『越境者の受難』


「……ねぇ、高橋さん。僕、気づいちゃったんだ。漫画の原作、僕が『ネーム(漫画の絵コンテ)』まで描いて渡せば、高橋さんの負担が減るんじゃない?」


佐藤が自信満々に、一冊のクロッキー帳を差し出した。そこには、佐藤なりに構成した「新作の第1話」が描かれている。


高橋は無言でそれを受け取り、一ページ目をめくった。


三秒後、彼女は静かに帳面を閉じた。


「……小説家さん。これ、棒人間が『すごい剣技!』って叫びながら、ただの『くの字』の線を背景に立ってるだけなんだけど。これを見てどうやって私の作画意欲を沸かせろと?」


「いや、イメージだよ! その『くの字』は、神速の抜刀術による空気の断裂を表現していて……」


「無理。想像力の補完にも限界がある。あと、このコマ割り。一ページに二十枚くらいコマ詰め込んでるけど、これ実際に描いたら、一コマが切手サイズになるよ? 読者は老眼鏡が必要になるね」


高橋は呆れたように息を吐き、今度は自分のスマホを佐藤に突きつけた。


「じゃあ、あんたはこれに文句言わないでよね。私の単行本の『あとがき』。文章が得意な小説家さんから見て、どう?」


佐藤は画面を覗き込み、戦慄した。


「えー、今巻もヤバかったです。まじで修羅場。背景が白くなっちゃって草。でもキャラが尊いのでOKです。次はもっとエモくしたいです。あ、肉食べたい。よろしくお願いします(笑)」


「……高橋さん。これ、語彙力が三歳児で止まってるよ。」


「うるさい! こっちは一ヶ月間、右脳しか使ってないの! 文字を並べるための左脳は、締め切りの途中でどこかに落としてきたわ!」


「……ごめん。僕、大人しく文字だけ書いてるよ。君の描く『剣技』の方が、僕の脳内より百倍カッコいいし」


「私も……あとがき、佐藤先生にリライト(修正)してもらおうかな。なんか、このままだと読者に『この作者、頭大丈夫か?』って心配されそうだし」


二人はお互いの「専門外」の成果物をそっと片付け、元の聖域へと戻った。


カタカタというキーボードの音。

カリカリというペンの音。


「……でもさ」


漫画家が、少しだけ口角を上げて呟いた。


「小説家さんのあの棒人間のネーム、構図だけは面白かったよ。自分じゃ絶対に選ばないアングルだった」


「……本当? 僕も、高橋さんのあの支離滅裂なあとがき、勢いだけは最高だと思ったよ。読者にパワーは伝わるんじゃないかな」


「……褒め合っても何も出ないよ」


「だね。……あ、メロンソーダ、もう一杯頼んでいい?」


夜明けの光が、二人の背中を優しく照らし始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る