芸術家志望
いわもと
芸術家志望
1
コーヒーの缶を蹴ってしまい、中身を床にこぼす。ぼくはテーブルの上にあるトイレットペーパーで床を拭いた。
「仁くんえらいね。あたしなら服で拭いちゃう」ナナミが言った。
アパートの一階にある部屋のシャッターは下ろしたままだ。その手前にある掃き出し窓は開けている。カーテンはない。ナナミは体育座りをしてその窓際でぼくを見つめる。彼女の涼やかな顔は、風鈴だった。汗一つかいていない。
「真面目だからね」
そう言ってぼくは伸びをする。今は昼の一時半だ。
ぼくは毎日朝の八時に起きる。そして八時十五分から絵を描く。描くことは作業だ。作業は夕方まで続く。この部屋は、六畳一間の芸術工場だ。人との関わりはない。ああ、ナナミは人間ではない。彼女は人型兵器だ。おかしなことになった。最初はそう思ったけれど、今はもう慣れた。むしろありがたい。彼女がいるから芸術を頑張れる、とさえ思う。
使ったトイレットペーパーを灰皿の縁に載せる。絵を描くときは、足元に必要なものを集める。缶コーヒーと灰皿の他には、絵の具や切ったペットボトルがある。今回のキャンバスは大きい。F100号といって、1303×1621ミリのサイズだ。キャンバスは左右に何冊かの本を台として積み、壁に立てかけている。そのキャンバスにぼくは絵を描く。その姿を、ナナミはいつもそばで見ている。千年に一度のアイドル並みにきらきらした瞳で。
2
「すみません、駅はどちらでしょうか」
と、知らない男に話しかけられた。
夏の昼下がり。湿度が高くて、息を吸うとめまいがする。またコンビニまでが地味に遠い。アパートから百メートルくらいだろう。この地獄のような気温と湿度では、百メートルが百万メートルになる。
男の顔中から噴き出た汗が、執念を物語る。不気味な男だ。坊主頭で、スーツを着ている。見ていると余計に暑くなってくる。コンビニに向かう途中、曲がり角から男が現れた。男は最初から笑顔だった。ぼくらに会う前から、一人でいるときから笑顔だったと思えるくらいに不気味だった。
「ここをまっすぐ行って、一つ目の角を左。突き当たりを右。メモしなくていいですか? それで一つ目の角を左に行くと小学校があります。小学校脇を通って角を右。同じく小学校脇を通り過ぎて、丁字路を左。あとは道なりに坂を下ると大学があるので、その近くです。歩いて二十五分くらいですね」
と、ぼくは男に説明する。
アパートの家賃は三万円だ。都内で三万円なので最寄駅からアパートまでは遠いし、おまけに長い坂がある。一番近くのスーパーが駅前なので、歩いたら往復で五十分かかる。というわけでいつもコンビニを利用する。
「分かりました。ありがとうございます」男が言った。「ところで」
熱風が吹いた。堪えているけれど、ぼくはこの男が生理的に無理だ。熱風と男への不快感が合わさって、ぼくは思わず目を閉じた。右手にやわらかいものが触れる。それはナナミの手だった。彼女の手を握ると、風が止んだ。目を開けると、男が笑みを浮かべてナナミを指差していた。
「この人、あなたの彼女さんですか?」男は言った。
「違いますけど」ぼくは言った。
ぼくには男が土管に見える。空から降ってくる悲しみも内から湧き出る喜びも、男の体には残らない。人であることを辞め、土管として生きている。
「あー、そうなんですか」
男はそう言って腕を下ろす。
「ねえ、仁くん行こ」ナナミが言った。
しっかり手を握って、ぼくらは男の側を通り過ぎる。
「さようなら」男は笑顔で言った。「またどこかで」
もう会わないですよ。と言いそうになる。コンビニでソーセージのパンと微糖の缶コーヒーを買う。帰りに同じ道を通ったとき、男はいなくなっていた。
「さっきの男の人、なんていうか可哀想だったね」
部屋の玄関ドアの前で、ナナミが言った。
「そうだね。ていうか暑すぎるよ」ぼくは言った。
3
