夜に名を与える

@peridot_i

第1話 夜を拾う

ゴミ一つ落ちていない、白く洗練された景観。


石畳は常に磨かれ、建物は寸分の狂いもなく並ぶ。


制度は整い、法は行き届き、犯罪率の低さなど良い所を挙げればきりがない。


人々はこの国を、理想と呼ぶ。


白光の国――ルミナール王国。


この国には、いまなお貴族制度が残されている。


その序列は明確で、


公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。


誰もが、それに疑問を抱かない。


秩序とは、そういうものだと教えられてきたからだ。


ヴェスティア家は、その頂点に連なる公爵家の一つだった。


長く続いた血統の末、ただ一人の娘がいた。


名を、セラフィナ・ヴェスティアという。


セラフィナは、両親や周囲の人々から、ありったけの愛を注がれて育った。


衣食に不足はなく、欲しいものは言葉にする前に与えられ、歩む道には、常に誰かが先回りして整えられていた。


幼い彼女にも、それは理解できた。


――自分は、恵まれている。


――選ばれた側の人間なのだ、と。


だからこそ、彼女は“下”と認識した人間に関心を持たなかった。


関わる理由も、優しくする必要も、見出せなかった。


それは悪意ではない。


彼女にとっては、当然の判断だった。


その思想は、次第に行動となって現れていく。


見下す視線。


呼び捨ての声。


守られる側としての、無自覚な残酷さ。


それでも、誰も彼女を咎めなかった。


この国では、それが“正しさ”だったからだ。


そんな日々の中で、セラフィナは繰り返し、両親から同じ言葉を聞かされていた。




「セラフィナ、


貴女は貴族として――


なんの曇りもなく、誇り高く生きなさい」


その言葉は、まるで祈りのように、静かに告げられた。


不思議なことに、その教えを口にする両親の表情は、いつも少しだけ、悲しそうだった。


理由は、わからなかった。


わかろうともしなかった。


セラフィナはまだ、この国の誇りが、何を犠牲にして成り立っているのかを知らなかったからだ。


そんな彼女の生活は、ある日突然崩れ去った。


父母が、密かに軍に資金を横流しし、王国を揺るがす反乱を企てていたことが発覚する。


王国直属の捜査機関、白鷹局による急襲。


屋敷は蹂躙され、豪奢な室内も書類も、


無残にかき乱された。


両親はその場で逮捕され、幼い頃から守られてきた安全と秩序は、一瞬にして崩れた。


18歳――まだ成人に達しないセラフィナは、王国法により直接の逮捕を免れるが、“親を失った者や、後見を要する未成年者を保護する”後見権管理院に預けられることが決まった。


