Voice
んご
Voice
スマホが鳴る。恋人の文からの電話だった。
「もしもし、どうした?
え、今日が何の日かって?
んー、何だっけ…。ははは、冗談だよ。
だからちゃんといい店も予約したんだから」
たわいもない会話。
それでも、音の胸は落ち着かなかった。
今日は付き合って五年目の記念日。そしてプロポーズをすると決めた日でもある。
電話越しの文の声を聞くだけで、鼓動が少し速くなる。
通話が終わり、音は小さく息を吐いた。
目の前のテーブルには、手のひらに収まるほどの小さな箱が一つ置かれている。
表面はわずかにざらついていて、指でなぞると布とも紙ともつかない感触が返ってくる。
蓋を開けると、眩しいほどの輝きを放つ石の飾られた指輪が姿を現した。
「結婚しよう」「愛してる」「幸せにする」
指輪を見つめながら、言葉を選ぶ。
どれも間違いじゃない。
けれど、どれもしっくりこない。
ため息をつき、音はソファにもたれた。
「なんか違うんだよなぁ、シンプルすぎるかなぁ」
天井を見るように、何気なく顔を上げた瞬間だった。
視界の先に、あり得ない光景が浮かんでいた。
500
数字が、はっきりと頭上に浮かんでいる。
「何これ?」
数字は、音の声に反応するかのように変化した。
496
思わず手を伸ばす。
だが、指先は何も掴めず、空を切った。
確かにそこに数字があるのに、
触れようとするとすり抜ける。
幻覚のようでいて、あまりにも鮮明だ。
目を擦っても、数字は消えない。
「幻覚?疲れてんのかな?
緊張しすぎておかしくなった?」
そのとき、
つけっぱなしにしていたテレビのニュース音声が耳に入った。
「昨日より突如、全国で謎の数字が
頭の上に現れる現象が発生しています。
現在分かっていることはこの数字は
発した言葉の文字数に合わせて
カウントダウンされ、0になると声が
出せなくなるとのことです。
詳しい発生原因は不明で
不特定の人間にこの現象がみられています。
脳神経学の専門家によると、
言葉を司る言語中枢が障害を受けており、
会話だけでなく文章の構築も困難になる
可能性があるとのことです。
言葉の意味は理解できても、
考えを言語として表出できなくなる状態だと
説明しています。
厚生労働省はこの事態に早急な対策を…」
「マジかよ…この数字…っ!」
反射的に、両手で口を押さえた。
恐る恐る頭上を見る。
459
胸の奥が、何かが崩れる音がした。
何で、よりにもよって今日なんだ。
喋れないと分かった途端、伝えたい言葉が次々と頭に溢れ出してくる。
五百文字なんて、特別な日じゃなくても一日も保たない。
言葉が、今日で終わる。
文と一緒に思い描いていた未来が、音を立てて崩れていく。
だが――こうなった以上、
言葉はいずれ失われる。
早いか、遅いかの違いだ。
(だったら、今日に全てを賭けてやる)
音は立ち上がり、スーツに袖を通す。
髪を整え、鏡を見つめた。
そこに映っていたのは、覚悟を決めた男の表情だった。
音は部屋を出た。
目的地はバスで十分ほどの場所にある。約束の時間までは、まだかなり余裕がある。
それでも今日は失敗できない。
その思いが、音を必要以上に早く出発させていた。
バス停までの道すがら、ときどき自分と同じように頭の上に数字を浮かべた人とすれ違う。
(360……)
おそらく、互いに同じことを意識している。
数字を持つ者同士、すれ違いざまに自然と視線は相手の頭上へと吸い寄せられていった。
自転車に乗った女性とすれ違う。
反射的に頭上へ目を向けるが、その人には数字がない。
なぜか、悔しさにも似た感情が胸をかすめた。
その直後、ぽとり、と乾いた音が足元で鳴る。
視線を落とすと、先ほどの女性が落としたらしい財布が転がっていた。
音は迷わず財布を拾い、大声で呼び止めようとした。
「……っ!」
危ない。
また言葉を減らすところだった。
だが、財布を届けないという選択肢はない。
音はそのまま駆け出した。自転車の姿は、まだ視界の先にある。
何とか気づいてもらおうと、両手を頭上でパチパチと叩きながら走る。
はたから見れば、明らかに不審者だった。
それでも、言葉を使えない音に他の手段はない。
手を叩く音に気づき、女性が振り向く。
だが、物凄い形相で手を頭上で打ち鳴らしながら迫ってくる男を見て、恐怖を覚えない方がおかしい。
女性はさらにスピードを上げ、そのまま走り去っていった。
音は両膝に手をつき、
肩を上下させながら荒い息を吐く。
仕方なく、交番に財布を届けることにした。
交番で、警察官に無言のまま財布を差し出す。
「落とし物ですか?
