虚ろな玉座に、君はもういない

@flameflame

第一話 偽りの救世主

週末の朝の光は、いつもより柔らかく、穏やかにリビングへと差し込んでくる。吹き抜けの高い天井に設えた窓から降り注ぐ陽光が、床に置かれた観葉植物の葉をきらきらと照らしていた。俺、染谷海音(そめや かいと)は、自分で設計の細部にまでこだわったこの家のリビングで、淹れたてのコーヒーの香りを深く吸い込んだ。


「パパ、見て! 虹ができたよ!」


リビングの掃き出し窓の向こう、手入れの行き届いた芝生の庭で、娘の星蘭(せいら)がホースの水を空に向けて撒きながらはしゃいでいる。七歳の小さな体で一生懸命にホースを持ち、水しぶきの中に生まれた淡い虹を指差していた。その無邪気な笑顔は、俺にとって何物にも代えがたい宝物だ。


「本当だ、綺麗だな、星蘭」


俺が微笑みながら応えると、キッチンから妻の美伶(みれい)がマグカップを二つ、トレイに乗せてやってきた。


「もう、星蘭ったら。朝からびしょ濡れじゃない。風邪ひくわよ」


口ではそう言いながらも、美伶の表情は優しい。長い髪を緩くまとめただけのラフな姿も、出会った頃と変わらず綺麗だと思う。彼女は俺の隣に座ると、自分の分のコーヒーをテーブルに置いた。


「あなた、今日は会社、本当に大丈夫なの?」

「ああ、問題ない。昨日のうちに全部片付けてきたから。今日は一日、家族サービスに徹するさ」


大手IT企業でプロジェクトマネージャーを務める俺の仕事は、正直言って激務だ。特に最近は、社運を賭けた大規模なプロジェクトを任され、休日出勤も珍しくなかった。だが、その甲斐あってプロジェクトは順調に進んでいる。ようやく掴んだ久しぶりの完全な休日だった。


「よかった。星蘭も、パパと遊べるってずっと楽しみにしてたんだから」

「分かってる。約束だからな」


愛する妻と、天使のような娘。そして、念願だったこだわりの一軒家。俺の人生は、完璧なパズルのピースがすべて嵌まったように、満ち足りていた。この幸せが永遠に続くと、疑いもしなかった。この城の壁に、見えない亀裂が走り始めていることにも気づかずに。


その日の午後、来客を告げるインターホンのチャイムが鳴った。モニターに映っていたのは、美伶と、その隣に立つ見知らぬ若い男の姿だった。


「ごめんなさい、急に。大学の時の後輩が近くまで来たっていうから、つい」


玄関を開けると、美伶が少し申し訳なさそうに言った。彼女の後ろに立つ男は、絵に描いたような好青年だった。爽やかな笑顔を浮かべ、すっと頭を下げる。


「はじめまして。静馬伊織(しずま いおり)と申します。大学時代、美伶さんには大変お世話になりました」

「……どうも、夫の海音です」


突然の訪問に少し戸惑いながらも、俺は伊織をリビングへと通した。聞けば、近くの取引先へ来た帰りに、ふとこの辺りだったことを思い出し、美伶に連絡してきたのだという。


「すごい家ですね。海音さんが設計されたとか。さすがです」


伊織はリビングを見回し、心から感心したように言った。その言葉に嘘や追従の色はなく、素直な賞賛に聞こえた。悪い気はしない。


「伊織くん、今、急成長してるベンチャーの役員さんなのよ。すごいの」

「いやいや、美伶さん、やめてくださいよ。俺なんてまだまだです」


謙遜しながらも、その佇まいには自信が満ち溢れている。若くして成功している人間の持つ、独特の輝きがあった。美伶が彼を自慢げに紹介する気持ちも、少し分かる気がした。


問題は、星蘭だった。人見知りするはずの娘が、初対面の伊織にすぐに懐いたのだ。


「伊織お兄ちゃん、これ、星蘭が作ったの!」


星蘭は自分の宝物である折り紙の作品が入った箱を持ち出してきて、伊織の前に広げた。伊織は屈託のない笑顔で屈みこみ、星蘭の目線に合わせて一つ一つを手に取った。


「うわ、すごい上手だね、星蘭ちゃん。これはウサギさんかな? 耳のところがすごく難しいのに、綺麗に折れてる」

「うん! あのね、ここはね……」


まるで昔からの知り合いのように、二人の間には和やかな空気が流れている。子供の扱いが非常に上手いのだろう。美伶もその光景を嬉しそうに眺めていた。俺だけが、どこかその輪の中に入りきれないような、かすかな疎外感を覚えていた。完璧すぎる笑顔と、淀みない会話。まるで、用意された台本を演じているかのような、妙な既視感がまとわりついて離れなかった。


