第1話:錆びついた街の異邦人

錆びついた風が、街の喉元を掻き切るように吹き抜けていた。


 ここは、かつて造船と鉄鋼で栄え、今は老いさらばえた「鉄の街」。空はくすんだ鉛色で、立ち並ぶ老朽団地のベランダには、住人の気配を失った洗濯バサミだけが寒風に揺れている。鼻を突くのは、湿ったコンクリートの匂いと、どこからか漂う古い油の匂い。その冷気は肺の奥まで侵入し、生きる意欲を少しずつ、削り取っていく。


 団地の広場、ひび割れたアスファルトの上に、一人の男が立っていた。  名前を、**重蔵(じゅうぞう)**という。  ボロボロの作業着に、分厚い革のジャンパー。爪の奥には、一生かかっても落ちない黒い油が染み込んでいる。彼は無言で、荷台に載せた巨大な銀色の鍋を引いていた。ガラガラ、ガラガラと、乾いた車輪の音が静寂を切り裂く。


 その様子を、一階の薄暗い部屋から、死んだ魚のような目で見つめている男がいた。  独居老人、源三(げんぞう)。  かつてはこの街でクレーンを操っていたが、今は家族も職も失い、ただ「死」という出口が訪れるのを、電気の消えた部屋で待っている。


「……けっ、不審な野郎だ」


 源三は吐き捨てるように呟き、窓の鍵を閉めようとした。だが、指先が冷え切って力が入らない。そこへ、重蔵がぬっと窓際に現れた。


「……おい、爺さん。死んだフリか。それとも本気で死ぬ気か」


 低く、地響きのような声。源三は震える声で怒鳴り返した。 「うるせえ! どこの誰だか知らねえが、ほっとけ。俺はもう、何もいらねえんだ。食うものも、言葉も、慈悲も、全部な!」


「そうか。だが、熱(ねつ)だけは必要だろ」


 重蔵は源三の拒絶を無視し、窓の隙間から、湯気の立ち上る銀色のカップを差し入れた。中に入っているのは、ただの白湯だ。けれど、その湯気は冬至の朝陽を浴びて、神々しいほどに白く、美しく揺れていた。


「いらねえと言ってるだろ! 毒でも入ってるんじゃねえのか」 「毒ならとっくに、その冷え切った孤独が回ってるはずだ。いいから飲め。喉が焼けるくらいでいい。自分の腹の中に、まだ『火』があるかどうか確かめてみろ」


 重蔵の強い視線に圧され、源三はおずおずとカップを受け取った。    ――熱(あつ)っ。


 指先に伝わる、忘れていた激しい感覚。源三は顔を顰めながら、一気にそれを啜った。    喉を通る熱が、食道を焼き、胃の腑へと落ちていく。  じわじわと、血管が広がる感覚。凍りついていた感覚が、無理やり剥がされるような痛み。


「……あ、ああ……」


 源三の瞳に、ほんの一筋、生気という名の光が戻った。  熱が落ちた場所から、ドクン、と心臓の音が聞こえた気がした。それは、自分が「まだ生きている」という、あまりにも生々しい痛みだった。


「どうだ。焼け付くような熱さは、生きてる証拠だ。死ぬのは、冷え切ってからで十分だろう」


 重蔵は、空になったカップをひったくるように受け取ると、再び鍋の荷台に手をかけた。


「……おい、あんた。名前は……」 「重蔵だ。名乗るほどの者じゃねえ。ただの、鉄の使い古しだよ」


 重蔵は名乗ることもせず、再びガラガラと音を立てて歩き出した。  源三は、自分の腹の奥に残る「熱」の余韻を抱きしめるように、静かに窓を閉めた。


 窓の外、冬の光の中で、重蔵の引く銀色の鍋が、シャンパンゴールドに瞬いていた。  鉄の街の隙間に、一滴の熱が注がれた瞬間。  源三の「心のコップ」に溜まっていた澱(よどみ)が、その熱によって少しだけ、蒸発し始めたようだった。


「……明日も、来るのか。あの野郎」


 源三の声は、もう独り言ではなかった。  錆びついた街のプロローグは終わり、今、孤独な老人と鉄の男の、不器用な「救援力」の物語が、ひっそりと幕を開けた。


――第1話 完。




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