あ……」
警察官は、音の頭上を見て察したようだった。
「どこで拾ったものか……
言えないですよね……
とりあえず、あなたの住所と名前を
書いてもらってもいいですか?」
音はボールペンを握り、郵便番号から書き始めた。
三文字書いた、そのとき。
「あ……」
警察官の口から、短い声が漏れる。
456……
数字が、確かに減っている。
言葉を発するだけでなく、文字を書くこともカウントされている――
その事実に、ようやく気づいた。
住所、フルネーム、電話番号。
書けば書くほど、言葉は失われていく。
「仕方ないですよね……
匿名ということにしときましょう」
音は深く頭を下げ、交番を後にした。
どんなトラブルに巻き込まれるか分からない。
ただバスに乗るだけの道のりが、ひどく険しく感じられた。
できるだけ他人とは関わらないようにしよう。
そう自分に言い聞かせ、音は改めて気を引き締めた。
バス停に着く。
そこには一人の男性が腰掛けていた。
その頭上には、ひとつの数字が浮かんでいる。
0……
男性は、何を思っているのか。
無表情のまま、視線をどこか遠くに固定していた。
その目が、何を見つめているのかは分からない。
――いずれ、自分もこうなるのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。
悲しさと同時に、見知らぬ男への強い同情が込み上げる。
音は、迷いながらも男性の隣に腰を下ろした。
「俺、今日プロポーズするんですよ」
なぜ声を掛けたのか、自分でも分からなかった。
何かが変わるわけでもない。
それでも、放っておけなかった。
男性は、音の頭上に浮かぶ440という数字を静かに見上げる。
それから、ゆっくりと音の目を見た。
次の瞬間、男性の表情が柔らかくなった。
親指を立てる、短い仕草。
それだけだった。
それだけなのに、胸の奥が熱くなる。
音は、思わず少しだけ涙をこぼした。
バスが到着する。
音は男性に軽く会釈をして、バスに乗り込んだ。
窓越しに振り返ると、男性は見えなくなるまで手を振ってくれていた。
バスの中は混雑していた。
数人の頭上に、音と同じように数字が浮かんでいる。
480……290……390……
恐らく、数字のスタートは五百なのだろう。
そもそも、なぜ五百なのか。
意味のない考えが、頭をよぎる。
目的地の一つ前のバス停で、降車ボタンが赤く光った。
バスが停まり、ドアが開く。
数名が降りていく中、一人の女性が出口付近でもたついている。
人混みを抜けられないようだった。
その女性は妊婦だった。
そして、その頭上には420の数字。
「降ります」
その一言が出せない気持ちは、痛いほど分かる。
バスの扉が閉まり始める。
「降りまーす!!」
音は、思わず叫んでいた。
バスは再び停まり、扉が開く。
時間をかけて、妊婦は無事にバスを降りた。
窓越しに、何度も頭を下げて礼をしている。
――きっと、生まれてくる子供のために、
少しでも言葉を残しておきたかったのだろうか。
そんな考えが、音の中に浮かんだ。
目的地のバス停に到着する。
予約したレストランへ向かった。
店内に入ると、スーツ姿の店員が声を掛けてきた。
「ご予約……あ……」
店員は、音の頭上の数字を見て察したようだった。
音は腕時計を指差し、予約時間を示す。
それだけで十分に伝わったのか、
店員は小さく頷き、個室へと案内する。
約束の時間までは、まだ少しある。
普段とは違う、高級感のある空間に、
音の緊張はさらに増していった。
約束の五分前。
個室の外から、近づいてくる足音が聞こえる。
店員に案内され、姿を現したのは恋人の文だった。
気合いの入ったドレス姿――
よりも先に、音の視界に飛び込んできたのは。
文の頭上に浮かぶ、498という数字だった。
互いに、同時に口を開いた。
「あ……」
その一言だけで、二人の頭上の数字がわずかに減る。
何から切り出すべきか。
そう考えていると、先に文が口を開いた。
「綺麗な店だね、奮発したの?」
「……っ!」
音は慌てて、人差し指を唇に当てる。
しーっと制するその仕草を見て、文はくすっと笑った。
「今更節約したってしょうがないじゃん。
この先もずっとそうしていくの?」
確かに、その通りだった。
今日は特別な日だ。
だが、それは二人の人生の始まりに過ぎない。
「ていうか、音、なんで434なの?