それから数週間、俺の日常は静かに、しかし確実に軋みを立て始めた。会社で担当しているプロジェクトで、原因不明のトラブルが頻発し始めたのだ。完成間近のシステムに深刻なバグが見つかったり、共有サーバーから一時的にデータが消失したり。どれもすぐに復旧はできたものの、そのたびに俺は対応に追われ、帰宅は連日深夜になった。


「また今日も遅かったのね」


疲れ果ててリビングのドアを開けると、ソファで雑誌を読んでいた美伶が不機嫌そうな声を上げた。


「すまん。急なトラブルで……」

「トラブル、トラブルって、最近そればっかりじゃない。本当にあなたがマネージャーとして機能してるの?」


彼女の言葉には、以前のような労いはなく、棘が混じっていた。俺の心労を知ってか知らずか、その口から出るのは不満ばかりだった。


「……努力はしてる。もう少しで落ち着くから」

「いつもそう言うだけじゃない。星蘭だって、寂しがってるわよ」


娘の名前を出されると、何も言い返せなくなる。確かに、最近は星蘭が起きている時間に帰れたことがない。寝顔を見るだけの日々が続いていた。


そんな夫婦の冷え切った空気とは対照的に、美伶の口からは伊織の名前が頻繁に出るようになっていた。


「今日、伊織くんとランチしたの。仕事、大変みたいだけど、すごく充実してるって。あなたの話もしたら、海音さんほど優秀な人なら大丈夫ですよって、心配してくれてたわ」

「そうか」

「伊織くん、星蘭にもすごく優しくて。この間も、星蘭が欲しがってたキャラクターの限定グッズ、わざわざ探してプレゼントしてくれたのよ」


俺の知らないところで、伊織は着実に染谷家に入り込んでいた。美伶の良き相談相手として、星蘭の優しいお兄ちゃんとして。俺が仕事に忙殺されている間に、彼が俺の居場所を少しずつ奪っていることに、この時の俺はまだ気づいていなかった。


ある夜、珍しく早く帰宅できた俺は、リビングから聞こえてくる星蘭と美伶の楽しげな笑い声に、思わず頬を緩めた。ところが、リビングに入った瞬間、その笑顔は凍りついた。


「あ、パパ、おかえりなさい」


ソファには、星蘭と美伶、そして伊織が座っていた。テーブルの上には、高級そうな洋菓子の箱が置かれている。まるで、それが当たり前の光景であるかのように。


「……伊織くん、来てたのか」

「海音さん、お疲れ様です。近くまで来たので、差し入れを、と思いまして。お邪魔でしたかね」


伊織は悪びれる様子もなく、爽やかな笑顔を向ける。その隣で、美伶が少し気まずそうに目を逸らした。


「パパ、今日ね、伊織お兄ちゃんが新しいゲーム買ってくれたの! すごく面白いの!」


星蘭が駆け寄ってきて、手にした携帯ゲーム機を俺に見せる。その無邪気な笑顔が、なぜか俺の胸をちくりと刺した。俺が買ってやれなかったものを、この男がいとも簡単に与えている。


「そうか、よかったな」


俺は無理に笑顔を作って娘の頭を撫でたが、心の中は冷たい霧に包まれていくようだった。家族団らんの風景。だが、その中心にいるのは俺ではない。俺はまるで、招かれざる客のようだった。


その日を境に、俺の焦りは募っていった。社内では、頻発するトラブルの原因が内部からの情報漏洩ではないかという噂が立ち始めていた。プロジェクトの最高責任者である俺には、当然ながら厳しい視線が向けられる。疑心暗鬼に駆られた俺は、チームのメンバー一人一人を疑いの目で見始めた。人間関係は悪化し、プロジェクトの雰囲気は最悪になった。


