第四章 少しずつ、色づく日々

智恵は、朝、目覚ましより先に目が覚めるようになった。


カーテンの隙間から差す薄い光を、ぼんやり見つめながら、

最初に浮かぶのは、いつも俊弥の名前だった。

まだ夢と現実の境にいるような、ふわふわした時間。

胸の奥に、小さな火が灯る。

熱くはない。ただ、静かに、確実に、温かい。


スマホを手に取る。

ロックを外す指が、少し震える。

トーク一覧の一番上に、彼の名前がある。

それだけで、胸が高鳴る。

まだ返信が来てなくても、

「今日も、話せる」

そう思うだけで、世界が優しくなる。


朝ごはんのパンを齧りながら、昨日のやり取りを、もう一度読み返す。

俊弥が送ってくれた写真——夕暮れの海岸線。

「こっちも綺麗でした」って一言だけ添えられたメッセージ。

智恵は画面を指でなぞって、

「……同じ空、見てたんだ」

と、誰にも聞こえない声で呟く。

頬が熱くなり、涙が出そうになるのを瞬きで堪える。


大学へ向かう道。

いつもと同じ道なのに、

空が違う。雲が違う。風が違う。

イヤホンから流れる音楽も、以前はただの雑音だったのに、

今は胸に染み込んでくる。


講義中、

教授の声が遠のく瞬間がある。

ノートを取る手が止まって、ぼんやりと窓の外を見るとき、

俊弥の顔が浮かぶ。

「今日、何してるかな」

「今頃、会社?」

「昼ごはん、ちゃんと食べてるかな」

そんなことを考えるだけで、

頬が熱くなる。

恥ずかしくて、俯いてしまう。

でも、俯いた顔が、自然に緩んでいるのに気づいて、

「……私、笑ってる」

って、自分に驚く。


学食で一人で座っているとき、

隣のテーブルで誰かが笑う声がする。

以前なら、苛立って耳を塞いだ。

今は、

「……私も、いつか」

と、小さな願いが芽生える。


帰り道、

ロードバイクに乗るとき、風が頬を撫でるたびに、

「……一緒に走れたらな」

と、心が疼く。

ペダルを漕ぐリズムが、

まるで彼へのメッセージみたいに軽やかになる。


夜、部屋に戻って一番最初にすること。

スマホを開くこと。


俊弥に送る言葉を30分、時には1時間かけて考える。

「今日はこの坂、登ってみました」

「景色、よかったです」

写真を添えて、送信。

送信ボタンを押した瞬間、胸が締めつけられる。

返信を待つ間、胸がそわそわする。


そして——

「僕もあそこ好きです。次は一緒にどうですか?」


たったそれだけの言葉に、胸が熱くなる。

「……一緒に」

と、声に出さずに繰り返す。

枕に顔を埋めて静かに震える。

嬉しくて、怖くて、でも、止められない。


姉妹はそんな智恵を遠くから、そっと見守っていた。


理恵は、SNSで「気持ちよかった」という智恵のストーリーを目にし、

電車の中でスマホを握りしめて、涙ぐんだ。

「……智恵が、こんな言葉を」

あの夏以来、凍りついてた妹の心が少しずつ溶けていくのを感じる。

心の中で「ありがとう」と呟いた。


双子は、智恵のストーリーに上げられた夕焼けを見て、

ベッドの上で顔を見合わせて、

「……智恵お姉、よかったね……」

と、小さく泣いた。


智恵は、まだ知らない。

自分の小さな変化が、

家族全員の心を、

どれだけ深く、

どれだけ優しく、

震わせているかを。


でも、彼女のスマホに届く俊弥からのたった一言が、

家族全員の長い長い冬を、

静かに、確実に溶かし始めていた。

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