独り言?」
「色々あったんだよ!
財布拾ったり……知らない人に話しかけたり……
バス停めたり……」
文は、また楽しそうに笑う。
「何それ、音らしいー」
「文は今日何してたんだよ?」
文はワインを一口含む。
「テレビのニュースみてたらさ、
頭に数字が出て喋れなくなるってやっててさ、
そんなバカなって思って
自分の上みたら数字が出てて
『マジ!?』って言っちゃった。
そっからは一言も喋らず、
時間になるまでじっとしてた」
そう言って、ワインをぐびっと飲む。
「ペース落とせって」
「お酒の?」
「会話の!」
「じゃあ今日は何話してくれんの?」
「いや、それは……その……」
音は、プロポーズのタイミングを探っていた。
さすがに、まだ前菜が出たばかりだ。
こういうものは、デザートの後くらいがちょうどいい――
そんな、頭の中で何度も繰り返してきた段取りが、少しずつ崩れていく。
もっとも、文もすべてに気づいていないわけではない。
付き合って五年という節目。
普段は来ないような高級レストラン。
今日が、どういう日なのか。
察しがついていないはずがなかった。
文は、席を立ってトイレへ向かった。
音は、文が大事な言葉を早いペースで消費していることに、不安を覚えていた。
その焦りが、表情に出ていたのかもしれない。
店員が、水を注ぎにやって来る。
「聞き流してもらって構いません、
今から私は独り言をいいます」
突然そう呟いた店員に、音は思わず視線を向けた。
「恐らく、彼女様は貴方の数字に合わせるため、
頑張って話されたのではないでしょうか?」
音は、はっと息を呑む。
「頑張って下さい」
店員はそれだけ言うと、その場を離れた。
音は自分の頭上の数字を確認する。
382……
「お待たせ、音」
トイレから戻ってきた文が、そう声をかける。
その頭上に浮かぶ数字は――
382。
会った時から、百以上も減っている。
それ以上に、数字がぴたりと揃っていることが、胸に突き刺さった。
音は、自分の頭上の数字を指差す。
文は、どこか誇らしげな表情を浮かべた。
二人は、無言でハイタッチを交わす。
だが、それを境に、会話は止まった。
同じ数字。
残された言葉。
どちらからも、崩したくないと思っていた。
やがて、メインディッシュの肉料理が運ばれてくる。
一口大に切った肉を口に運んだ、その時。
ふと、音は笑い出してしまった。
「どうしたの急に!?」
「いや、なんかさ、昔のこと思い出してな」
「昔?」
「ほら、文が昔ステーキ焼いてやるって、
うちに肉持ってきたことあっただろ?」
「あー、あったあった!
火災報知器がなったやつ!」
「そうそれ。
見事に焦がしてすごい煙が出てさ、ボヤ騒ぎになって
隣の部屋とか大家さんに謝ったやつ」
「見事に焦がしたって、あれは音が
フライパンの手入れしてなかったからじゃん!