部屋にこもった熱が、夜になっても居座っている。芸術家には誰しも報われない時期があり、その時期のエピソードが後に民衆を魅了する。ぼくは今そのエピソードを作っているのだ。人気なのはやはり貧乏エピソードだろう。だからぼくは家賃三万円のアパートに住み、猛暑日でもクーラーをつけない。バイトもしておらず、絵を描くだけの日々。このようなストイックな生活は、いいエピソードになる。今は芸術家、石田仁の第一章だ。というのは詭弁で、実際はそうでもしないと格好がつかないのだ。ただの無職では、外を歩きたくない。世間への言い訳が、ぼくには必要だった。芸術家として成功したいと思っているのは本当だ。けれどそれは、深い考えがあるからではない。突き詰めると、格好をつけたい。えらいと思われたい。それだけだった。絵を描くために、芸術家になる必要はない。
スマホが震える。母親から電話だ。わずかに緊張しながらボタンを押す。
「はい」ぼくは言った。
「どう? 元気?」母親が言った。
「元気やな」
「あの、ほら、え、絵描いてるん?」
母親はいつも「絵」と言わず「え、絵」と言う。本音では、訳の分からないことをしていると思っているのだろう。
「描いてる」
隣でナナミが物珍しげにぼくを見ている。上京して三ヶ月。身悶えるほどの恥ずかしさを心の屋根裏に隠して、ぼくは東京に来た。
「ああそう。バイトとかはしてるん?」
「してへん」
「じゃあずっと、え、絵描いてんの?」
「そうやな」
ぼくは布団の上で煙草に火を付ける。煙がゆらゆらと天井に向かって泳いでいる。ぼくはそれをぼんやり眺めた。
「聞いてる?」母親が言った。
「聞いてなかった」ぼくは言った。
「資格の勉強とかしたらどう?」
芸術家を目指している人間は、資格の勉強なんかしないだろう。
「考えとくわ」
と、ぼくは言った。
「ほんまに考えなあかんよ。将来のこととか」
「分かってるって」
「それじゃあね。体に気を付けて。水分補給しっかりして。じゃあね。お休み」
電話を切る。将来か。ぼくは将来のことを考えた結果、芸術家を目指している。けれど母親にとって、それは考えていないも同然なのだろう。ふらふらしていていいのか。安定していて、なるべく沢山お金をもらえる仕事に就きなさい。そのためには、資格の勉強でしょう。それが母親の正しさ、ひいては世間一般の正しさだ。ぼくには欠落があって、世間一般の正しさをインストールしきれない。そういった事情も考慮した上で、ぼくは芸術家を目指すことにした。自分にしかなれない自分が嫌になる。むしゃくしゃしたぼくは、ナナミの胸を触った。
「もう」
と、ナナミが言った。
「へへ」
下手くそに生きることの苦しみが、冷たい風にさらされる。ナナミはその痛みを和らげてくれる存在だ。だから一緒にいる。
今日もがんばった。
「おやすみ」
そう言ってぼくは床に就いた。
「おやすみ。よく眠れるといいね」ナナミは言った。
4(回想)
一週間前の朝方、突然彼女が現れた。
「おはよ」
女性の声がする。ぼくはうつぶせのまま目を開ける。すると太ももがあった。視線を上に向けていく。だぼっとした白いTシャツを着ている。黒っぽい茶色の髪の毛が肩まである。顔が小さい。瞳は潤いがありぱっちりしていて、唇を少し尖らせている。肌がきれいだ。二十才くらいだろうか。彼女は千年に一度レベルの美女だった。
「おはよう」そう言ってぼくは彼女の太ももを撫でてみる。「なんて名前?」
「ナナミだよ。冬野ナナミ」
いつも電気をつけたまま眠るので部屋は明るい。ぼくは大きな欠伸をする。
「どこから来たの?」ぼくは言った。
「教えなーい。てか、どこでもいいじゃんそんなの」
誰かと話せることが、純粋に嬉しい。人と話すことも、人に触れることもない東京生活。ぼくは一人ぼっちだった。孤独の中でこそ花は咲く。みたいな言葉をぼくの尊敬する人が書いていた。だから孤独は良いものなのだ。そう信じてぼくは、孤独を耐えている。寂しいっす。それがぼくの本音だ。だからぼくは自分を騙して、本音をないものとする。自信がないから、自分よりもあの人の言葉を優先するのだ。
