未来の自分が殺人鬼になる世界で、僕は快楽に溺れていく センス・シェア——禁忌の感覚配信

ソコニ

第1話 禁忌の味読(オーバー・センス)



1

2026年12月、東京。


カイは水道水で薄めた小麦粉のスープをすすりながら、耳の後ろに埋め込まれた「バイオ・コネクタ」に指先を這わせた。親指の腹で触れると、皮膚の下に埋まった金属製のポートが微かな振動を返してくる。


右手の親指の付け根には、生まれつきの痣がある——いや、「生まれつき」というのは嘘だ。コネクタを埋め込んだ時、同時に刻印された識別マーク。まるでQRコードのような幾何学的な模様が、皮膚の下で黒く浮き出ている。システムに登録された個体の証。


網膜に投影されたメニューを操作し、月額500円の「プレミアム・ディナー体験パック」を起動する。


瞬間、口の中で何かが弾けた。


脂の甘み。肉汁の濃密な旨味。炭火で焼き上げられた表面の香ばしさ。舌の上で溶けていく、信じられないほど柔らかな食感——。


カイは目を閉じた。実際に口に入っているのは、水と小麦粉だけ。だが脳は完璧に騙されている。誰かが、どこかの高級レストランで食べている最高級和牛ステーキの「味覚データ」が、リアルタイムでカイの感覚野に流れ込んでいるのだ。


「……うまい」


誰もいない六畳一間のアパートで、カイは呟いた。


これが「センス・シェア」。他人の五感を、まるで自分のもののように体験できる技術。2024年のサービス開始から二年で、世界中の貧困層にとって唯一の「贅沢」になった。


カイのような大学生——奨学金の返済に追われ、バイトと講義を両立させるだけで精一杯の若者——は、実際の食事に金をかけることができない。だから彼らは「感覚だけ」を買う。


月額500円。それで一ヶ月間、毎日違う高級レストランの味を楽しめる。


実際の栄養は、最低限のプロテインバーと炭水化物で補えばいい。舌が覚える「幸福」さえあれば、人間は意外と生きていけるものだ。


ステーキの余韻が消えかけた瞬間、網膜投影の端に広告が割り込んできた。


『この感動を125%増幅!フレーバーブーストパック・今なら初回無料』


カイは舌打ちして広告を閉じた。口の中には再び小麦粉の味気ない風味だけが残った。


腹は膨れない。でも、脳は満足している。


それで十分だった。


少なくとも、今日までは。


2

大学への道すがら、カイは街を観察していた。


すれ違う人々の耳の後ろには、誰もが同じようにバイオ・コネクタを埋め込んでいる。老人も、子供も、ビジネスマンも。もはや身分証明書と同じくらい当たり前の存在だ。


満員電車の中で、隣の男は恍惚とした表情で目を閉じている。おそらく誰かの「マッサージ体験」をシェアしているのだろう。向かいの女子高生は、肩を震わせて笑っている。人気お笑い芸人の「笑いの感覚」を直接ダウンロードしているに違いない。


