いちごと生クリーム

maichan

第一話 エッセイといちごパフェ

 一日使い込んだモップを丁寧に洗い、漂白剤を溶かした水の入ったバケツに突っ込む。これで、一週間の仕事は終わりだ。

 エメラルドグリーンの作業着を脱ぎ、リュックサックに突っ込んで、私服に着替えてロッカーのカギを閉める。同僚と交わすのはいつも同じ、一週間が長かったかとか短かったかとか、週末はどう過ごすのかとか、どうでもいい会話だ。

 唐揚げに心惹かれながら、財布の中身を思い出して、コンビニの前を通り過ぎてまっすぐ帰宅する。


 今日は金曜日、夜が長い。

 小鳥遊たかなし 伊織いおりの楽しみは、エッセイ投稿サイトに投稿することと、ある人のエッセイを読むことだった。

 彼の名は、かおる。本名なのかどうかはわからない。ただの、ペンネームだ。

 今日投稿された薫のエッセイは、ときどき通る道で見かけるという、ショーウィンドウに無数のスイーツの食品サンプルが飾られたフルーツパーラーの話だった。

 いい年をした男が一人でかわいらしい店に入り、いちごパフェを頼むのはなかなか勇気がいる。そんなことが、いつものように飾らない、しかし丁寧な文体で書かれていた。

 伊織は少し考えてから、一言コメントを付けた。

「その気持ち、ちょっとわかります。きっと、ラーメン屋の前では若い女性も同じことを思っているんじゃないかな」

 それから薫が――といっても顔は知らなかったが――いちごパフェの食品サンプルを見ながら店の前を行ったり来たりしている様子を想像して、くすりと笑った。

 伊織が薫のエッセイを読み始めてからもう一年が経つ。不定期ではあるが、お互いほぼ毎週投稿して、コメントを付け合っていた。

 伊織は二十代、薫は四十代、そして二人とも男性であると公開していた。それ以上のことは、エッセイに書かれている何気ない日常のことしか知らない。それでも伊織は、薫の言葉に惹かれ、そして救われてすらいた。


 翌日、伊織は街に出かけてファミレスに入り、いちごパフェを注文した。ここなら、小洒落たフルーツパーラーよりずっとハードルが低い。財布は寂しかったが、薫のエッセイを読んでからはもう、頭の中はいちごパフェでいっぱいになっていた。昨日コンビニの唐揚げを買わなくてよかったと、伊織は思った。

 運ばれてきたいちごパフェの写真を一枚撮り、いちごと生クリームを一緒にすくって口に運ぶ。いちごの酸味と生クリームの甘みが引き立て合っていて、とても美味しかった。

 パフェを食べたのはいつが最後だっただろう、小学校の低学年だったような気もするが、思い出せない。もしかしたら、パフェなんて食べたことがなかったのかもしれない。そして今日、食べてよかったと素直に思った。

 帰宅した伊織はすぐにパソコンに向かい、いちごパフェの写真を貼り付けて、それがどんなにおいしかったかを綴った。

「少し酸っぱいいちごと、優しい甘さの生クリーム。俺はどっちかというときっといちごだから、生クリームみたいな人に出会えたらうまくいくんじゃないかな、なんて思ったりして」

 そして、送信ボタンを押す。執筆お疲れさまでした、というポップアップ表示が出る。

 薫はきっと羨ましがるだろう、たとえそれがファミレスのいちごパフェでも。伊織はそんなことを考えてひとり、可笑しそうに笑った。


「羨ましいです」

 伊織の予想通り、コメント欄に書き込まれた薫の最初の言葉は、それだった。

「ぜひ、伊織さんとご一緒したかった」

 そのコメントを読んで、伊織は思わず小さく笑った。ただ、ファミレスでいちごパフェを食べただけなのに。なぜだか少し、自分が誇らしく思えた。

「なら、今度は一緒に行きませんか?」

 そして伊織は、自身のエッセイに付いたコメントにそう返信した。

 あながち社交辞令でもなかった。薫にはずっと興味があった。彼はいつも、飾らない言葉で日常を切り取っていた。たとえ薫がどんな容姿で、どんな立場であれ――きっと、楽しい時間が過ごせるはずだと、心のどこかで確信していた。

 コメントしてからしばらくして、スマホに通知が入った。

 確認すると、薫からのダイレクトメッセージだった。初めてのことに、伊織は緊張で手が少しだけ震えるのを感じていた。

「突然すみません。でも、伊織さんからのお誘いが嬉しくて、メッセージを送らずにはいられませんでした。伊織さんさえ良ければ、一度オフ会をしてみませんか?」

 それはなかなか、大胆なメッセージだった。オフ会、つまり直接会いたい、ということだ。

 伊織は過去、人間関係に疲弊して仕事を辞めてしまった経験がある。それ以来、他人と深くかかわり合うことを避けるようになった。だから職場でも、あたりさわりのない会話しかしない。

 しかし不思議なことに、薫に対して警戒心はなかった。

 薫の素性は何も知らない。四十代の男性、それだけだ。それも、ネットでの自己申告に過ぎない。

 でも、そんなことはどうでもよかった。

 ほとんどの人は、肩書や地位で自分を見せたつもりになっている。でも、そんなものでその人の何がわかるというのだろう。

 薫はエッセイという形で自分の心をさらけ出していた。飾らず、正直で、誰にも媚びることなく。

 それが、伊織にとっては何よりも大切なことだった。

「オフ会なんて初めてですが、薫さんとならしてみたいです。一緒にいちごパフェを食べましょう」

 少し文章を考えてから、伊織はダイレクトメッセージを送り返した。

 薫がどんな外見をしていて、どんな仕事をしているか、既婚者か、独身か……少しも興味がない、といえば嘘になる。しかしそんなことよりも、いちごパフェを食べた薫がどんなエッセイを書くのか、それを知りたかった。

 きっと薫なら、いつものように忖度なしの率直な感想を書くだろう。口に合えばいいが、もしそうでなければ……いちごが少し酸っぱ過ぎた、とか、生クリームが甘すぎる、とか。コーンフレークで底上げし過ぎだ、なんてことも書くのかもしれない。いや、薫さん、コーンフレークは口直しにいいんですよ――なんて自分のコメントまで想像して、伊織は楽しそうに微笑んだ。

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