彼女は寝ているぼくに、抱きしめるように覆いかぶさる。女性特有の匂いがして、ぼくは男として安らぎを感じる。
「これはどう?」彼女は言った。
「泣けてくるよ、本当に。君は天使か」
そう言ってぼくは笑った。
「天使じゃないよ。あたし、兵器なの」
「兵器?」
彼女はフリルの付いた短い靴下を脱いで窓際に座り、ぼくに向けて足を伸ばした。
「どうしたの?」ぼくは言った。
「見てて」
DVDレコーダーのトレイが開閉するような音がする。そして彼女の踵が開いた。銃口のような穴がある。すごい。何だこれは。
「何これ」ぼくは言った。
「ここから炎が出るの。空を飛ぶときに使ったりする」
「本当に兵器なんだ」
彼女の太ももは、本物のはずだ。ではなぜ踵に穴があるのだろう。それはやはり、彼女が兵器だからだ。テクノロジーは日々進歩している。太もものある兵器があっても、不思議ではあるけれどおかしくはない。いや、やっぱりおかしい。彼女は未来からやって来たのかもしれない。彼女は猫型ロボットならぬ、人型兵器なのだ。とりあえずそう結論づける。
「性器ってあるの?」ぼくは言った。
「へんたーい。セクハラだよそれ」
またDVDレコーダーのトレイが開閉するような音がして、彼女の踵が閉じる。
「ねえ」彼女が言った。「名前教えてよ」
「石田仁」
「ねえ仁くん、どっか連れてってよ。そしたらさっきの質問に答えてあげる」
スマホを手に取り、時間を確認する。八時半だ。なるべく自律した生活を心がけているので、作業開始の遅れに少し焦りを感じる。ぼくは会社員ではないので、いくらでもサボることができる。だからこそサボってはいけないと、自分に言い聞かせてきた。けれど今日はサボろう。こんなにかわいい女性、いや兵器があるのだから。
「とりあえずコンビニ行く?」ぼくは言った。
「行く!」
ぼくは起き上がり、チノパンを履いた。
「じゃあ行きますか」
「行こう!」
玄関でぼくは、彼女の靴がないことに気付く。
「どうやって来たの? 飛んで?」
「分かんない。気付いたらここにいた」
まあいいや。考えても仕方がない。彼女にはクロックスを履いてもらうことにした。
外に出て鍵をかける。涼しさを吸い込むと、頭が冷やされていく感じがした。まばらに広がる雲の間を、太陽が助走している。日勤の人は通勤中かもう働いていて、夜勤の人は今頃から眠るのだろう。はあ。そのどちらでもないぼくは、一体何をしているのだろう。意味不明。こうやって我に返ると、心が押し潰されそうになる。だから我に返ってはいけないのだ。ぼくはやる。やりたいようにやるんだっつーの。
「兵器ってご飯食べるの?」
「食べないよ」
「充電タイプ?」
「どうだろうね」
「あ、煙草って吸っても良かった?」
「全然いいよ」
次の日も、その次の日も彼女との生活は続いた。そうして今も、ぼくは彼女と一緒にいる。彼女はいつまでいるのだろう。いつまででも、好きなだけいてくれていいのだけれど。というかいてほしいのだけれど。
5
買ったばかりの炭酸ジュースをごくごく飲んで、体を内側から冷やす。果糖の甘みが、一日の疲れをもみほぐした。空を見上げると、優しい火事のような夕焼けが広がっていた。まだ古びていないベンチでぼくらは佇む。中心に広葉樹があって、その周りを埋めるように遊具がある。そこまで広くない。小学校のプールくらいだ。生えっぱなしの雑草と、塗装が剥がれて錆びたブランコが寂しそうにしている。
「ねえナナミ」ぼくは言った。「生きる意味ってあると思う?」
「あーどうだろうね」彼女は言った。
彼女はベンチにもたれて、何か別のことを考えているようだった。彼女の目は座って正面にある、公園と道路を区分するフェンスの奥に向けられている。
園内の街灯がぎこちなく点いて、ここは夜の入口だと分かる。半透明の月が浮かんでいる。この住宅街は静かだ。住民との交流がないと、一層そのように感じる。ぼくはこの街を、東京を彷徨っているに過ぎない。しかも知らずに迷い込んだのではなく、自分から彷徨いにいっているのだ。
