ガラス
イズラ
ガラス
ただ、君を眺めるのが好きだった。
そんな季節の記憶。
「……クーラー、壊したんですか?」
助手の
「それ、切ってくれないか。気が散る」
乾いた喉で吐きつける。葉里は「はぁ」と声のあるため息を漏らしながら、ハンディファンの電源を切った。
「この時期に、それはヤバいっすよ」
何を言われようが、俺は彼女に背中を向けていた。窓から、目を逸らさなかった。研究室と、その隣の部屋。それらを区切るのは、巨大な窓とその縁だった。
「あの子を見ていないと……」
私は相変わらず動かないその子を見ながら、小さくため息をつく。
立ち上がると、足は完全に痺れていた。
「でも、まぁ、そろそろ休もうと思っていたところだ」
葉里にそう伝えると、私は給水機に向かって部屋を出た。
「それじゃ、その間は私が見ときますねー」
背後で気だるげな声が聞こえて間もなく、扉は閉まった。
私は、思わず立ち止まってフッと笑ってしまった。
「……■■ちゃん」
扉越しに聞こえたあの言葉は、何だったのだろうか?
やはり、研究室にも置くべきだろうか。職員用に廊下に置かれた給水機の前で、ふと思う。
「……いや」
そんなことをしている暇はないな。
今は、とにかくあの子を何とかしなければいけない。
喉を通る冷たい水は、生き返るような心地よさだった。
研究室に戻ると、葉里は私の椅子でスマホを見ていた。
「あ、おかえりなさーい」
無配慮に足を組み、ガラスに突きつける様子は、生意気な高校生のような風格があった。どこか疲れた表情をしているが、いま気に留めることではない。
「葉里……」
注意しようと口を開いた。
だが、次の瞬間つぐんでしまった。
「……葉里?」
恐る恐る、助手の名を呼ぶ。
「……何ですか?」
葉里はスマホの画面を切り、こちらに目を向けてきた。
そして私は、その光景に思わず後ずさっていた。
「……あの子が……」
ガラスの向こう。
そこは、質素で無機質な部屋だった。白い壁。白い床。白い天井。給水機と給餌器。それ以外には何もない、あの子のための部屋。
そんな部屋が、今、どの瞬間よりも輝いている。
「……
真理奈が、こちらに手を振っているのだ。それまで部屋の隅に座っていたのが、立ち上がって、歩いて、こちらに両手を振っている!
「真理奈!」
「──
突然、怒号が響き渡った。
ほかの誰でもない、椅子に座っていた助手だった。
「佐原さん……!」
少し、声が小さくなる。
「……佐原さん……」
しまいには、彼女はうつむいてしまった。
どうしたんだと問うと、彼女はそれ以上の言葉を吐かなかった。
その日以来、私は彼女をクビにした。
理由は簡単。彼女は情緒が不安定だ。その上、精神的に未熟である。ハンディファンの使用を注意したのは、あの日が二回目だった。
それに、もう必要ないと思った。
「真理奈」
呼びかけると、真理奈は一歩後ずさった。私の姿をしっかりと見たいのだろう。立ち上がり、腕を広げる。
もう、どこにも行かないでほしい。
「ほら、お父さんだよ! 真理奈! もうすぐで、お家に帰れるよ!」
呼びかけてやると、真理奈はまた、部屋の隅へと戻っていった。
しかし、私はもう不安ではない。ようやく歩み寄ってくれたのだから、それで十分だ。あの子を、家に連れ帰る。
──お父さん!
ここに来て、その声が脳内に響く。
幸せなあの日々をもう一度。
あの子は治ったのだ。
実に久しく、私はその扉を開けた。
部屋と部屋を隔てる窓の縁についた扉。
そこを開けると、真理奈は驚いたように振り返った。相変わらず無表情だが、喜びのような感情が伝わってくる気がした。
「さ、真理奈! お家に帰ろ!」
間もなく、その子はこちらに歩き出す。
「お父さんと一緒に! さぁ!」
足を速めて、走り出し、お父さんの腕の中に──
「──逃げるよ! ■■ちゃん!」
その時だった。
真理奈は、私の腕に飛び込んでは来なかった。
呆然と白い壁を見つめていると、背後で扉が閉まった。
「……あぁ」
そういうことか。
私は、ため息をつきながら立ち上がり、扉をもう一度開けた。
葉里は、研究員の誰よりも優しかった。
返せ。
ガラス イズラ @izura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます