陽雁学園、彼岸にて。
真鳥まとり
第1章 - 第1話
私には夢があった。ささやかな、積年の夢である。
人によってはやすやすと手にしただろう夢だ。
さりとて終ぞ私がそれを手にすることはなかった。
――そうなるはずであった。
しかしながらあの日、私は此処で恩寵を賜ったのだ。 その奇矯なる天佑はひとつの天啓をももたらした。 この地において、我が宿願が結実することを念ず。
陽雁の子等よ。
願わくば前途洋々たる未来に弥栄あらんことを。
~古ぼけたノートに書かれた手記~
―――――20XX年5月7日水曜日。時刻は朝の8時半。
眠い目を擦りながら朝一のバスで降り立った本栖湖湖上は、
早朝には霧が出ていたのかうっすらと靄がかって見えた。
穏やかな湖面へ真っすぐにそそぐ日の光は柔らかい。
凪いだ湖面は不思議と硬質に見える。
出来れば昨日のうちに入寮手続きだけでも済ませておきたかったなぁと思ってしまってもバチは当たらない気がする。
ものすごく、とてつもなく、
まだろくに世界も目覚めていない「朝」だった。
我が家までわざわざ学校説明に来てくれた先生から、
連休中は対応が難しくてごめんね、と謝られてしまったし、
仕方ないんだけど。
生徒はもう昨日のうちに寮へと戻っているんだろうか。
そうだとすると、帰寮のまっ最中に転入性対応なんてできないかと
唐突に腑に落ちる。見渡す限りあたりはしんとしていて、人の姿は見えなかった。
連休中はキャンパーで賑わっていたんだろうに今はまるで地の果てみたいだ。
バスの運転手さんはこんな時間帯でも学生が降りることは珍しくないのか、
降車際に「学校頑張ってね」とサムズアップで見送ってくれた。
さすが、いわゆる地域の名門校。地元の方ウケもばっちりなんだろう。
ちなみにこれも先生の受け売りなんだけれど。
人の姿が見えないのをいいことに、わたしは大きく伸びをする。
最寄り駅からのバス移動だけでも小旅行みたい。志望校だった高校へ入学して最初のゴールデンウィークも終わり、登校再開日のはずの今日。
わたしはボストンバッグ片手に、来たこともない本栖湖湖畔で新しい学校からの迎えを待っている。
「うわ……」
軽いストレッチをしながら視線を上げた先、湖面にかすかに映る逆さ富士に気づいた。これがあの、と静かに感動している間に待ち人は現れた。
「ごめんごめん、日向さん。初日から待たせちゃったね。朝早くからありがとう。それから、おはようございます。今日から君の担任になる沢渡です。あらためてよろしくね」
車から降りてくるとさりげない仕草でボストンバッグを引き受けてくれたのは、
実家でも顔を合わせた沢渡颯真先生だった。
単身行軍でここまでやってきたから見知った顔を見て少しほっとする。
「おはようございます、沢渡先生。こちらこそよろしくお願いします。
本でしか読んだことがなかった富士山を見られましたし、朝でよかったです」
「ああ、逆さ富士だね。この時間でも見られたのはツイてるね。幸先いいよ」
そう言って助手席を開けてくれた先生越しに見えた湖面が、一瞬だけ、墨を垂らしたみたいに真っ黒に沈んだように見えた。
ひやりとした冷気に頬を撫でられたような気がして、思わずまばたきをする。首を傾げてもう一度覗き込んでも、さっきまでとまったく同じ、穏やかな水の色だ。
……気のせい?
狐につままれたみたいに目をぱちくりさせるわたしを、
沢渡先生は逆さ富士に気を取られているのだと思ったようだ。
「それじゃあ行こうか」
「はい先生!」
「うん。ようこそ、日向さん。
―――――陽雁学園へ。歓迎するよ」
そう言ってくれた先生に笑顔を返すけれど、
頬に触れた冷気のことがどこか引っかかったままだった。
本栖湖湖畔に点在するいくつかの建物を通り越した後、わたしと沢渡先生を乗せた車はあっという間に緑を切り分けるような一本道を進み始めた。横道なんてない。
正真正銘の一本道だ。
付近をしばらく進んでも人どころか対向車にも出会わない。道の左右には背の高い針葉樹が連なり日が届きにくい車道は薄暗かった。樹木の足元にはゴツゴツとした溶岩とカーペットみたいな苔。異世界みたいな光景だななんて感想が頭を過る。
興味津々に車窓の光景を眺めるわたしに沢渡先生はどこか楽しそうだ。うちまで説明に来てくれた時にも思ったけれど、沢渡先生は陽雁学園のことが本当に好きみたい。
ふるさとの話をするみたいに大切そうに話す姿が印象的だった。
「はい、ここから先は歩きだよ。この駐車場、広いし今は閑散としているだろう? 長期休み前後には帰省用のバスがここまで送迎してくれるからね。それぞれ何本か用意されるけど乗りあぐねたら大変だから、長期休み前には必ずチェックするように」
そう説明しながら先を歩いてくれる先生の手には相変わらずわたしのボストンバッグ。大きな荷物は宅配便に頼んであるけどまぁまぁな重さのはずだ。すみません、と思わず謝罪すると何のことかわからなかったらしい先生は一瞬きょとんとした。
「ああ、長旅をしてきた子へのただのお節介だよ。実家が旅館やっててね、でっかい荷物を見ると手が伸びちゃうだけ。あとは多分、これがあるとさすがに君は間に合わなさそうだから。さ、そこの正門を抜けたら走るからね。ついてきて」
「え?」
思わずそう聞き返した時にはすでに先生は校舎と思しき建物へ走りだしていて、わたしはその背中を追いかけるしかなかった。
え? なんで? どうしてダッシュ? 呆然としかけたけれど、追いかけないわけにもいかない。各種資料は学校で、と言われていたから校内MAPすら渡されていないのだ。
足が遅いわけでも早いわけでもないわたしだけど、一応わたしがついて来られるよう手加減して走ってくれてはいるらしい。
先生の背中を見失わないように、とにかく走って走って。
こんな時間に走ったのなんていつぶりだろう。周囲が鬱蒼とした森だからなんだろうか。緑のにおいがやけに鼻につく。
「ああ、この学校、上履きじゃなくて外履きのまま教室まで行けるんだ」なんて、本来であれば口頭説明してもらえそうなことも実地で理解していく。
大きな銅像が目立つ正門から校舎まで走って、減速もせず階段を駆け上がって、廊下を疾走し……ってこれ先生がやっていいことなんですか!?
本当に大丈夫なの沢渡先生!?
疾走する教師とその背中を追う見知らぬ女生徒という光景に「誰!?」と目を丸くする生徒、同じように走っている生徒。あちらは完全に遅刻ダッシュにしか見えないんですけど?
頭に疑問符を募らせたまま走る。複数の学科があるとは聞いていないのに、視界を流れていく生徒の制服はセーラー服だったりブレザーだったりとまちまちだ。
特進コース的な何か? いや聞いていないけど。女子生徒も男子生徒も、文化祭の一般公開日みたいに制服がてんでばらばらだった。
なぜ?
次々に疑問しか湧いてこないけど、今のわたしは先生を追いかけるのに精いっぱい。
「はい!ここがゴール! お疲れ様、ここが今日から君のクラス。我が1-Bの教室です!」
結構な距離を走ったはずなのに息も乱さず笑顔で室名札を指さす沢渡先生とは裏腹に、わたしはぜいぜいと肩で荒い息をつくしかなかった。
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