第6話

 アコウは、別の世界から来たという義人の話をどう受けとめればいいのか、判断がつかなかった。普段であれば相手にしないところだが、二人が何もない場所に突然現れたのを目撃してしまっていた。単なる与太として片づけるわけにはいかない。

 そして――そしてもう一つ。アコウは信じがたいことを目にしていた。

 それはアコウにとっては、二人がどこから来たのかということよりも重要なことだった。

 たとえば丸い枠があるとする。その枠の中に腕を通すことは簡単にできるが、仮にその枠に布を張ったらどうだろうか。当然布が邪魔になり腕を通すことはできなくなる。玉環というのは例えていえば、その布を張った丸枠なのである。ただし、その布は目に見えないものなのだが。

 いったいどんな仕掛けなのか見当もつかないが、玉環にはこの見えない膜が存在するのである。その膜は人体はおろか、紐や棒の類も通さない。

 ところが先ほど、義人が落ちた玉環を拾ったとき、その縁をつまむようにして持ったところをアコウは見てしまった。

 一瞬のことだったから見間違えた可能性はあるが、もし見間違えたのでなければ、その指は玉環の見えない膜を通り抜けた、ということになる。それがいったい何を意味するか。

 八家の人間は神器の力を行使できる――。そう言われていた。何も通さぬ腕環と、抜けもしない剣でいったい何ができるのかと、アコウはまったく信じていなかったが。

 しかし――。もしそれが事実なのだとしたらどうだろう。神器とはただの飾りではなく、とてつもない力を秘めたものなのだとしたら。そして神器を身に帯びることのできる者こそが、その力を行使できるのだとしたら。

 アコウの頭には今、突拍子もない考えが浮かんでいた。その神器の力こそが魔人の伝説の元となったのではないか。

 ただの嘘としか思っていなかった話が、事実をもとにしたものであったという可能性を、アコウは初めて考慮した。神器を身に帯び、伝説となるほどの力を振るった者が過去に実在したのかもしれない。

 そうだとすれば、この神器をその身に帯びることができる者が魔人となる、ということではないのか。

 アコウは自身のその考えに驚いていた。今までであれば絶対に思い浮かぶことはなかっただろう考えである。

 しかしその日、目の前に突然人間が現れるという、ありえない事態に遭遇してしまった。それを引き起こしたこの少年が、魔人となりうるという考えも、馬鹿げた思いつきとばかりはいえないのではないか。

 それを確かめてみる機会が、今目の前に転がっている。試してみて、もし勘違いであったとしてもなにも困ることはない。

 ならば試してみればいい。

 他人が言ったのなら嘲笑ちょうしょうで迎えたであろうその思いつきが、今のアコウにはたまらなく魅力的なものに思えた。


「君の後ろの壇の上に、環っかがあるだろう。――そう。さっき、君が落としたやつだ。それを取ってくれないか」

 エンザが怪訝けげんな顔をして、アコウを見た。いぶかる彼を見返して、アコウはにやりと笑う。

 義人が玉環を手にとった。なんということもない細身の腕環で、不思議な丸い球が一つついている。円周上、玉の反対側は欠けている。

 義人がそれを手にするのを見たとき、エンザの表情が急にこわばった。思わず義人の手元を凝視する。

 静かな社の中に、ごくり、というエンザの喉の音が響いた。

 ぎごちなく首を回し、驚愕きょうがくに見開かれた目を、アコウに向ける。アコウの顔には、興奮と畏怖いふとが混ざりあった、複雑な表情が浮かんでいた。

 義人から玉環を受け取るアコウの手は、かすかに震えていた。

 アコウは受け取った玉環を、そのまま義人に渡す。

「これをつけてみてくれないか」

 自分の声が震えているのに気づいて、アコウは思わず苦笑する。

 突然その挙措がおかしくなったアコウとエンザを見て、義人は不審を抱いたようだったが、斬られてはたまらないと思ったのだろう。言われたとおりにした。

 玉環は彼の右手をすんなりと通った。

 

 義人がその腕環をはめたときのアコウたちの驚きようは、見ていて滑稽こっけいなほどだった。そして今度は剣を渡された義人が、刀身を鞘から抜こうと顔を赤くして力を込めている様も滑稽といえば滑稽だった。