その瞬間、彼女の胸に走ったのは、怒りでも悲しみでもなく――虚しさだった。


恵まれ、選ばれ、守られてきた自分が、今や、制度の歯車のひとつに過ぎない。


この日から、白く輝くはずだったルミナール王国は灰色に染まった。




ルミナール王国の夜は、昼に劣らず白く、煌びやかに光を放っていた。


街路には出店が立ち並び、昼間とは違った熱気が漂う。


夜の帳が下りても、人々のざわめきは途切れず、街は眠らない。


だが、街の光の下に広がる地下世界では、別の“熱気”が渦巻いていた。


ここで行われているのは――後見人探しと称される、人身競売。


夜な夜な、貴族たちは己の欲望のままに人を売り買いする。


善も悪も、秩序も倫理も、地下の空気には届かない。


そんな場所に、アウローラ家の一人息子――伯爵家の出自にして古参貴族から忌み嫌われる白髪で端正の顔をした青年、アトラス・アウローラの姿があった。


彼は下品な熱狂を、冷めた瞳で横目に見ながら、低く呟く。




「クズどもが……」




今夜は、いつも以上に活気づいていた。


その理由はただ一つ――今日の競売の“目玉”が、元貴族だからである。


競売人が声高に宣言し、鐘が一つ鳴る。


地下室全体に、ざわめきが跳ね返る。


――その瞬間、アトラスはわずかに眉をひそめた。




競売人が声高に告げる。




「さて――今夜も競売を始めさせていただきます。」




裏方の手で、一人の少女が静かに運ばれてくる。


彼女の瞳はまだ何も知らず、会場の熱狂とは無縁のままだった。




「この娘から、紹介させていただきます――」




競売人は言葉を終えると、冷徹な目で場内を見渡す。




「開始価格は、100万ルミナに設定させていただきます。」




歓声は上がらず、貴族たちは静かに手を挙げていく。




「100」


「200」


「400」




競売人は腕組みをし、確認の目を巡らせる。




「400万ルミナ以上の方はいらっしゃいますか?」




会場は沈黙した。


冷たい空気が張り詰め、少女の小さな肩がわずかに震える。




「いないようですので、この娘を400万ルミナでハウス子爵に決定いたします。」


「ハウス子爵に、この娘を完全に移譲いたします――」


権利書が子爵の元に移る。


鐘の音のように言葉が響き、会場のざわめきは次の対象へと向かう。


少女の運命は、静かに、そして確実に手の中で決まったのだった。


次々と競売が進み、会場の熱気は徐々に消費されていった。


だがその空気を、ひとつの瞬間が再び震わせる――


会場のボルテージが、一段階上がったのだ。


競売人が高らかに告げる。




「皆様、大変長らくお待たせいたしました。


目玉商品の紹介を、始めさせていただきます――」




裏方の手で運ばれてきた少女は、まるで雪のように白い肌を光らせ、黄金の髪は夜の光を受けて煌めき、海のように深い瞳が静かに周囲を見渡していた。


その姿は、絵本の中から抜け出してきたお姫様のようであり、同時に、この場所の猟奇的な熱狂と不釣り合いなまでに美しかった。


競売人は声を低め、しかし会場全体に響くように言う。




「元公爵家の娘、


この美貌にして由緒ある血統でかつ魔法の才覚があり――


セラフィナ・ヴェスティアの競売を、開始させていただきます――」




会場は一瞬、息を飲んだ。


その美しさが、静かに、そして確実に、すべての視線を奪っていく。




セラフィナは、自身の状況を通して初めて、この国の夜の顔を知った。


父母が捕えられ、彼女を保護したはずの後見権管理院――その正体は、保護機関ではなく、人身を売買する冷酷なブローカーだった。


地下への階段を降りながら、裏方の男が低く命じる。




「早く歩け」




足を引きずることもできず、セラフィナはただ言われるままに歩いた。


耳に届くのは、幼い声の泣き声と、下品に響く笑い声。


人々の目線が、まるで食べ物を見るかのように、彼女たちを這い回る。




そして、ついに彼女の番がやってきた。


競売人の冷たい声が、地下室全体に響く。




「元公爵家の娘、


この美貌にして由緒ある血統でかつ魔法の才覚あり――


セラフィナ・ヴェスティアの競売を、開始させていただきます――」




会場を見渡すと、見覚えのある顔ばかりだった。


かつてパーティで媚びへつらっていた者たち――今は役職も権力も違う。


しかし、唯一変わらないのは、下品に彼女の身体を舐めるような視線だった。




セラフィナの胸は、怒りでも悲しみでもなく――絶望で満たされた。


彼女に残されたのは、神を呪うこと。しかし最後まで誇り高くいようとした。それだけが最後の反抗だった。




競売人が声を張り上げる。




「開始金額は、5000万ルミナからとさせていただきます!」




会場の手が、順に挙がる。




「6000」


「7800」


「1億」




競売人が場内を見渡す。




「1億ルミナ以上の方はいらっしゃいますか?」


沈黙が広がる。


「では、このまま1億ルミナで決定――」




その時、低く響く声が会場を貫いた。




「8億で買おう。」




ざわめきが止む。


誰もが息を飲み、視線を声の主へ向ける。




「8、8億ルミナ以上の方はいらっしゃいますか?」




会場は静まり返った。




「8億ルミナで、アトラス・アウローラ伯爵がセラフィナ・ヴェスティアの購入を決定させていただきます。」


「アトラス・アウローラ伯爵に、セラフィナ・ヴェスティアを完全に移譲いたします――」




権利書が光を帯びてアトラスの元に移る。


周囲の貴族たちは羨望の視線を向ける。


だが、セラフィナの視線は冷たく、相手だけを見据えていた。


閉じていた瞳を開き、彼女は叫ぶ。




「私を買ったからって心まで買わせたり、奪わせたりしない!」




その言葉を吐き終え、目の前の相手を見上げると――


そこには、幼い頃、彼女が嫌がらせをして、下に見ていた存在が立っていた。


――アトラス・アウローラ。


その瞬間、絶望と、嫌悪と、そして運命の皮肉が、セラフィナの胸を打ち貫いた。この時彼女の物語は奴隷として終わるはずだった。




数時間後、セラフィナを連れたアトラスは、アウローラ家本邸に到着した。


広大な庭と壮麗な外観――一見すべてが理想のように整っている屋敷だった。


だが、中に足を踏み入れると、物は必要最低限にしか置かれておらず、どこか空洞のような、冷たい印象が残った。




アトラスは何も言わずに、セラフィナを書斎へと導く。


そして、怖いほど感情のない声で告げた。




「セラフィナ・ヴェスティア、お前に条件を出す。」




彼の声に続く言葉は、静かだが明確な意思を帯びていた。




「一つ――俺にに謝罪しないこと」


「二つ――自身を被害者だと思わないこと」


「三つ――自分で考え、動くこと」




そして、沈黙を破り、アトラスはゆっくりと見据えた。




「四つ目――」


その眼が、彼女を捉えた。




「俺の共犯者になれ」




セラフィナは言葉の意味がすぐには理解できなかった。




「そして共に、この国の夜を壊す――」




その言葉には、これまでの無機質な声とは違う、静かな熱がこもっていた。




「共犯者が欲しかったから、私を買ったの?」


「違う――」




即答だった。




「セラフィナ・ヴェスティア。君を買った理由は――君が夜側だったからだ」




夜とは、踏む側であり、選ぶ側である者。


その力を知る者だけが、夜を壊す術を知る。




「建物の解体業者は、解体する前に構造を調べるそうだ」


「…?」


「つまり、夜だった者こそ、夜の壊し方を知っている」




部屋には長い沈黙が流れた。


セラフィナは問いかける。




「あなたは、私を共犯者にして復讐したいの?」


「復讐? 復讐は夜を深めるだけだ」


「俺は夜を拒む。俺は夜を遠ざける。俺は夜明けを求める――」




アトラスの言葉は、静かだが確実に重かった。




「だから、セラフィナ・ヴェスティア――君は夜を壊せ」




その言葉だけを聞けば、罪を押し付けられるように聞こえ、セラフィナは怒りを露わにする。




「アトラス・アウローラ! あなたは私に共犯者といいながら、ただ私に罪を押し付けたいだけじゃない!」




アトラスは迷わず、断言する。




「夜を壊す上で生じる罪も、記録も、報復も、死も、憎悪も――全て、私が背負う」




その言葉に、セラフィナの瞳がはっきりと見開かれる。




「記録に残る名も、歴史に残る汚名も、最終的に断頭台に立つ名があるのなら――」




少し間を置き、静かに言い放つ。




「それは、アトラス・アウローラだ」


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