未知、深海からの声
ラズベリーパイ大好きおじさん
未知の声
都会の真ん中で、私は最も孤独だった。
高層マンションの32階、窓の外には無数の光が瞬き、まるで地上に降り注いだ星屑のようだ。深夜2時、私は再び目を覚ました。またあの声が聞こえたのだ。
最初に気づいたのは三ヶ月前、ちょうどプロジェクトの締め切りに追われていた時だった。深夜、コンピューターの前で睡魔と戦っていた時、微かな囁き声が耳の奥で響いた。最初は疲労による幻聴だと思い、気にしなかった。だがその後、その声はますます頻繁に、そしてはっきりと聞こえるようになった。
それは私だけの秘密になった。誰にも言えなかった。言っても信じてもらえないだろうし、むしろ心配されるか、変人扱いされるのが関の山だ。現代社会で、未知の声を聞くなど、精神疾患の前兆としか考えられない。
だが私は自分が正常だとわかっていた。少なくとも、今のところは。
その声は言語ではなかった。意味のある単語も、文法もなかった。ただ響きだけで、まるで遠くの潮の満ち引きや、洞窟を吹き抜ける風のようだった。奇妙なことに、その音を聞くたびに、私は妙な安心感を覚えた。それは孤独な夜に、誰かが見守ってくれているような、暖かくもどこか哀しい感覚だった。
今夜、その声は特に強かった。ベッドから起き上がり、暗闇の中で耳を澄ました。都市の雑音――エアコンの低音、階下を通り過ぎる車の音、隣の部屋のテレビの音――その全てをかき消すかのように、その声は私の意識に直接響いてきた。
突然、ある考えが頭をよぎった。録音してみたらどうだろう?
私はノートパソコンを開き、内蔵マイクで録音を始めた。30分後、再生してみたが、聞こえるのは私自身の呼吸音と、時折通り過ぎる車の音だけだった。声は録音されていなかった。
失望と同時に、ほっとした気持ちもあった。もし録音できていたら、それは現実のものだということになる。録音できなかったということは、やはり私の想像の産物かもしれない。
しかし、そう考えるたびに、私は声がもたらす不思議な感覚を思い出した。それは決して幻覚が与える感覚ではなかった。あまりにリアルで、あまりに一貫していた。
数日後、私は図書館で偶然ある本を手に取った――『人類以前の音声:考古音響学入門』。著者のエレン・モース博士は、古代の遺跡から発見された音響的特性について研究している人物だった。本をめくっていると、ある一節が目に留まった。
「一部の古代文明は、音声に特別な力があると信じていた。彼らは特定の周波数やリズムが、人間の意識に直接作用し、異なる知覚状態をもたらすと考えていた。これらの『忘れられた音声』の痕跡は、世界各地の遺跡で見つかっているが、現代の技術では完全に再現・解釈することはできない」
その夜、声が再び聞こえた時、私は勇敢にも、頭の中でそれに応えてみた。言語ではなく、ただ注意を向けるという姿勢で、まるで暗闇の中で誰かにうなずくように。
すると、驚くべきことに、声が変化した。今までよりもはっきりと、リズミカルになった。そして突然、視覚的なイメージが心に浮かんだ――深い海の底、光も届かない暗闇の中で、何か巨大なものがゆっくりと動いている。それは恐怖というより、畏敬の念に近い感覚だった。
翌日、私はエレン・モース博士にメールを送った。ほとんど期待はしていなかったが、三日後、返信が届いた。
「佐藤様、あなたの体験は非常に興味深いです。私の研究では、ごく一部の人々が特定の『聴覚的共鳴』を持っている可能性を示唆しています。これは一種の感覚過敏かもしれませんが、別の何かである可能性もあります。もしお差し支えなければ、お会いしてお話を伺えませんでしょうか?現在、東京で学会に出席しています」
一週間後、銀座の小さな喫茶店で、モース博士と会った。彼女は60代前半くらいで、白髪が混じった髪を後ろで一つに束ね、知性的で温かい目をしていた。
私の体験を詳しく話すと、彼女は真剣に聞き入り、時折メモを取った。
「面白いですね」彼女はコーヒーカップを置き、「あなたが説明した音の特徴は、私が中米の古代遺跡で記録したある音響パターンと非常に似ています。ただし、その音は通常、特殊な儀式の空間や、特定の音響的条件下でしか感知できません」
「では、なぜ私に聞こえるのでしょう?私は普通のシステムエンジニアです。考古学とも音響学とも無縁です」