 それを見たアコウたちは、今度は困惑したように顔を見合わせていた。

 春海にはその驚きと困惑の理由はわからなかったけれど、その腕環と剣がなにか特別なものなのだろうということは察しがついた。

 察しはつくものの、なにがどう特別なのかまではわからない、というのが春海の限界であったから、その剣を渡されたとき、どうすればいいのかわからずまごついてしまった。

 剣を手にとまどう春海に、アコウが言った。

「抜いてみろ」

「え……」

 春海は不安そうに、アコウの顔に目を向ける。

 普通の人間はその剣を鞘から抜くことができない、ということを春海は当然知らない。それを試そうというアコウの意図も、春海には当然わからない。

「抜くのはいいんですけど、俺、剣なんか使ったことないですよ」

 剣を抜いたあと、自分は誰かと殺し合いをさせられるのではないか、という余計な心配を、そのとき春海はしていた。

 アコウの唇の片端が吊り上がる。

「抜いたあとの心配などしなくていい。今確かめたいのは、おまえがこの剣を鞘から抜けるかどうかだ。それを試すと言っている。――抜けなければ殺す」

 今、最後にさらっととんでもないことを言わなかっただろうか。春海の顔からさっと血の気が引いた。信じられないという表情でアコウを見たが、どうやら本気らしいと悟り、青い顔からさらに色が抜けていった。

 剣を抜けないくらいのことで殺すとは、なんたる伝法な論理だろうか。仮に抜くことができたとして、ではそのあとどうなるか。剣の使い道など、春海には人を斬る以外には思い浮かばない。斬り合いなどさせられたら、死ぬのは確実に自分である。ということは、どっちにしても自分が死ぬことは確定ではないか。

 逃げ場のない状況に、春海は目の前が暗くなった。

 だいたい義人だって、さっき剣を抜けなかったじゃないか。なのになぜ自分だけ殺されなければならないのか――。

 あまりに不公平な扱いの差に春海はうなだれていたが、そこでふと気づいた。

 義人の手首に目がいく。

 さっきの腕環――。死地に追い込まれた気分になっていた春海は、それに活路を見出した。

 自分と義人に違いがあるとすればそれしかない。それをはめることができれば、殺されずにすむのかもしれない。

 その腕環の用途はわからなかったけれど、剣よりはましなのではないだろうか。どうせなら、その腕環のほうがいいと春海は思った。

 しかし――アコウの視線は、氷のような冷たさで春海を貫いている。義人はどうかと見てみれば、こちらも助ける気があるとは思えない無表情で春海を見ていた。エンザだけは、春海を見る目にどこか興味の色が見える気もするが「自分も腕環のほうがいいです」――とは、とても言い出せそうにない雰囲気である。

 アコウとエンザはその刀身こそ鞘には納めていたけれど、柄には手をかけたままだった。おかしなことをすればためらいなく自分を斬るだろう人間の前で、そんなことを口にする度胸は春海にはないのだった。

 春海はその剣に目を落とす。剣の鍔には玉が一つついていて、その逆側が半円状にかけていた。妙な剣だなと思ったけれど、今はそんなことはどうでもいい。

 さっきの義人の様子といい、抜けるかどうかを試す、というアコウの言葉といい、これはおそらく鞘から抜けないものなのだろうと、春海は推測した。

 それならちょっと試してみたい、という気持ちもないわけではないが、それは抜けなかったときでも「はい、残念でした」で済ませてくれるならばの話である。抜けなければ殺される、というあまりに理不尽な条件では、試す勇気などとても湧いてはこなかった。

 自分も腕環のほうがいい。そう言ってみるべきだろうか。

 しかし、下手なことを言えば、それだけで殺されかねない。ならばやはり余計なことは言わず、剣を抜いてみるべきか。

 春海は逡巡しゅんじゅんした。

 逡巡して、逡巡して、ぐずぐずと考えるているうちに、春海の中にある変化が起きた。

 ――言ってやる。

 己の常識では測れない異常な状況の連続に、なんと普段は隠れて眠っていた蛮勇がむくむくと頭をもたげてきたのである。

 この状況で何を迷うことがあるっていうの、ねえ。どのみち殺されるかもしれないんだったら、言うだけ言ってやればいいじゃない。

 大体なんなのこの人たち。さっきから石みたいにむっつりしちゃって。笑顔をつくって場をなごませるくらいのことできないの、このへちゃむくれ。

 こんな奴らのいうことなんて聞く必要ないわよ。

 あーあ、とっても捨て鉢な気分。

 なにが自制心よ。そんなもの放り投げてやるんだから。

 ――と、こんなようなことを春海はそのとき思った(くどいようだが、これはそのとき春海を突き動かしていた勇ましい感情を、あえて言葉にすればこういう感じ、ということである)。

 春海は決然とアコウに向き直る。

「俺もそっちのほうがいいんですけど」

「なに」

「この剣よりそっちの腕環のほうが」

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夜明けの異邦人 古橋陽 @magami2

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