フェンスの奥の道路を、歩いている男の姿があった。昨日、この近くで道を尋ねてきた坊主頭だ。どうかそのまま通り過ぎてくれとぼくは願った。しかし願いは届かず。こういうとき、必ずと言っていいほど願いとは逆の結果になるのは何故だろうか。
「あー! この前の!」
そう言って男は、フェンスに沿って勢いよくこちらへ歩いてくる。
ぼくはベンチに置かれた彼女の左手に、そっと自分の右手を重ねた。逃げたい。ぼくはびびっていた。
「どうもです! また会いましたね!」
男は歩きながら、大きな声でそう言った。
昨日会ったときと同じスーツを着ている。男はぼくらの前に立って視界をふさいだ。
「どうですか? 相変わらずラブラブですか?」男が言った。
「いや、だから恋人じゃないんで」ぼくは言った。
彼女は苛立ちを含んだような目で俯いている。
「ああ、そうでしたそうでした。でもあれですよね。そりゃあ生きてると色々ありますよね」
「は? 何がですか?」
そう言ってぼくは男の顔を見上げた。
笑っている。自分は働いているからって、無職のぼくを馬鹿にしているのだな。ぼくには男の笑顔がそのように映った。
「いや、いや。そういう意味じゃなくて。不快にさせてしまったのならすみません。どうか怒らないで。あ、そうだ」
そう言って男は、上着の内ポケットから箱を取り出し、中からカセットテープのようなものをつまみ出した。
「これ、私の名刺です。何かあったら連絡してください。多少なりとも、助けてあげられると思うので」
男に差し出されたものを見ると、そこにはおそらく彼の名前と電話番号が記されていた。反らしてみたり横から見たりして、不自然な厚みを確かめる。
「ああ、厚みですね。この厚みは、単純に目立ちたいからですよ。こうすると覚えてもらえるかなと考えまして。まあ、お守りだと思ってもらえればいいですよ」男が言った。
「お守り?」
ぼくは怪しみながらそう言った。
「ええ。何かおかしなことがあれば、電話してください。助けに行きますので。世の中、おかしなことばっかりですから。大事なのは、おかしなことをおかしなことだと認識することです。これだけは覚えておいてください。おかしなことをおかしなことだと、当たり前の感覚で認識する。そして一瞬でもおかしいと思ったときは、私に電話をください。必ず力になりますから」男が言った。
「はあ」ぼくは言った。
「それでは! イチャイチャしている最中に、大変すみませんでした。そして、私のような見るからに怪しい人間に付き合っていただいて、ありがとうございました。では、失礼します」
男は来た道を通り去って行った。ぼくの手には、厚い一枚の名刺が残されている。ぼくと彼女は、ほとんど同時に大きく息をついた。
「怪しいって自覚あったのかよ」
彼女はふてくされたように言った。
ぼくは名刺を空中に投げ上げ、そしてキャッチする。小さい虫が顔の周りをうろうろ飛んで、すぐにいなくなった。
「おかしいと思ったらなんとかって言ってたね」彼女が言った。
「そんなこと言ったら、ぼくが芸術家を目指してるのもおかしいし、それに」
「それに何?」彼女が言った。「あたしが兵器なのもおかしい?」
「……はい」
「おい! あたしは最初からずっと兵器なんですけど! それって差別では!?」
そう言って彼女は、ぼくの頬をつねった。
捨てようか迷ったけれど、名刺は取っておくことにした。何かあったときのために。ナナミに秘密があるのだろうか。男はその秘密を知っていて、ぼくを助けようとしているのかもしれない。ぼくらは今のところ仲良くやっている。けれどこの先、彼女が敵になる可能性もある。あるいは彼女が原因で、大きな事件に巻き込まれるかもしれない。とりあえず名刺は、チノパンのポケットに入れておくことにした。
6