自分の感覚を生きるより、他人の感覚を消費する方が楽しい世界。


カイは自嘲気味に笑った。自分もその一人だ。文句を言う資格なんてない。


駅を降りて、大学のキャンパスに向かう途中だった。


耳の後ろで、コネクタが奇妙なノイズを拾った。


ビリビリ、という不快な振動。網膜投影のインターフェースが一瞬乱れ、見たこともないアイコンが画面の隅に浮かび上がった。


真っ黒な球体。その表面に、血のような赤い文字。


『無料体験:未知の「触覚」——あなたはまだ、本当の「重み」を知らない』


カイは立ち止まった。


公式ストアには存在しないデザイン。アプリ名も表示されていない。ただ、得体の知れない誘惑だけが、そこにある。


野良アプリ——違法にアップロードされた、審査を通っていない感覚データ。


普通なら削除する。ウイルスかもしれないし、脳に悪影響を及ぼす可能性もある。センス・シェアの利用規約には、非公式データのダウンロードを固く禁じると明記されている。


でも。


カイの指は、すでにそのアイコンに触れていた。


「……無料、か」


月末まであと五日。所持金は1,200円。今月のステーキ体験パックは、もう使い切った。


無料なら、試してみてもいいんじゃないか。


そんな浅はかな理由で、カイは黒いアイコンをタップした。


3

インストールが始まった瞬間、視界が揺れた。


世界の色が変わる。


淡い冬の陽射しが、一瞬で深い緋色に染まった。空も、ビルも、道行く人々も、すべてが血のような赤に塗り替えられる。


そして——。


ズシリ。


右手に、何かの重みが伝わってきた。


カイは自分の手を見下ろした。何も持っていない。空っぽの掌。でも、確かに感じる。冷たく、重く、硬い何かを、右手で握りしめている感覚。


金属の柄。指に食い込む重量。


刃物だ。


そして次の瞬間、視界が切り替わった。


自分の視界ではない。誰か別の人間の目を通して、世界を見ている。


薄暗い部屋。壁には古びた壁紙が剥がれかけている。床に散らばったコンビニ弁当の空容器。そして——目の前には、怯えた表情で後ずさる男が一人。


「やめ……やめてくれ……!」


男の声が聞こえる。でも、カイの耳からではない。直接、脳に響いてくる音。


そして、右手が動いた。


カイの意志ではない。「誰か」の意志で、右手に握られた刃物が振り下ろされる。


男の肩に、刃が食い込んだ。


ズブリ。


その感触が、カイの右手に完璧に伝わってきた。


皮膚を裂く抵抗。筋肉の繊維が引き裂かれる感触。刃が骨に当たる硬い衝撃。そして、温かい液体が手の甲に飛び散る生々しい感覚——。


カイは悲鳴を上げようとした。


でも、声は出なかった。


代わりに、脳の奥で何かが弾けた。


ドクン。ドクン。ドクン。


心臓が高鳴る。


全身の血流が加速し、呼吸が荒くなる。


そして——信じられないことに——。


気持ちいい。


吐き気を催すはずの光景。恐怖で身体が硬直するはずの瞬間。


なのに、カイの脳は、これを「快楽」として受け取っていた。


刃物が肉を裂く感触。骨を断つ手応え。抵抗する生命を、力ずくで破壊していく実感——。


それが、まるで最高級のドラッグのように、カイの脳内に大量のドーパミンを放出させていた。


「なんだ……これ……」


カイは膝をついた。道端で、周囲の視線も気にせず、右手を握りしめる。


視界の中で、「誰か」は何度も刃物を振り下ろしている。男の悲鳴。飛び散る血飛沫。崩れ落ちる身体。


そのすべてが、カイの感覚として流れ込んでくる。


網膜投影の隅に、小さな赤いランプが点滅している。「LIVE」の文字。視聴者数のカウンター。そして——。


『この興奮を今すぐ共有!SNS連携で報酬2倍キャンペーン実施中』


広告だ。人が殺されている最中に、アルゴリズムは何も理解せず、ただ「エンゲージメントを高めろ」と囁いている。


誰かが、今この瞬間、人を殺している。


そして、その感覚を、リアルタイムで配信している。


カイは切断しようとした。アプリを終了させようと、必死に操作する。


でも、インターフェースが反応しない。


黒いアイコンは、まるで寄生虫のようにカイのシステムに食い込み、勝手に感覚を送り続けている。


「やめろ……切れてくれ……!」


でも、カイの指先には、まだ生温かい血の感触が残っている。


そして、その感触が——。


「ああ……もっと……」


——抗えないほど、甘美だった。


4

配信が終わったのは、三十分後だった。


視界が元に戻る。冬の街。灰色の空。普通の、何の変哲もない東京の風景。


カイは歩道に座り込んだまま、全身を震わせていた。


右手を見る。何もない。血も、刃物も、ない。