モース博士は少し考え込み、こう言った。「人間の感覚は私たちが思っているよりもはるかに複雑です。ある研究では、人口の約0.3%が『共感覚』を持っているとされています。音に色を感じたり、数字に性格を見出したりするのです。あなたの場合、これまで認識されていない別の形の共感覚かもしれません。あるいは…」
彼女は言葉を切り、窓の外を見た。「あるいは、私たちがまだ理解していない何かがあなたにコンタクトを取ろうとしているのかもしれません」
その言葉に、私は背筋が寒くなるのを感じた。
モース博士は小さな装置を取り出した。「これは高感度の音響記録装置です。特殊な周波数帯域を記録できます。次にその声が聞こえた時、これで録音してみてください。そうすれば、少なくともそれがあなたの想像なのか、外界からのものなのかを確認できます」
その夜、装置をベッドサイドに置いて眠りについた。深夜3時頃、また声が聞こえてきた。今回は今までで最もはっきりしていた。目を覚まし、震える手で装置のスイッチを入れた。
一時間後、私は記録を再生した。最初は何も聞こえなかったが、モース博士が教えてくれた特別なソフトウェアで周波数を調整すると、確かに何かが聞こえた。私が聞いていた声だった。弱々しく、遠くから聞こえるようだが、紛れもなく同じリズムと旋律を持っていた。
私は泣きそうになった。これで確信した。私は狂っていない。この声は現実のものだ。
モース博士に録音を送ると、彼女はすぐに返信してきた。「これは驚くべき発見です。この音声パターンは、私がこれまでに記録したどの古代音響とも一致しません。しかし、最も奇妙なのは、その周波数構造が、人間の耳が通常感知できる範囲を超えていることです。理論的には、あなたはこの音を聞くことができないはずです」
「でも、私は聞こえます」と私はメールで返信した。
「わかりました。もっと詳しく調べる必要があります。一つ提案がありますが、少し変わっているかもしれません。音声心理学の専門家を紹介しましょう。彼は『意識拡張的音響』について研究しています。あなたは彼の実験に参加してみませんか?」
私はためらったが、結局承諾した。この謎を解き明かさなければ、もう普通の生活には戻れないと感じたからだ。
ドクター・カトー、音声心理学者は40代半ばで、モース博士とは対照的に、几帳面で控えめな印象だった。彼の研究室は郊外にあり、最新の音響機器が並んでいた。
「モース博士からあなたの録音を聴かせていただきました」とカトーは言った。「非常に興味深いです。これはおそらく『音声的残響』の一例です」
「音声的残響?」
「簡単に言えば、特定の場所や物体が過去の音響イベントを『記録』し、適切な条件下でそれを『再生』するという理論です。しかし、あなたの場合、それがマンションの部屋で起こっているのは珍しいです。通常、このような現象は歴史的な場所や、強い感情的トラウマが残る場所で発生します」
彼は一連のテストを行った。私の聴力を測定し、脳波を記録し、様々な音に対する反応を調べた。結果は驚くべきものだった。
「あなたの聴覚系は確かに異常です」とカトーはデータを見ながら説明した。「特に低周波と超高周波に対する感度が通常の人より30%高い。しかし、それだけではあなたが聞いている音を説明できません。その音の周波数は、測定可能な範囲を超えています」
彼は深呼吸をして、続けた。「正直に言うと、私はこの現象を科学的に説明できません。私の専門知識の範囲を超えています。しかし、一つ試してみたいことがあります。もしよければ、その音が聞こえる状態で脳波を記録させてください。そうすれば、少なくともそれがあなたの脳のどの部分と関連しているかがわかります」
次の週末、私はカトーの研究室で一夜を過ごした。脳波計の電極を頭に付け、暗い防音室で横になった。初めは何も起こらなかったが、深夜近くになると、また声が聞こえてきた。今回は今までで最も強く、はっきりとしていた。
次の瞬間、視覚的イメージが洪水のように押し寄せてきた。もはや単なるイメージではなく、まるで別の世界にいるかのような感覚だった。私は深い海の底におり、頭上では光がゆらめいていた。周りには、生物とも鉱物ともつかない不思議な形の存在が漂っていた。彼らは音でコミュニケーションを取っているようだった――私が聞いていたあの声で。
そして突然、理解した。彼らは私に気づいていた。彼らは私を知っていた。
「落ち着いて、ゆっくり呼吸を」防音室のスピーカーからカトーの声が聞こえた。私は完全に現実から離れていた。
