あの夏がくれたもの

樫ノ木

第1話 失恋と、夏のはじまり

 日差しは強いのに、風がどこか冷たい。

 東京のビルの谷間を抜ける風が、焼けたアスファルトの匂いを巻き込んで、美花(ミカ)の頬を撫でた。


 なんでこんなに静かなんだろう。


 頭の中では、さっきの彼の言葉が繰り返し流れている。


「やっぱり、妻と別れる事は出来ない…。ごめん…」

 

 その一言で、2年間の恋は、砂をこぼすように終わった。


 小さなカフェのテーブル。アイスコーヒーはほとんど減っていなかった。

 待ち合わせてすぐ、彼は俯いたままそう切り出した。

 理由は、簡単だった。不倫、自分の家庭、職場での立場、子供の事。将来のことを考えたときに、自分には重くなった、と。

 

 じゃあ、あの時の「一緒に暮らそう」は? あれは何だったの?


 問いただす気力すら、もうなかった。

 美花はただ、「わかった」とだけ言って、席を立った。


 大学の講義のことも、アルバイトのシフトも、どうでもよくなっていた。

 帰りの電車で、イヤホンを耳に差し込んでも、音楽は耳に入ってこなかった。

 画面に映る街の景色が、涙で滲んだ。


 翌朝、美花はスマホを握りしめたまま、布団の中で固まっていた。頭では理解していても、心が追いつかない。携帯を確認しても通知の数はゼロ。彼からの連絡は、もう一度も来ていない。


「……みか、起きてる?」


 ノックの音とともに、聞き慣れた声がした。

 

 親友の咲(サキ)だ。大学入学のときに同じクラスで出会い、今はルームシェアをしている。


「入るよ」


 咲がそっと扉を開け、カーテンを引いた。まぶしい光が差し込んで、美花は顔をしかめる。


「また昨日のままの格好で寝たでしょ」

 

 咲はため息をつきながらも、優しい目で美花を見つめた。


「水分取った? 何か食べた?」


 美花は、かすかに首を振った。


 咲は部屋を出ていき、キッチンでごそごそと音を立てたかと思うと、温かいスープを持って戻ってきた。


「はい、まずはこれ。体があったまると、ちょっと楽になるから」


 無言でスプーンを受け取り、一口すすると、思わず涙が溢れた。

 

 咲は何も言わず、ただそっと背中をさすってくれた。


 二日後。

 

 ようやく少しだけ顔色が戻った美花を見て、咲が提案した。


「ねえ、うちの実家でバイトしない?」


「……え?」


「日本海の方にあるの言ってたでしょ。小さな港町なんだけど、空気もきれいだし、海がめちゃくちゃ綺麗。夏休み、予定ないでしょ?」


「……まあ、ないけど……」


「ボーっとしてるより、空見て、波の音聞いたほうが絶対いいよ。おばあちゃんの店、海の目の前なんだよ」


 咲は笑顔で言ったが、その目の奥に、心配がにじんでいた。


「……でも、迷惑じゃない?」


「ううん、むしろ喜ぶよ。都会の子珍しいし、夏の時期は海水浴客で混んじゃうの!田舎の最低賃金しか出せないけど…」


 美花は笑った。何日ぶりだろうか。

 

 ふと、自分の頬が軽くなっていることに気づいた。


「じゃあ、行ってみようかな……」


 咲はにっこりと頷き、すぐにスマホで新幹線とローカル線の乗り継ぎを調べはじめた。


 一週間後。

 

 東京駅のホームで、新幹線を待つ二人。美花の手には大きなキャリーケース。


「4時間くらいで着くよ。途中の電車がちょっとのんびりだけど、景色は最高だから」


 都会の喧騒を背に、二人は新幹線に乗り込んだ。列車は次第に速度を上げ、ビル群が田畑に変わり、遠くに山並みが見え始める。それを眺めながら、美花は心の中で小さくつぶやいた。


 変われるのかな、私。

 

 でも、少しだけ期待してる。新しい何かに出会えることを。


 車窓の向こう、青く輝く日本海が、遠くにきらりと光った。

 

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2025年12月25日 20:00
2025年12月28日 20:00
2025年12月31日 20:00

あの夏がくれたもの 樫ノ木 @Kasinoki19

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