でも、感触だけは残っている。


肉を裂いた手応え。骨を断った衝撃。抵抗を突き破る快感——。


「……吐きそう」


実際に吐いた。胃の中には小麦粉のスープしかなかったから、透明な胃液だけが道端に撒き散らされた。


通行人が、カイを避けるように歩いていく。誰も気にしない。路上で倒れている人間なんて、2026年の東京では珍しくもない。


カイは震える手で、コネクタを操作した。


アプリの履歴を確認する。


黒いアイコンは、まだそこにあった。


アプリ名は表示されていない。ただ一言だけ、コードネームが記されている。


『UNKNOWN(アンノウン)』


送信者のIDも、位置情報も、何もない。


ただ、一つだけ確実なことがある。


——次の配信予告が、すでに表示されていた。


『次回配信:12月22日 21:00——新しい「重み」を、あなたに』


カイは、アプリを削除しようとした。


指がアイコンに触れる。削除ボタンを長押しする。


でも、指が、震えて離れない。


脳が囁いている。


もう一度、あの感覚を。


もう一度、あの「重み」を。


カイは、自分の頬を両手で叩いた。


「……違う、俺は……こんなの、求めてない……」


でも、否定すればするほど、右手の感触が鮮明に蘇ってくる。


あの「生きている実感」。


月額500円のステーキ体験なんかより、ずっと、ずっと「本物」だった感覚——。


カイは震える指で、アイコンを長押しした。


削除ボタンが現れる。


三秒。二秒。一秒。


指が、離れた。


削除できなかった。


網膜投影に、新しい通知が滑り込んできた。


『あなたの心理状態に最適な不眠症改善プランをご提案!今なら初月50%オフ』


カイは笑った。乾いた、空虚な笑い声だった。


システムは何も理解していない。ただ、データを処理し、広告を配信し、収益を最大化する。


人が壊れていく過程すら、マネタイズの機会でしかない。


カイは立ち上がり、ふらふらと大学へ向かった。


講義なんて、どうでもよかった。


ただ、明日の夜まで、この感覚を忘れるために——。


何か別のことを、しなければならなかった。


5

その日の夜、カイは眠れなかった。


ベッドに横たわり、天井を見つめる。


右手を握りしめると、まだ微かに感触が残っている気がした。


「……おかしい」


カイは呟いた。


「俺は……人が死ぬのを見て、興奮するような人間じゃない……」


でも、脳は正直だった。


あの瞬間、確かに快楽を感じた。


アプリの調整。脳への直接刺激。ドーパミンの強制分泌——技術的には、どんな感覚でも「快楽」に変換することができる。


わかっている。


これは、自分の本当の感情じゃない。


でも、それでも。


脳が覚えてしまった「快楽」は、簡単には消えてくれなかった。


カイは枕に顔を埋めた。


明日、絶対にアプリを削除する。


そう決意して、ようやく浅い眠りに落ちた。


6

翌日。


カイは、大学の図書館でセンス・シェアの技術資料を調べていた。


「野良アプリの削除方法」「違法感覚データの対処法」「コネクタのリセット手順」——。


ありとあらゆる情報を漁った。


でも、UNKNOWNのような「自己防衛機能を持った寄生型アプリ」に関する情報は、どこにも見つからなかった。


「……最悪、コネクタごと外科手術で取り除くしかないのか」


それには最低でも50万円かかる。カイに、そんな金があるはずもない。


諦めかけたとき、図書館の入口から、見覚えのある人物が入ってきた。


桐谷美咲(きりたに みさき)。


カイと同じ学部の助手。専門は神経科学と感覚情報工学。センス・シェアの技術開発に携わっていた研究者だ。


二十代後半。知的で落ち着いた雰囲気。いつも白衣を着ている。


カイは、彼女に密かに憧れていた。


話したことは数回しかない。でも、彼女の講義は面白かったし、研究に対する真摯な姿勢に惹かれていた。


もしかしたら、彼女なら何か知っているかもしれない。


カイは席を立ち、美咲に声をかけようとした。


その瞬間——。


耳の後ろで、コネクタが振動した。


ビリビリビリ。


網膜投影に、通知が表示される。


『UNKNOWN——配信開始まであと10秒』


「……は?」


カイは混乱した。


まだ21時じゃない。今は昼の12時だ。


でも、カウントダウンは容赦なく進んでいく。


10、9、8、7——。


「待て、今はダメだ……!」


カイは必死にアプリを操作する。でも、インターフェースは反応しない。


3、2、1——。


接続。


視界が、切り替わった。


7

また、誰かの視界。


薄暗い室内。窓から差し込む冬の陽射し。


