永遠のポラリス

文鳥

永遠のポラリス

「別れる男と一度は北極星を眺めなさい」

 テラスの手すりにもたれかかって夜空を眺めていた彼女が気だるげに、それでいて諭すように口を開いた。熟れた唇からこぼれた言葉は星屑みたいな響きをしていて、うっかり取り零しそうになる。

「どういうこと?」

 硝子玉を転がしたみたいな声の主を見やる。毛先から夜空に溶け込んでしまいそうな艶やかに波打つ黒髪と反対に浮かび上がるような白く滑らかな肌。切れ長な目を縁取る睫毛は長く、瞼にはゴールドのラメが濡れたように光る。しなやかな肢体を包む濃紺のワンピースは深いスリットが入っているものの決して下品ではなく、寧ろ思わず目を奪われる優美さがある。煙草をくゆらせる細い指先の爪とぽってりとした唇を彩るのは深い赤。同性の目から見ても、百点満点、純度百パーセントのいい女だ。偶然このバーで居合わせなければ話すことなど一生なかっただろう、あまりにも自分とはかけ離れた生き物。このくらい綺麗だったらあいつも——なんて、未練がましい自分に気がついてじわりと視界が滲む。

「日本にいれば、北極星はどの季節でも必ず見えるわ」

 白魚の指が弄ぶ煙草の火がやけに赤々と夜空に映えて揺らめいた。

「貴女を思い出さないならば、夜空を見上げる余裕もないという事よ」

 爪痕は消えないくらいでちょうどいいの。泣き寝入りなんてしているうちはただ可愛いだけだわ。星空と営みの灯を背にそう言って悪戯っぽく目を細めた彼女にはあどけなささえ感じるアンバランスな色香があった。私は思わず唇を尖らせて、手すりに突っ伏した。

「でもそしたらこっちも思い出しちゃうじゃん……」

「あら、それなら前だけ見ていればいいじゃない。それに、知っていればいいだけよ。今は月に見えていても、貴女を選ばなかった時点で六等星に過ぎないことと、星は数えきれないほどあるってことをね」

 ふーっと細く吐いた煙を横から浴びせられて思わず顔を上げる。

「けほ……なにするの」

「野暮ね、それを聞くなんて」

 爽やかなミントの匂いに取り巻かれる私を見て、彼女は楽しそうに笑った。不思議だ。あいつの煙草の煙は臭いとしか思わなかったのに。

「ねえ北極星ってどれ?」

 にわかに思い立って彼女の袖を軽く引く。

「あの星よ」

 彼女は少し苦笑しながら、明るく光る星をゆるりと指さした。

「ねえ、私、貴女を思い出すよ」

「なあに、急に」

 淑やかに小首を傾げる彼女の深く澄んだ黒い眼を見つめて私は笑った。

「北極星を見てあいつが私を思い出してる間に、私は貴女と北極星を見たことを思い出すの、これって結構いいんじゃない?」

 彼女は少し目を丸くした。

「……馬鹿ねえ」

 まあ悪くないんじゃないかしら。そう言って微笑んだ彼女に今度はこちらが目を丸くする番だった。再び彼女が私に向かって煙を吹きかける。彼女の纏うサンダルウッドの香りと煙のミントが混ざってふわりと漂う。なぜだか顔が熱いうえにクラクラして、それなりにお酒には強いはずなのに、今更酔いが回ったのだろうかと首を傾げた。人が一番先に忘れるのは声だという。最期に残るのは聴覚だとも知った時には何という皮肉だろうかと思ったものだ。けれど、例え北極星を教えてくれた声を忘れても、満足そうに赤い唇の端を持ち上げた笑顔は忘れられないと思った。きっと、いや、絶対。北極星を見るたびにこの人を思い出す。思わず頬が緩んだ。

 ああなんと甘美な呪い!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

永遠のポラリス 文鳥 @ayatori5101

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画