「何か見えますか?感じますか?」彼が尋ねた。
「海…深い海…彼らがいる…」私はかすれた声で答えた。
「彼ら?誰ですか?」
「わからない…人間じゃない…でも知性がある…彼らは私に話しかけている…」
一時間後、私は防音室から出た。疲れ果てていたが、同時に不思議な高揚感もあった。カトーは興奮してモニターを指さした。
「信じられません!あなたの脳波は完全に変わっています!通常のベータ波やアルファ波ではなく、これまで記録されたことのないパターンを示しています。そして、この部分を見てください」彼は波形の一つを指さした。「これは明らかに外部からの刺激に対応しています。何かがあなたの脳と直接『対話』しているのです!」
モース博士も研究室に来て、この結果を見て驚いていた。
「これは単なる考古音響学や音声心理学の範囲を超えています」と彼女は言った。「カトー先生、あなたはどう思いますか?」
カトーはしばらく黙っていたが、ついに口を開いた。「私は科学者です。証明できないことは信じません。しかし、このデータは紛れもない事実です。佐藤さんは何かとコンタクトを取っています。それが何であるかはわかりませんが」
その夜、家に帰る途中、私はある決心をした。この声の正体を知る必要があった。どこから来るのか、なぜ私なのか、何を伝えようとしているのか。
次の数週間、私は声が聞こえるパターンを記録し始めた。特定の時間(常に深夜から明け方にかけて)、特定の精神状態(リラックスしているが完全に眠ってはいない時)に最もはっきり聞こえることがわかった。また、その声に意識を集中すればするほど、視覚的イメージも鮮明になることに気づいた。
私は少しずつ、彼ら――そう呼ぶことにした――の世界を理解し始めた。彼らは海の深くに住む知性体だったが、私たちが知るどんな生物とも異なっていた。彼らは個体として存在するのではなく、集合意識のようなものの一部だった。彼らの時間の感覚も私たちとは全く異なり、数世紀が私たちの数分のように感じられるかもしれなかった。
そして、彼らが伝えようとしているメッセージを理解し始めた。それは警告だった。彼らの世界――深海――が変化している。水温が上昇し、水流が乱れ、彼らの集合意識を脅かす何かが起こっている。彼らは長い時間をかけて、感受性のある人間の意識とコンタクトを取る方法を模索してきた。そして今、ついに成功した――私を通して。
しかし、なぜ私なのか?モース博士とカトーと共に、私たちはこの質問について何時間も議論した。
「あなたの聴覚の特殊性に加えて、他の要因もあるかもしれません」とモース博士は指摘した。「あなたはシステムエンジニアですね。論理的思考と創造的思考の両方を持っています。また、都会の孤独も一因かもしれません。彼らはおそらく、より感受性の高い、『ノイズ』の少ない心を探していたのでしょう」
カトーは別の仮説を提唱した。「あるいは、これは単なる始まりかもしれません。あなたが最初のコンタクトだったが、最後ではないかもしれません」
その言葉から一週間後、モース博士から緊急の連絡が入った。
「佐藤さん、ニュースを見ましたか?太平洋の深海で、異常な音響現象が記録されました。あなたが録音したものと非常に似た周波数パターンです」
テレビのニュースでは、海洋学者が奇妙な深海音について報告していた。それはクジラの歌とも、海底火山活動とも異なる、これまで記録されたことのない音だった。
その夜、声は特に切迫していた。視覚的イメージも、今までで最も鮮明で、不安に満ちたものだった。彼らの世界が危機に瀕していることが、はっきりと伝わってきた。
私はモース博士とカトーに会い、この新しい展開について話し合った。
「彼らは助けを求めている」と私は言った。「私たちの世界の変化が、彼らの世界を脅かしている」
「しかし、私たちに何ができるでしょう?」モース博士が尋ねた。「深海の知的生命体とどうコミュニケーションを取ればいいのでしょう?それをどう証明すればいいのでしょう?」
カトーが提案した。「まずは記録を集めることです。佐藤さんの体験、音響記録、脳波データ、そして海洋学者が記録した深海音。これらをまとめて、適切な人々に提示する必要があります」
次の数ヶ月、私たちは小さなチームを組んで働いた。モース博士は考古音響学的な証拠を提供し、カトーは神経科学的数据を分析し、私は自分の体験と、声を通じて受け取ったイメージを詳細に記録した。