人のせいにしないでよー」
たわいもない話。
無駄だと分かっている会話。
それでも、やめられない。
本当に伝えたい言葉。
伝えなければならない言葉は、まだ口にしていない。
焦りとは裏腹に、会話だけが弾んでいく。
「そんなこと言うんだったら音だってさ、
急に『カレー作る』って言い出して、私の部屋で
スパイスから始めたことあったじゃない?」
「あー、あれな!」
「換気もせずに炒めるから、廊下まで匂い出てさ。
隣の部屋から苦情きて、管理会社からも
電話かかってきたやつ」
「でも美味かったよな?」
「そういう問題じゃない!
夜中にやることじゃないでしょ!」
「火災報知器鳴らなかっただけ、
まだマシだっただろ?」
文は呆れたように、ワインを飲み干した。
「色々あったよなー」
音はワイングラスを見つめながら、呟いた。
その言葉に、文は無言で頷く。
物思いにふける二人の前に、デザートが運ばれてくる。
音は、頭上の数字を確認した。
219……
続いて、文の数字を見る。
155……
リミットは、確実に迫っている。
プロポーズのタイミングも、すぐそこまで近づいていた。
頭の中で、いくつもの言葉がよぎる。
だが、それとは別に――
デザートの皿を置いた店員に対して、無意識に言葉が漏れた。
「食後は紅茶で」
しまった、と思い、音ははっとして文の顔を見る。
「分かってんじゃん」
そこには、嬉しそうな笑顔があった。
「…そりゃ、もう5年も一緒にいるからな」
その瞬間、音の胸の奥で、
すっと何かが落ちていく感覚がした。
プロポーズの言葉。
そんなものは、言わなくても伝わる。
今、自分の中にある。
今だからこそ、伝えたいことは――
きっと、別にある。
「今日さ、数字が0の人を見たんだよ」
音は、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「同情だと思う……。
すごく、何も無いみたいな感じがして……。
思わず声、かけちゃってさ……。
自分もそうなるのかなぁ、なんて考えたら、
ほっとけなくて。
まさか、文まで同じとは思わなかったけどな」
「やっぱり音は優しいね」
文は、静かに微笑む。
「私、音のそういうところが好きになったんだと思う。
音は私のどこが好き?」
音は、一度天井を見上げ、それから文に視線を戻した。
「伝えきれないよ」
「だと思った」
「でもさ、その0の人はさ、言葉は出せなくても、
俺に頑張って来いって伝えてくれたんだよ。
こうやってね」
音は親指を立て、そのまま文に向ける。
「だからさ、伝わるんだよ、きっと」
「素敵なこと言うじゃない。
そうね。ちょっとだけ不便かもしれないけど、
これからはもっとお互いのことを知っていって、
もっと分かるようになってくんじゃないかな。
ていうか、そうなりたい」
お互いデザートを食べ、紅茶を口に運び、
静かにひと息つく。
甘さと温もりの余韻に包まれながら、自然と心に浮かぶのは、出会った日のことから今までの数えきれない思い出。そして、その先に思い描いてきた未来だった。
言葉がなくなる。
それは、思っていたほど恐ろしいことではなかった。
ただそれだけのことだと、今は思える。
二人は同時に、相手の頭上を見る。
6……
8……
残された言葉は、ほんのわずか。
その沈黙を破るように、文が口を開く。
「明日、何食べる?」
「カレーライス」
言葉とともに、頭上の数字は互いにゼロへと変わる。
そこに悲壮感はなかった。
ただ、穏やかで静かな時間が流れていく。
音はポケットに手を入れ、小さな箱を取り出した。
手のひらに収まるほどのその箱は、表面がわずかにざらついている。
指でなぞると、布とも紙ともつかない、懐かしいような感触が返ってきた。
音はその箱を開き、文へと差し出す。
文は、何も言わず、そっと頷いた。
完
Voice んご @Yn19870331
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