切なさで眠りから覚める。喉が渇いていた。目を開けることに、瞼はまるで乗り気じゃない。ぼくもそうだ。まだ寝ていたい。体だって、ぼくや瞼と同じ意見だ。その証拠に、仰向けのままぴくりとも動かない。満場一致で二度寝をすることに決まる。と、言いたいところだけれどそうはいかない。脳が異議を唱える。絵を描かなくていいのか、と。自律という言葉に囚われたばかりに、脳は教官になってしまった。瞼も体も、教官のことを嫌がっている。正直、ぼくだって教官のことは好きじゃない。けれど従うよりほかない。無職には重みがある。それは後ろめたさの重みだ。その重みに潰されてしまうのではないか、という恐怖がぼくにはある。だから働いている人となるべく同じような生活をして、後ろめたさを軽くしないといけない。そのための自律でもある。てか働けよ、とセルフツッコミをする。いや、働くつもりはない。やりたいようにやる。ぼくはそう決めたのだ。教官はうっとうしい。けれど規範を与えてくれる。それはぼくが真っ当でいるために欠かせないものだ。教官がいないと、ぼくはただの無職になってしまう。
「ねえ! 早くしなさい!」
向かいにある一軒家から、子供を叱りつける女性の声がした。その大きな声がアラームになって、ぼくの一日が始まる。
とはいえまだ起きることができない。絵を描いてもどうにもならないでしょう、とぼくのなかの常識人が言う。ぼくは絵について教育を受けていないし、訓練もしていない。なので知識や技術では他の人には勝てない。負け戦だ。だから芸術家を目指さないで、資格の勉強をした方がいい。一方で非常識人は、全部ひっくり返せと叫ぶ。己を輝かせろと喚く。ぼくは非常識人の言うことを聞いた。ぼくは社会不適合者だから、常識人の言うことを聞いても負けるし、ここから常識という土地に行くには相当歩かないといけない。もう自力では無理だ。それに、ぼくはこの非常識という土地で結果を出したい。そうでないと、この先一生自分を輝かせられない。
ぼくはのそりと体を起こして、スマホを手にとる。八時十五分だ。テーブルにある昨日の炭酸ジュースの残りを飲み干す。ぬるい。冷蔵庫はあるけれど、使っていない。電源を入れていない。いつものようにシャッターは下ろしていて、窓は開けている。布団の上で、煙草に火を付ける。灰を落とす前に、溜まった吸い殻をレジ袋に入れた。すっきりした灰皿に、ぽんと灰を落とす。部屋を眺める。使わない机に、使えないブラウン管のテレビ。スチール棚の二段目にあるプリンター。個展のために自作したチラシ。物はあるのに、がらんとしている。ナナミはどこだろう。……あー。彼女は、想像上の存在だった。
「……寝よ」ぼくは言った。
7
湿った風がそよいでいる。ツンと鼻が刺激されて、少し気持ち悪くなった。地を掴んで、ひっくり返した後で離す。地はサラサラと、掌から流れ落ちていった。打ち寄せる波らしきものの音がする。
「ごゆっくり、いつまでも」
と、波らしきものが語りかけている。
「石田さん、石田さん」
誰かに肩を叩かれている。誰だと思うよりも先に、肩だと思った。どこに出しても恥ずかしくない、一般的な肩。大学を卒業して、メーカーに就職。妻と子供二人。妻とは学生時代にサークルで知り合った。休日はバーベキューをしたり、釣りやゴルフに出かけたりする。この肩は、そんな肩だ。一般的なのが、肩ではなく頭ならよかったのに。と、思わなくもない。けれど、そう思ったらぼくがかわいそうだ。
「日々を当たり前に過ごすことを放棄して、世間からはみ出してしまった落伍者の石田さん。起きてください」
分かっていても、言語化されると辛い。ぼくは顔をしかめる。そこでようやく、この声の正体が気になった。上半身を起こし、目を開ける。視界がぼやけている。波らしきものの音がする方を向くと、月があった。その光が道のようになっている。ぼくは地を撫でた。すると地はさーっと動いた。地は砂だった。視界がはっきりしてくる。海だ。どういうことだ。まあ、いいか。どうなってもいいか、もう。疲れた。
「やっと起きましたね。さあ、帰りましょう」
声のする方へ顔を上げると、あの坊主頭の顔面があった。
「帰るって、どこへ」ぼくは言った。
「そりゃ家ですよ。石田さんの家です」
