第2話

――ダンジョン深層、階層番号三百七十五。


この階層に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


重い。圧がある。魔力濃度そのものは今までと大差ないはずなのに、呼吸のたびに肺の奥に何かが溜まる感じがする。意思を持った空間、とでも言えばいいのか。


「ああ、これは……」


当たりだ。


通路を抜けると、円形闘技場みたいな空間に出た。直径は二百メートル以上。床には摩耗した石畳、壁には無数の傷跡。ここで何度も戦いが行われてきたのが、見なくても分かる。


そして中央。


玉座のように隆起した岩の上に、“それ”は座っていた。


《深層階層主・アーク=レグナス》。


人型。全高はボクより少し大きい程度。黒銀の外殻装甲に、長いマント。顔は仮面のように整っていて、目の奥にだけ異様な光が宿っている。


ぱっと見、人間とそう変わらない。


でも、魔力反応が違う。


階層そのものと、繋がっている。


「久しいな、人間」


声は低く、落ち着いていた。威圧はあるけど、無理にかけてくる感じじゃない。


「そうでもないよ。ここらへん、たまに来るし」


正直に答える。


アーク=レグナスは、少しだけ目を細めた。


「虚勢ではないな。三百階層台に“たまに来る”などと言える人間は、片手で数えるほどしかいない」


「へえ」


そうなんだ。


ボクは歩きながら、相手を観察する。姿勢、呼吸、魔力の流れ。全部、無駄がない。こいつは強い。少なくとも、この階層の主としては申し分ない。


「名を聞こう」


「九条零」


一瞬、間があった。


「……聞いたことがある」


やっぱり、か。


ボクは内心で少しだけ肩をすくめる。深層以上になると、どうしても名前が独り歩きする。別に広めた覚えはないんだけど、討伐記録って意外と回るんだよね。


「貴様ほどの者が、なぜここへ来る」


「キリがいいから」


即答した。


アーク=レグナスが、固まった。


「……何?」


「三七五階。覚えやすいし、ちょうどいいかなって」


本音だ。


今日の潜行は、ここまでにしようと思っていた。物資も減ってきたし、魔力循環の癖も少しズレてきている。無理する理由はない。


「この階層を越える気はない」


「ならば、なぜ我の前に立つ」


「君がいるから」


ボクは笑った。


「ボスっぽいし」


数秒、沈黙。


それから、アーク=レグナスは低く笑った。


「……なるほど。人間とは、やはり面白い」


立ち上がる。空気が震え、階層全体の魔力が呼応する。床の傷跡が淡く光り、闘技場が“起動”した。


「我はこの階層そのものだ。倒すという意味を、理解しているか?」


「うん。たぶん」


ボクは軽く首を回す。


この間、ふと自分の姿が視界の端に映った。磨かれた外殻装甲の反射だ。


黒髪、少し伸びて目にかかっている。顔立ちは普通、たぶん。鍛えてはいるけど、筋肉が目立つほどじゃない。身長も平均より少し低いくらい。


服装はいつもの戦闘用コート。深層仕様で、傷は多いけど機能に問題はない。


――見た目だけなら、強そうには見えないだろう。


それでいい。


「来い」


アーク=レグナスが、手を掲げる。


次の瞬間、闘技場全体が敵になった。


床が隆起し、壁が迫り、魔力の奔流が刃となって襲いかかる。単体じゃない。階層支配型の応用。なかなか凝ってる。


ボクは、歩いた。


身体能力強化、三割。熱の支配、局所展開。迫る床を凍結させ、崩す。魔力刃は、温度差で軌道を歪めて逸らす。


派手だけど、余裕はある。


「貴様……本当に人間か?」


「何回も言われる」


アーク=レグナス自身が動いた。近接戦闘。速い。重い。拳の一撃一撃に、階層の魔力が乗っている。


ボクは受け止め、流し、返す。


拳が交差するたび、空気が凍り、砕ける。


「強いな」


「光栄だ」


短い会話の合間に、魔力を調整する。


この相手なら、《オーバードライブ》を使ってもいい。でも、それは少し派手すぎる。帰還前だし、疲れを残したくない。


だから、シンプルにいく。


「そろそろ終わりにしよう」


熱を、奪う。


対象は――階層主と、階層を繋ぐ魔力回路。


アーク=レグナスの動きが止まる。闘技場の光が、一斉に消えた。


「……見事だ」


膝をつきながら、そう言った。


「我が敗れる日が来るとはな」


「いいボスだったよ」


心からの感想だ。


最後に、魔力砲を一発。内部破壊用、出力控えめ。階層そのものを壊さないよう、角度と拡散を調整する。


アーク=レグナスは、静かに消えた。


討伐表示が浮かぶ。


《討伐対象:深層階層主・アーク=レグナス》

《階層:375》

《脅威指数:S+》

《討伐時間:1分12秒》

《損傷率:0%》


……うん。


区切りとしては、完璧だ。


ボクは表示を消して、深く息を吐いた。


「じゃ、帰ろうか」


帰還用の転移層は、この階層に設置されている。深層のボス階層には、だいたいある。管理側も、無駄に死者を出したくないらしい。


光に包まれながら、どうでもいいことを考える。


地上、久しぶりだな。


空、ちゃんと見えるだろうか。


――まあ、見えなくてもいいか。


ボクは、そう思いながら、ダンジョンを後にした。

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