冷たいオレンジ

辛口カレー社長

冷たいオレンジ

 世界は灰色に塗り潰されていた。

 視界を覆うのは、天と地を繋ぐ無数の雨の線だ。それらは絶え間なくアスファルトを叩き、跳ね返り、低い霧となって街の底を漂っている。

 俺はバイクのエンジンを切り、サイドスタンドを立てると、そのまま崩れ落ちるように濡れた路面へと腰を下ろした。エンジンの熱が、冷たい雨に打たれて白い蒸気を上げている。その微かな温もりだけが、今、俺がここに存在している唯一の証のようだった。

 ヘルメットを脱ぎ、タンクの上に置く。髪から滴る雫が頬を伝い、顎先から首筋へと滑り込む。不快感はなかった。むしろ、その冷たさが、麻痺しかけていた感覚を辛うじて繋ぎ止めているようでもあった。


 目の前には、巨大な水たまりが広がっている。

 路面の窪みに溜まった汚れた雨水は、街灯の頼りない光を吸い込み、黒く濁った鏡となって世界を映し出していた。時折、通り過ぎる車のヘッドライトがその鏡面を切り裂き、乱反射した光が俺の網膜を刺す。

 雨音だけが支配する街。

 タイヤが水を弾く音、遠くで鳴るクラクション、そして自身の呼吸音さえも、全てはこの圧倒的な雨の轟音に飲み込まれていく。


 背中に張り付いたジャケットの重みを感じた。

 かつては鮮やかなレスキュー・オレンジだったそのナイロン生地は、長年の酷使とオイル汚れ、そして今の泥水によって、見る影もなく変色している。防水機能はとっくの昔に失われていた。今やそれは、俺の体温を守る鎧ではなく、容赦なく熱を奪い尽くす冷たい拘束具へと変わり果てている。

 皮膚と布の間に入り込んだ雨水が、動くたびに冷たい膜を作った。芯まで冷え切った身体が、小刻みに震えているのが分かる。


 胸ポケットに手を伸ばした。

 指先の感覚はほとんどない。まるで他人の指を操っているようなもどかしさの中で、俺はくしゃくしゃになったソフトパックを探り当てた。

 最後の一本だ。震える指でそれを摘み出そうとするが、指は言うことを聞かない。フィルターを挟んだつもりだった指先は虚しく滑り、あろうことか、その白い棒きれを水溜まりの中へと落としてしまった。

 ぽちゃん、と間の抜けた音がした。白い紙が瞬く間に水を吸い、茶色く変色して解けていく。

「……笑える」

 乾いた笑いが漏れた。煙草一本、まともに吸うこともできないのか。火をつける気力も、それを拾い上げる執着も、今の俺には残されていない。ただ、ぼんやりと、ふやけていく残骸を見つめているだけだ。

「こんなはずじゃ、なかったんだよなぁ」

 独り言が口をついて出た。

 誰に聞かせるわけでもない、自分自身への嘲笑。その言葉は、発した瞬間に雨のカーテンに遮られ、誰の耳にも届くことなくアスファルトに染み込んで消えた。


 視線を上げると、雨に煙る視界の先、点滅する信号機の脇に、一台の車が停まっているのが見えた。

 古ぼけたワゴン車だ。塗装は剥げ落ち、バンパーは歪んでいる。街灯の下、窓ガラスを伝う雨粒が無数の光の筋を描き、車内の様子を曖昧にぼかしている。

 そのシルエットを見た瞬間、心臓の鼓動が早くなった。記憶の底にある泥が、一気に舞い上がったような感覚。あのワゴン車に、見覚えがあるような気がしたのだ。

 ――いや、そんなはずない、か。

 理性では分かっている。廃車場に積み上げられ、鉄屑となったその車を、俺はこの目で確かに見たのだから。だが、雨と夜が作り出す幻影は、残酷なほど鮮明に過去を引きずり出す。滲むテールランプの赤色が、まるで血管を流れる血のように、俺の記憶中枢を駆け巡った。


 あれは、まだ何も失っていなかった頃の「足」だ。金もなければ、社会的な地位もない。あるのは余りある時間と、根拠のない自信と余裕だけだったあの頃。

 俺たちは、あのオンボロのワゴン車に全てを詰め込んで走っていた。リヤゲートを開ければ、そこには常にガソリンとオイルの匂いが充満していた。工具箱、予備のパーツ、万年床の寝袋、そして安っぽいギター。誰かの脱ぎ捨てたブーツが転がり、カップラーメンの空き容器が散乱していた。

 狭くて、汚くて、でも、そこは俺たちの城だった。

 運転席にはカズがいた。いつも少し猫背で、ハンドルを握りながら馬鹿でかい声でロックンロールを歌っていた。助手席にはヨウヘイ。地図を広げるフリをしながら、いつだって居眠りをしていた。

 そして、後部座席の俺。窓を全開にして、風を浴びながら叫んでいた。


『どこまで行くんだよ!』

『行けるところまでだろ!』


 そんな会話を、何度繰り返しただろう。

 笑って、歌って、馬鹿をやって。

 まるで、この道の先には輝かしい未来が約束されていると信じていた。ガソリンさえあれば、俺たちはどこへだって行ける。地球の果てだって、月の裏側だって。

 若さとは、愚かさの別名であり、同時に最強の免罪符だった。俺たちの時間は永遠に続き、この友情は鋼鉄よりも硬いと信じて疑わなかった。

 しかし、永遠などなかった。

 鋼鉄でさえ、強い衝撃が加わればひしゃげるのだ。人の絆や命が、それより脆いことを、俺たちは知らなかっただけだ。


 記憶の中の雨は、今日のように冷たくはなかった。あの日は、生温かい風が吹く夏の終わりの夜だった。

 峠道。濡れた路面。すり減ったタイヤ。そして、対向車線のヘッドライト。

 音はなかった。いや、あったはずだ。タイヤが悲鳴を上げるスキール音、金属がひしゃげる破砕音、ガラスが砕け散る炸裂音。それらは鼓膜を破壊するほどの音量だったはずなのに、俺の記憶の中では、その瞬間だけが完全な静寂に包まれている。

