グリメージ・ボヤージュ

海月爛

第1話

 四月七日午前九時、その飛行機は空港ではない場所に着陸した。通常の旅客機ではなくプライベートジェット、もしくはセスナと呼んだ方が外見に近しいその飛行機は不時着ではなく最初の目論見通りにその場所に着陸を成功させた。

「クノアさん、着陸に成功しました」

 汗一つ見せずに操縦士は内線にそんな音声を乗せた。まだ若い男の声だったが、不思議とよく通る芯を持っていた。

「ああ、こちらでも確認したよ。……起きて篠木くん、もう目的地に着いたよ」

 不思議な言い回しでその内線に応答したのは落ち着いた女性の声だった。持っている余裕が声にまで現れていて、そしてその余裕は並大抵のことでは決して崩せないだろうと聞くものに確信させる強さも同時に持っていた。

「――――ああ、おはようございますクノアさん。すぐ行動開始ですか?」

 篠木と呼ばれて起きたのは青年。座席に座ったままの姿勢で、起きているかのように眠りに落ちていたその青年は一度の呼びかけに応じて目を覚まし、その黒い瞳をゆっくりと開いた。

「うん、すぐ行こう。猫がどこまで役に立つのかわからないから、くれぐれも慎重に」

 シートベルトを外して立ち、長い間のフライトで強張っていた体を伸びをしてほぐす。客席上に置いていた多くの荷物を一つ一つ確かめるように回収し、最後に篠木の横に布をかぶせて置かれていたものと向き合う。

「さ、早くこの布をとってくれ」

「わかりました」

 布の中から聞こえるのはクノアの声だった。しかし布は鳥籠のようなシルエットを外に表していて、その中には人間が居ないことは火を見るよりも明らかだった。それに構わず篠木は布に手をかけ、丁寧にそれを鳥籠から離していく。アイドリング状態のエンジンは暖房をつけたままになっているが貫通する冷気がドアから漏れ出している。布が取り払われ、そんな冷たさを持つ外気にその姿をさらしたのは……黒猫だった。

「うーん、随分と寒いね。防寒は大丈夫だろうけど、あまり長居はしたくないなあ」

 またしてもクノアの声が機内に響く。運転席には内線を切っているため何も音はせず、例の操縦士は忍び寄る寒さに首をすくめながら、指がかじかまないよう気を付けていた。

「……やっぱりクノアさんを俺が運ぶんですか?」

 篠木は迷いなく黒猫のことをクノアと呼んだ。猫は口を開かずにクノアの返事がする。

「もちろん。出来る限り猫に負担はかけたくないからね」

 鳥籠の中にどっかりと黒猫は座っている。それは見るからに重たそうで、篠木の口から弱音じみた言葉が出るのも不思議ではなかった。

「……わかりました」

 ため息を押し殺した間が開いたが、結果として承諾の意味を持つ発言が篠木からは出た。

 クノアはそれを意識的にスルーし、篠木がその籠を持ち上げるのを無言で促した。嫌がりながらも篠木はコートを着込んでからバイク用の手袋をはめ、その上で籠を持ち上げる。荷物の類は背負った鞄の中に詰め込まれているようだが、積載可能容量ぎりぎりまで詰め込みましたと言わんばかりに膨らんでいて、篠木の体に確実に大きい負担をかけていた。

「花俣さん、お待たせしました。扉を開いてください」

 黒猫の入った籠を持っていない右手で内線を使って運転席に連絡し、スライド式のドアの目の前でそれが開くのを待つ。これが完全に開いてから一度外に出てしまえば、もうすべてが終わるまで後戻りはできない。忘れ物の心配はないし、計画上は本当に困った場合には連絡を取ることが可能になっているはずだが、そういう非常事態は得てして連絡も取れなくなってしまうものなのだ。だから今のまま完全に終わらせる気持ちを持って事態に当たるのが大前提、というのは口を酸っぱくしてクノアに何度も言われていたことだった。

「……よし」

 左手に抱えた籠の中の猫にすら聞こえない音量で篠木は呟く。ドアが滑らかに開いて外の冷気が直接襲い掛かってきて、薄暗い機内とは正反対に遠近感や現実感すべてを奪い去ってしまいそうなこの真っ白い銀世界は――――。

「雪……」

 誰も踏み入るもののない、幻想的な雪の景色がそこには広がっていた。




 西暦もそろそろ二千と少しを越え、新しい世紀に近づいてきたある日。星座の名前を関した流星群が観測できると中緯度帯で話題になったその日に――――地球人類は、未曽有の事件に巻き込まれた。のちに異聞編纂と言われることになるこの事件の概要は、文字にして表すのなら至極単純明快で、だからこそ実際に起こったこととして考えると信じ難いものだった。

『地球上の地理が入れ替わり、観測されたことのない性質を持つ地域が発生した』のである。前半部分と後半部分で全く違った現象が起こっているため分割して言語化すると、『地球上の地理が入れ替わった』のは文字通りに入れ替わっただけだ。仮の話ではあるが、ユーラシア大陸が南の極点に一瞬で移動したり、高山地帯の一部が赤道上に出現したりと、地球を一つのパズルとして見立てた時に、極限までピースを小さくして別の場所に強引にはめ込んだという表現がこれ以上なく適切に当てはまる、そのような事象が起こった。大洋の中心に谷が生まれることもあれば、滝の周囲に森林が生まれることもあった。自然の規則にも生物の生息網にも食物連鎖にもすべてに反してしまった、まさしく無茶苦茶で矢鱈な変化が突如として地球を襲った。

 が、これはあくまで出来事の半分に過ぎない。

 もう半分の出来事は前半部よりもさらに無秩序だった。場所の入れ替えが起こってしまったのは事実であるため、どれだけ信じられない出来事であったとしても納得せざるを得ない。先に引用したパズルの例えが当てはまっていると言ったが、後半部の出来事はそれすら無秩序に破壊してしまう。

 観測されたことのない性質を持つ地域。それは異変前の地球には存在しなかった地域と意味を同じにしているため、パズルの例えを引用して説明するなら。新しいピースが生み出され、何の無理もなくぴったりと図面に嵌ったのである。――――ありえないことだ。入れ替わりは入れ替わりにすぎず、どこかの地域が消えたのではないのだから、本来ならばパズルに隙間は生じない。突然の環境変化によっていくつも命は散ったし、周囲の変化によって景観も大きく変化してしまって、変化前がどのような場所であったのか推測するのは困難を極めるだろう。しかしやはり、新しい場所が挟まるような隙間は無いのだ。もしそれが起こるために必要なことがあるとすれば――――地球そのものの拡大。一周を約四万キロメートルと定義された横に広い楕円の地球が、少しだけ広がっている。そうと仮定することでしか説明のつけられない事象が突如として一日の間に発生した。

 当時の混乱を記すには地球上の木をすべて紙にしてもなお余白が足りないだろうから割愛するが、その大混乱から二十年が経つことによってようやく人類は前に進むことが出来るようになった。

 マギアノイドと呼ばれる、異聞編纂によって発見された地域に住まう人類のうちの一人、クノアという傑物がその進展の原動力として活動を始め、クノアが居た地域の近くに文明を築いていた人類と結託したことによってその進展は緩やかに進みだす。

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