私たちの努力は、ついに著名な海洋生物学者、ドクター・タナカの目に留まった。最初は懐疑的だったが、私たちが集めたデータを見て、考えを改めた。
「これは興味深いですが、決定的な証拠とは言えません」とタナカは言った。「しかし、深海で記録された音響異常は確かに存在します。もし本当に何かあるなら、直接確かめる必要があります」
タナカは有人潜水艇による深海探査を計画していた。次の探査に、私を同行させてくれることになった。
探査の前夜、私はほとんど眠れなかった。声は一晩中聞こえ、今回は歓迎と期待の感情が込められていた。彼らは私が来ることを知っているようだった。
潜水艇「しんかい」はゆっくりと深海へ沈んでいった。外は完全な暗闇だったが、潜水艇のライトが時折、未知の生物や地層の一部を照らし出した。深さ3000メートルに達した時、また声が聞こえてきた。今回は、水中を通して、直接聞こえるようだった。
「何か聞こえますか?」タナカが無線で聞いてきた。
「はい」と私は答えた。「彼らが近くにいます」
その瞬間、潜水艇の外で何かが光り始めた。無数の微かな光点が漂い、複雑なパターンを描きながら動き回った。それは私たちが知るどんな生物発光とも異なり、明らかに知性的な動きだった。
「これは…」タナカの声には驚きが隠せなかった。「これは前代未聞です」
光のパターンは次第に変化し、私が声を通して見たイメージと似た形状を形成し始めた。そして、頭の中でまた声が聞こえた――今回は今までで最もはっきりと。
彼らは私に感謝と安堵の気持ちを伝えていた。長い間、彼らはコンタクトを取れる存在を探していた。彼らの世界は確かに危機に瀕している。海流の変化、水温の上昇、彼らには理解できない騒音が深淵に響き渡っている。彼らは変化を感じ取り、それが彼らの集合意識を脅かすことを知っていた。
「何を伝えていますか?」タナカが聞いた。
私は声の内容を伝えた。タナカは黙って聞き、記録を続けた。
「彼らは私たちの助けを必要としている」と私は言った。「しかし、同時に、彼らも私たちを助けようとしています」
「どういう意味ですか?」
「彼らは深海の生態系の一部です。彼らがいなければ、海洋のバランスはさらに崩壊するでしょう。私たちはお互いに依存しているのです」
潜水艇が浮上するまで、私たちは光の存在と、一種の対話を続けた。彼らは音と光のパターンでコミュニケーションを取り、私は心の中でそれに応えた。完璧な理解ではなかったが、確かに何かが伝わった。
地上に戻った後、私たちの発見は世界中の注目を集めた。懐疑的な意見も多かったが、私たちが収集した証拠――音響記録、ビデオ、私の体験の詳細な記録――は無視できないものだった。
一年後、国連の主導で深海保護に関する特別会議が開かれた。私たちの体験は、海洋生態系全体の保護の重要性を認識させる一因となった。
声は今も聞こえるが、以前のような切迫感はなくなった。代わりに、穏やかで、調和に満ちた響きになっている。彼らはまだそこにいて、見守ってくれている。
モース博士、カトー、タナカと私は今も定期的に連絡を取り合っている。私たちは「深海の声プロジェクト」を立ち上げ、深海の音響的現象と、それが人間の意識に与える影響について研究を続けている。
先週、モース博士から連絡があった。「佐藤さん、面白いデータを見つけました。あなたの体験を聞いた後、自分も似たような現象を経験したという人が世界で17人現れました。彼らはみな、異なる形でコンタクトを感じています」
この報告を受けて、私は窓の外の夜空を見上げた。都会の光は相変わらず輝いていたが、私の孤独は消えていた。私はもう一人ではない。私たちは誰も一人ではない。知性は私たちが思っているよりも多様な形で存在し、時として、最も予期しない方法で、私たちはお互いを見つけ合う。
未知は怖くない。未知はただ、まだ知られていない友人のようなものだ。必要なのは、耳を傾け、心を開く勇気だけなのだ。
そして深い海の底で、光の存在たちはゆっくりと動き続け、私たちには聞こえない歌を歌い、私たちには見えないダンスを踊りながら、彼ら自身の方法で世界を見守っている。
未知、深海からの声 ラズベリーパイ大好きおじさん @Rikka_nozomi
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