「連れて行ってくれるんですか」
「もちろんです。そのために来ましたから」
「……そうですか。じゃあ、お願いします」
ぼくは立ち上がる。体がバキバキだ。
「では、行きましょう。こちらです」
そう言って男は海へと歩き出した。
「え、ちょっと」
「はい?」
嘘臭い笑顔の後ろには、嘘臭い月が浮かんでいる。男と月の嘘臭さが混ざり合って、ぼくの視界は奇妙な美しさでいっぱいになる。
「あ、なにもないです」
「安心してください。ほら、見えるでしょう。この光を辿って行けば、家に着きますから。これが最短ルートなんです」
「そうですね」
ぼくは立ち止まって、靴と靴下を脱ぎ、チノパンの裾を膝までまくった。帰ろう。不思議と怖くなかった。
海水がチノパンを濡らし始める。やがて完全に浸かった。
小便がしたい。……しよう。解放。……気持ちいい。人生最後の喜びは排泄だった。
「そう言えば、なんでぼくの名前を知ってるんですか?」ぼくは言った。
すると男はげらげら笑った。ぼくのことを心底馬鹿にするようだった。
「まだ気付かないんですか?」男は言った。「私は、あなたですよ」
「え?」
「石田さんにしか見えないはずの、想像上の人型兵器が私にも見えていたんですよ?」
「今気付きました。ということは、あなたもぼくの想像なんですか?」
「そういうことになります」
「あなたはぼくにとって、どんな意味があるんですか?」
「意味がなかったり、都合が良くなかったりすることだって、人は想像しますよ」
「ぼくは望んでいません」
「では、望んでいるとしたら、何を」
「……補強かもしれません。冬野ナナミを、想像上の存在だと気付かないための」
「でも気付いてしまった。それはなぜですか」
「……彼女との生活は、ぼくが脚本を書いた演劇みたいでした。来る日も来る日も上演して、疲れたんだと思います」
海に首まで浸かっている。家に帰るなら、そろそろ泳がないといけない。けれど服が重くて、泳ぐのは難しい。たとえ脱いだとしても、家には帰れないだろう。海面に浮かぶ光は水平線まで続いている。帰れるはずがない。分かっていた。さて、どうしよう。そのときだった。
「仁くーん! 迎えにきたよー!」
ぼくを呼ぶ声がする。誰だろう。
「上! 上見て!」
空を見上げる。星々のなかに、他とは明確に違う赤い光が二つセットで浮かんでいた。その二つがこちらに向かって来る。赤い光はぼくの目の前で動きを止めた。辺りが強く照らされて、ここだけ朝になった。炎が踵から出ている。それは人型兵器、冬野ナナミの炎だった。
「まじ?」ぼくは言った。
8
目が覚める。天井だ。海も、月も、坊主頭も、人型兵器も、どこにもない。布団のシーツとトランクスが濡れていて冷たい。膀胱が空になるくらい、小便を漏らしていた。
「あかん」
大きく息を吸って吐く。それを三回繰り返した。何も変わらない。変えられなかった。逃げられなかった。仰向けのまま手を伸ばして、チノパンのポケットを探る。煙草の空き箱が入っていた。ぼくはそれを握りつぶす。もう「芸術家志望ごっこ」は続けられない。天井を見つめながら、ぼくはそう思った。
それから何日も、ぼくは無為に過ごした。何もする気が起きなかった。煙草を吸って、寝るだけの生活。芸術家を目指すエネルギーは、プライドと劣等感、そして承認欲求だった。けれどそれらの、エネルギーになる部分は使い果たした。冬野ナナミを生み出したのは、最後の灯火だった。ぼくは今、どん詰まりだ。SOSの宛先を、見つけられずにいる。……それでも生きようとしているのは、今死んだら格好がつかないからだ。プライドのカスが、生を繋ぎ止めている。そのカスこそが、実は肝要なのかもしれない。隅に追いやったF100号のキャンバスには、喝采を浴びるみすぼらしい男が描かれている。その絵を見てぼくは、乾いた笑いを漏らした。
芸術家志望 いわもと @momonoketsu
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