イノシシ・ランデブー
鳥居 鳴
第1話
イノシシ・ランデブー
その人も、入り口で立ち止まっていた。
扉の向こうでは音楽が始まっていた。
私はそれに間に合わせようともせず、ロビーの受付に向かってゆっくり歩いた。さっき扉の前で躊躇していた男性は、意を決して会場に入ったのか、もう姿を消していた。私はドレスがおかしくないか、髪が乱れてないかと気にしながら、受付で名を告げる。係の女性の視線が私の口元に向いている気がして、咄嗟に手で覆う。口紅が似合ってないのだろうか。
そもそもダンスパーティが似合わないのだ。
ロビーにはもう、私と、受付の女性と、警備員しか残っていなかった。あと、今入って来た制服のお巡りさんと。
私は極力ゆっくり、カーペットにピンヒールを突き刺す感触を味わっていたが、気づくと扉の前に立っていた。
扉を開けると、一曲目が終わったところだった。間を置かず、次の曲が始まった。
照明が眩し過ぎて圧倒される。色とりどりのドレスがくるくる回って、目眩がする。
私は飲み物を貰おうと会場を見回した。不意に目が合った男性が、これ?と言うように自分のグラスを掲げた。私が頷くと、彼は背中を向けて歩き出した。きっと、私の分の飲み物を取りに行ってくれたのだ。その後ろ姿で、私は気付いた。
『さっき、入り口でぐずぐずしてた人だわ』
でも、その人が戻ってくるのを待っていられなかった。押し寄せる色の圧力に息ができなくなったのだ。
私はロビーへよろめき出た。
「どうかされましたか」
突然に太い声が降って来て、背中が収縮した。振り向くと、お巡りさんの胸元が目の前に迫っていて思わず後退りした。
「何かありましたか。お困りごとですか」
心配しているのか、怪しんでいるのかわからない口調だ。お巡りさんというのはみんなそう。
「いいえ。もう大丈夫です」
私は避けるように会場の扉を引き開けた。
『中も外も、逃げ場がないわ』
中に戻ってみると、先ほどよりいくらかは光彩のトーンが落ち着いている気がした。丁度曲のあとの短い平穏で、みんなのドレスの色もチカチカしなかった。そのとき、
「あ、やっと見つけた」
と声がして、駆け寄ってくる人があった。グラスを両手に持った、さっきの『入り口ぐずぐず』君だ。私とその人との距離が縮まるかというとき、次の曲が始まった。彼がグラスを差し出そうとしたすれすれを、別の男が荒っぽく掠めて通った。
「わっ」
グラスの中のゴールドの液体が揺れて少し溢れた。彼は深い息を吐いて、苦笑いした。そして改めて私にグラスを差し出すと、
「まったく……イノシシみたいな奴だな」
と眉をハの字にして見せた。
私は少し、肩の力が抜けた。
グラスを持って来てくれた気遣いがありがたかったからじゃない。共にイノシシと遭遇して固まってしまったことが可笑しかったのだ。
「どうもありがとう」
私は作り物じゃない笑顔でグラスを受け取った。つられて彼も、頬を緩ませた。
「踊らないの?」
私はいつも誘われるより先に牽制する。「疲れてる」とか、「足が痛い」とか。でも今回はうっかり、
「あまり得意じゃないの」
と、隙を見せてしまった。
「もし、よかったら……」
私ははぐらかして話題を遡った。
「私、イノシシに出会ったことがあるわ」
彼は肩すかしを食らって一瞬口を結んだけど、すぐに柔らかく微笑んで
「へえ……野生のイノシシ?」
と乗ってくれた。
「そう。山道で猫と戯れていたら、藪の中から大きなイノシシが現れたの」
「君と猫の後頭部が並んで、イノシシを前に固まってる場面が目に浮かぶよ」
「猫と私の呼吸がぴったり重なったのよ」
「それは、怖かっただろうね……」
「確かに恐怖体験だった。だけど、鮮烈に残っているのは、猫との呼吸の同期。……なんの話をしてるのかしら」
「よくわかるよ。同じ条件で世界に晒されてる……みたいな感じ、かな」
「そう!それなのよ!」
私は頬を火照らせて上擦った声を上げてしまった。すぐさま表情を正す。
彼は目を細めて笑った。それから楽しい悪戯を思いついたみたいに斜め上を見て、言った。
「じゃあ、君と仲良くなるには、同じ物を怖がればいいんだね?」
『注意・止まれ』の信号が灯る。
『せっかく話題を逸らしたのにまた戻っちゃった』
さて、どうやってかわそうかと思案していると、目の端に嫌な物が映った。
会場に制服のお巡りさんが入って来たのだ。手近な人になにか尋ねている。きっとあの口調で。
返事を待っていた彼が、私の無言の視線の先を辿った。そして、ああ、と納得したように頷き、私に向き直った。目で『あれ』を指し、
「嫌い?」
と聞いた。
「うん」
「一緒だ!」
彼があんまりにも無邪気に喜ぶのものだから、私ははぐらかし損ねてしまった。視界の隅、お巡りさんの後ろにスーツ姿の男が二人追加されている。あれは刑事だろうか。
「あなたも嫌いなの?」
「うん。怖い」
「嘘ばっかり」
「ほんとだよ。あの手が、伸びてくるのは恐ろしい」
「あら……」
私は子どもの頃の記憶が蘇って眉を寄せた。
「昔、迷子になったとき、凄く怖かったわ」
あの手が、天罰のように頭上から伸びてくる──安心なのか、恐怖なのかわからない。自分が酷い犯罪者になった気がしたものだ。
「一緒だね」
お巡りさんと二人の刑事は手当たり次第、踊りの中にまで入っていって詰問している。会場の華やかな色彩の中に墨を落としたような異物が、筋を描きながら這い回った。踊りに興じていた人たちも、次第に白け始めていた。
「なんなのかしら。なにを探してるのかしら」
「僕だよ」
そのとき、刑事の一人が彼に飛びかかり、塊になって視野の底に沈んだ。床に押さえつけられた彼の上に、お巡りさんも乗っかった。
声が出ない。
『お願い!なにもしてないって言って!』
彼も声が出ないのだ。
私は固まっていた。
『そんな人たち、振り落として!』
彼も動けないのだ。
もう一人の刑事が手錠を出した。馬乗りになっていた二人が彼から降りた。
彼の背中が波打っている。
私の肩の上下するのと、同じリズムで。
『一緒ね』
私は、森の中の小さな生き物になった気がした。そしてようやく起こった彼への想いを何と呼ぶのかもわかったけど、終わりはあまりにも早く、すぐそこに迫っていた。
了
イノシシ・ランデブー 鳥居 鳴 @meisukefh
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