 スローモーションのように視界が回転し、天地が逆転する。ダッシュボードに置かれたマスコットが宙を舞い、吸いかけの煙草から火の粉が散る。

 気がついた時には、ワゴン車はガードレールを突き破り、横転していた。静寂を破ったのは、ラジエーターから噴き出す蒸気の音と、遠くで鳴く虫の声だけだった。

 カズの名前を呼んだ。ヨウヘイの肩を揺すった。

 返事はなかった。ただ、ひしゃげた鉄の塊の中で、彼らは眠っているように動かなかった。赤い液体が、割れたフロントガラスを伝ってアスファルトに滴り落ちていく。その赤色が、テールランプの光なのか、それとも彼らの命の色なのか、混乱した頭では判別がつかなかった。

 事故ひとつで、約束も、友情も、未来も、全てが崩れ去った。

 あんなに騒がしかった俺たちの旅は、唐突な静寂によって幕を下ろした。

 生き残ったのは、後部座席で奇跡的に軽傷で済んだ俺だけだ。いや、「生き残った」という表現は正しいのだろうか。あの日、俺の一部もまた、あの残骸の中に置き去りにされたのではないか。

 葬儀の日も、警察の聴取の日も、そして今日に至るまでの日々も、俺はずっと半透明な膜の中にいるような感覚を抱き続けている。

 俺だけが息をして、飯を食い、歳を取る。それは一種の裏切りのようにも思えた。


 現実の雨音が、俺を路上へと引き戻す。

 目の前のワゴン車が、静かに動き出した。ブレーキランプが解除され、赤い光が強くなる。マフラーから白煙を吐き出し、その車はゆっくりとタイヤを回し始めた。

 中には誰が乗っているのだろう。家族連れか、仕事帰りの男か、それとも恋人たちか。いずれにせよ、それは俺の知っているワゴン車ではない。カズもヨウヘイも、そこにはいない。

 分かっていたことだ。それでも、俺の目はその車を追わずにはいられなかった。

 赤いテールランプが雨のスクリーンと混じり合い、細く長い光の尾を引いていく。それはまるで、流星のようだった。

 あるいは、魂の残り火か。


 俺は立ち上がらなかった。立ち上がれなかった。ただ視線だけで、遠ざかっていく光を追った。

 去っていく仲間たちの背中を、もう一度見送るように。

「じゃあな」

 声に出さずに唇だけを動かした。

 ワゴン車は交差点を曲がり、ビルの陰へと姿を消した。後に残されたのは、再び訪れた圧倒的な孤独と、変わらぬ雨音だけだった。


 俺のバイクは、まだ沈黙を守っている。もう一度エンジンをかけようとは思わなかった。セルを回す指の力もなければ、そもそも、このバイクを走らせて向かうべき場所が思いつかない。

 アパートに帰れば、冷たい部屋が待っているだけだ。友人に連絡をとる気にもなれない。仕事に行く気力もない。

 俺にはもう、行き先がないのだ。物理的な行き先だけでなく、人生における目的地を見失ってしまった。

 あの日からずっと、俺は惰性で生きてきた。オレンジ色のジャケットを羽織り、バイクに跨ることで、何者かであるような顔をして。だが、その中身は空っぽだった。

 ガス欠のバイクと同じだ。外見だけは立派でも、動かすための熱源がない。

 しかし、不思議だった。

 極限の寒さと孤独の中にいるはずなのに、胸の奥から湧き上がってくるのは、悲壮感だけではない。むしろ、奇妙な安堵感に似た静けさが広がっていた。


 雨が強くなってきた。バケツをひっくり返したような豪雨が、俺の身体を打ち据える。だが、その激しさが心地よかった。

 この雨は、何もかもを洗い流してくれるような気がした。ジャケットにこびりついた汚れも、路面のオイルも、俺の心にへばりついた後悔も、罪悪感も。全てを等しく濡らし、冷やし、流し去ろうとしている。

 そう思えば、この骨まで凍るような冷たささえ、一種の救済に感じられた。

 俺は罰を受けているのかもしれない。生き残ってしまったことへの、何も成し遂げられないまま生きていることへの罰を。

 そして、この雨がその罪を許してくれているのだとしたら、俺は甘んじてこの場所に座り続けようと思った。


 空を見上げる。分厚い雲に覆われた空は、まだ漆黒のままだ。星ひとつ見えない。でも、夜は必ず明ける。

 カズやヨウヘイが信じていたような「輝かしい未来」は、もう来ないかもしれない。でも、地球が回り続ける限り、太陽は昇り、この雨もいつかは止む。

 それだけは、変えようのない事実だ。


 ――きっと夜明けは来る。


 その時、空がどんな色をしているのかは分からない。灰色かもしれないし、見事な朝焼けかもしれない。

 どちらでもいい。ただ、光が差すその瞬間まで、俺はここで待とうと思う。


 俺は膝を抱え、ヘルメットに寄りかかった。

 雨音は子守唄のように優しく、激しく、俺の意識を包み込んでいく。水溜まりの中でふやけた煙草が、ばらばらに分解されて水に溶けていくのが見えた。

 俺もまた、この雨の一部になって、夜明けを待つだけだ。

 今はただ、それだけでいい。


(了)

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