ。
「没落貴族が伯爵家との縁談を断らなかった理由なんて、一つしかないわ」
違う、と言いたかった。
確かに家の事情はある。だけど、僕は君に惹かれていた。君の笑顔が好きだった。君と話す時間が幸せだった。
でも、そんな言葉は届かない。
最初から、聞く気などないのだから。
「それに——」
セレスティアが再び扉に目を向けた。
その瞬間、扉が開く。
「待たせたね、セレスティア」
入ってきたのは、金髪の青年だった。
仕立ての良い服。自信に満ちた笑み。胸元には——バルトロス侯爵家の紋章。
「紹介しますわ、レイン。こちらはバルトロス侯爵家のご子息、ヴィクター様。私の——新しい婚約者ですの」
新しい、婚約者。
その言葉が、ゆっくりと頭に染み込んでいく。
「……そう、か」
「あら、意外と冷静ね。もっと取り乱すかと思いましたわ」
セレスティアがヴィクターの腕に自分の手を絡める。見せつけるように。僕を嘲笑うように。
「これで理解できたかしら? 没落貴族の息子と、侯爵家の嫡男。どちらが私に相応しいか」
「…………」
「黙っていないで、何か言ったらどう? みっともなく縋りつくとか」
縋りつく。
そうすれば、何か変わるのだろうか。
いや、変わらない。彼女の中で、僕の価値は最初から決まっていたのだ。家柄と財産。それだけが、彼女の物差しだった。
「……わかった」
僕は静かに告げた。
「婚約破棄、受け入れるよ」
「あら、聞き分けがいいのね」
「ただ——」
一度だけ、セレスティアの目を見た。
「君が幸せになれることを、祈っているよ」
皮肉ではなかった。本心だった。
たとえ捨てられても、かつて想った人の幸せを願う。それくらいの誠意は、僕にだってある。
「……変な人」
セレスティアは鼻で笑い、ヴィクターと共に応接室を出て行った。
残されたのは、僕一人。
広すぎる部屋が、やけに寒く感じた。
◇
ローレンス伯爵邸を後にした僕は、王都の街を当てもなく歩いていた。
空は青く晴れ渡っている。大通りには商人や職人が行き交い、活気に満ちている。
だけど、僕の心は曇天だった。
「婚約破棄、か……」
呟いてみても、まだ実感がない。
いや、違う。実感したくないだけだ。
没落した家。失った婚約者。僕に残っているものは何だ?
剣の腕? 父から密かに仕込まれたそれは、実戦で使ったこともない。
教養? 没落前に叩き込まれた知識など、金にはならない。
誇り? そんなもの、とっくに磨り減っている。
「……情けないな」
自嘲の笑みが漏れた。
このまま実家に帰って、細々と暮らすしかないのか。いずれ男爵位も返上して、平民に落ちるのか。それとも——
そんなことを考えながら角を曲がった時だった。
「困りましたわ……」
路地裏に、一台の馬車が止まっていた。
車輪が壊れたのか、御者が途方に暮れた顔で立ち尽くしている。
そして、馬車の窓から——
銀色の髪が、風に揺れていた。
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