私が小説家になったら
@kei_aohata
私が小説家になったら
「私が小説家になったら、あなたを苦しめるかもしれない」
カナコは唐突に言った。つい一分前までマンションのゴミ当番がどうので揉めている、と話していたその口で。仲裁に入ろうかどうか迷っている、とぼやいたのと同じトーンで。
僕はひとまず差し出されたコーヒーを一口すすり、その言葉の意味をはかった。
カナコはいつもさっぱりした話し方をする。頭を悩ませているというゴミ当番の話題でさえ、近所付き合いに疎い僕にもわかるように主要人物の意見と動きを的確に抑えながら話した。決してだらだらと会話を長引かせるようなタイプではないし、その傾向は作家を目指すと宣言したその日からより顕著になった。その代わりと言ってはなんだが、簡潔すぎて彼女自身の気持ちがよく汲み取れないことも多々あった。
そのことに特別不満を感じていたわけではなかったけれど、どこか寂しさを覚えていたのは紛れもない事実だった。話し方や言葉選びというのはある種の親しさでもある。以前のような甘やかさを恋しいと思うのも仕方がないことだろう。
それでもカナコが望むなら、彼女のしたいようにさせてやりたかった。思うがままにパソコンに向かうことを許したかった。そもそも、カナコは締め切り前でどんなに余裕がなくても、目を血走らせて何度も原稿に目を通しているときでも、掃除や洗濯、夕食の準備を疎かにしたことはなかった。それなら僕がなにか口出しをするべくもない。彼女の慌ただしい背中を眺めながら淹れたてのコーヒーをすするばかりだ。
そんな折、カナコの書いた小説がついに大きめの賞を受賞した。来週末には授賞式もあるらしい。心から称賛したし、祝いのためにケーキでも買ってこようかと電話したけれど「大したことではないから」とカナコは頑なだった。
僕はカップを置いてたずねた。
「よく分からないけど、仕事で今までみたいに家事ができなくなるからとか、俺より年収が高くなるから?」
カナコはふっと笑って、そのまま天井を仰いだ。
「ううん、そんなことじゃないの」
緩慢な動きでカナコが首を振る。彼女の言葉の意図を測りかねたのは、どうやら僕の理解が及ばなかったせいではないらしい。明らかにクライマックス間近なのに尺の関係で時間稼ぎでもするみたいに、カナコは彼女から発せられるすべての言動の速度を緩めていた。僕はどこか裏切られたような苛立ちから彼女を見る。しかしカナコはそんなことは気にもとめない様子で続けた。
「私のデビュー作があなたを殺す話だから」
微笑む彼女を前に、僕は手足を固くした。
「夫を、ではなく?」
「うん、あなたを」
久しぶりに見た、カナコの嬉しそうな顔。足の小指がかすかに震えた。飲みかけのコーヒーがやけに苦く感じる。それがなにを示すのか、僕の理解だけが追いつかなかった。
私が小説家になったら @kei_aohata
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