そして——目の前には、白衣を着た女性が一人。


背中を向けて、書類を整理している。


桐谷美咲だった。


カイの心臓が跳ねた。


「……嘘だろ……」


視界の主——UNKNOWNのドナー——は、ゆっくりと美咲に近づいていく。


右手には、また刃物が握られている。


冷たい金属の感触。重量。殺意。


「やめろ……!」


カイは図書館の中で叫んだ。


周囲の学生たちが、一斉にカイを見る。


でも、カイにはもう何も見えていなかった。視界は完全にUNKNOWNのものに乗っ取られている。


ドナーの右手が、ゆっくりと美咲の首に伸びる。


「やめろォォォォッ!!」


カイは自分の身体を動かそうとした。


美咲の研究室は、この図書館から徒歩五分の場所にある。


今すぐ行けば——間に合うかもしれない。


カイは走り出した。


視界が二重になる。


片方の目では、UNKNOWNが美咲の首を絞める光景。


もう片方の目では、自分が大学のキャンパスを全力疾走している現実。


息が上がる。心臓が破裂しそうだ。


でも、止まれない。


研究棟に到着する。階段を駆け上がる。三階。美咲の研究室。


ドアの前で、カイは立ち止まった。


ドアは、開いている。


中から、物音ひとつ聞こえない。


カイは震える手で、ドアを押し開けた。


8

室内に、美咲が倒れていた。


首には、深い絞殺痕。目は虚ろに開いたまま。もう、息をしていない。


「あ……ああ……」


カイは膝をついた。


視界のUNKNOWN配信は、まだ続いている。


ドナーは、美咲の死体を見下ろしながら、満足げに息をついている。


そして——。


右手を、ゆっくりと持ち上げた。


カイも、無意識に右手を持ち上げた。


視界の中のドナーの手と、カイの手が、完璧に同期する。


そして、カイは気づいた。


ドナーの右手の親指の付け根に、回路図のような黒い痣がある。


幾何学的な、まるでシステムに刻印されたような模様——。


カイは、自分の右手を見た。


まったく同じ位置に、まったく同じ痣があった。


「……嘘だ」


カイの声が震える。


「……嘘だろ……!」


視界の中で、ドナーがゆっくりと振り返る。


研究室の窓。そこに映る、ドナーの姿——。


カイ自身の顔だった。


少し痩せている。目の下に隈がある。髪も少し伸びている。


でも、間違いない。


未来のカイだ。


網膜投影に、メッセージが表示された。


『あなたの「殺人の感触」が10,000人にシェアされました』


『収益が確定しました:¥3,850,000』


画面の下部に、無数のコメントが流れていく。


「最高!」 「もっと激しく!」 「次のターゲットは?」 「いいね×999」


そして、画面の隅に——。


『あなたの絶望体験にぴったりの葬儀プラン、今なら20%オフでご案内』


カイは、美咲の死体を見た。


彼女の首に残った痕——五本の指の跡。


無意識に、カイは手を伸ばしていた。


美咲の首筋を、そっとなぞる。


冷たい肌。もう温もりのない身体。


でも、その絞殺痕に触れると——。


右手の指先が、微かに震えた。


まるで、自分の手がつけた痕を確認するように。


まるで、自分が生み出した「作品」を愛でるように。


「……やめろ」


カイは自分の手を引っ込めようとした。


でも、指は美咲の首から離れない。


「やめろ……でも……」


指先に残る温度。生命が途絶える瞬間の、あの感触——。


「……これを……消さないでくれ……」


カイの口から、奇妙な音が漏れた。


笑い声だった。


自分の意志ではない。


脳が、勝手に快楽を生成している。


涙が頬を伝う。


でも、口元は笑っている。


指先は、美咲の首筋を愛おしげになぞり続けている。


「やめろ……やめてくれ……!」


カイは自分の頬を何度も叩いた。


でも、笑みは消えない。


右手に残る「未知の感触」が、脳を支配している。


網膜投影に、最後の通知が表示された。


『次回配信:12月23日 19:00』


『ターゲット選定中——あなたの「欲望」を解析しています』


そして——。


『今の殺人体験を15%増幅するブーストパック、購入しますか?』


カイは床に倒れ込んだ。


美咲の死体の横で、カイは震え続けた。


誰も来ない。誰も助けてくれない。


ただ、右手の感触だけが——。


そして、その感触を「消さないでほしい」と願う、自分自身の歪んだ欲望だけが——。


「もっと」


「もっと」


「もっと」


——カイの脳に、囁き続けていた。


【第1話 了】

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