家に帰れば、美伶の冷たい視線が待っている。彼女は俺の苦悩に寄り添おうとはせず、伊織から聞いたであろう言葉で俺を責めた。


「もっと部下を信頼してあげたらどうなの? 伊織くんも言ってたわ。トップが疑心暗鬼になったら、組織は崩壊するって」

「お前に何が分かる! あいつは所詮、部外者だろうが!」


思わず声を荒らげてしまった。美伶は傷ついたような、軽蔑するような目で俺を見ると、静かに寝室へ行ってしまった。一人残されたリビングの静寂が、やけに身に染みた。孤独だった。会社でも、家でも、俺には味方が一人もいないような気がした。


そして、運命の日は、突然訪れた。

役員会議室に呼び出された俺を待っていたのは、社長をはじめとする役員たちの冷徹な視線だった。


「染谷くん、単刀直入に聞く。君が、今回のプロジェクトの機密情報をA社に漏洩したのかね」

「……は? 何を仰ってるんですか。そんなこと、するはずがありません!」


全く身に覚えのない容疑に、全身の血が逆流するような感覚に陥った。しかし、目の前に突きつけられた証拠は、あまりにも雄弁だった。俺の業務用PCから、ライバルであるA社の担当者へ、機密情報が添付されたメールが送信されたログ。送信時刻は、俺が深夜まで残業していた時間と一致していた。さらに、俺の個人口座に、A社と繋がりのあるダミー会社から、多額の金が振り込まれた記録まで出てきた。


「そんな……ありえない! これは罠です! 誰かが俺を嵌めようとしてるんだ!」


必死に叫ぶが、誰も聞く耳を持たない。巧妙に、そして周到に仕組まれた罠。状況証拠は、すべてが俺を犯人だと指し示していた。誰が? なぜ? 頭が真っ白になる中で、ふと、あの男の爽やかすぎる笑顔が脳裏をよぎった。静馬伊織。だが、何の証拠もない。ただの憶測だ。


「残念だよ、染谷くん。君を信頼していたのに」


社長の失望に満ちた声が、俺への死刑宣告のように響いた。俺は、その日のうちに懲戒解雇処分となった。築き上げてきたキャリア、社会的信用、そのすべてを、一瞬にして失った。


ふらふらと、まるで亡霊のような足取りで家に帰る。すがるような思いで、美伶に全てを話した。俺はやっていない。信じてくれ、と。


「……信じてほしいって、どうやって?」


ソファに座り、腕を組んだまま、美伶は冷え切った声で言った。その瞳には、かつて俺に向けられていた信頼や愛情の色はどこにもなかった。あるのは、失望と、侮蔑と、そして諦めだけだった。


「証拠が全部、あなたがやったって示してるんでしょう? お金まで受け取って。最低よ」

「違う! あれは仕組まれたんだ! 俺じゃない!」

「もう聞き飽きたわ、その言い訳」


美伶は立ち上がり、俺の横を通り過ぎようとした。俺は思わず、彼女の腕を掴んだ。


「頼む、美伶……信じてくれ。俺を信じてくれるのは、お前しかいないんだ」


その時だった。リビングのドアが静かに開き、伊織が顔を覗かせた。いつからそこにいたのか。


「美伶さん、大丈夫ですか?」


彼は心配そうに美伶に声をかけ、俺の手を振り払うようにして彼女を自分の背後にかばった。その目は、俺を非難するように、鋭く見据えていた。


「海音さん、見苦しいですよ。自分の過ちを認めたらどうですか。美伶さんをこれ以上、苦しめないでください」


まるで正義の味方のような口ぶりだった。美伶は、そんな伊織の腕にすがるようにしがみついている。その光景が、俺の最後の希望を打ち砕いた。ああ、そうか。こいつが黒幕だったのか。そして、妻は、俺ではなくこいつを選んだのか。


俺は、必死に無実を訴えた。何度も、何度も。だが、美伶の答えは変わらなかった。


「もう、あなたのこと、信じられない」


その言葉は、鋭利な刃物となって俺の心臓を貫いた。愛する妻からの、決定的な拒絶。俺たちの家族という名の城は、音を立てて崩れ落ちた。その瓦礫の下で、俺はただ一人、立ち尽くすことしかできなかった。偽りの救世主が浮かべる、勝利の微笑みに気づくこともなく。

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