第三章 あの夏、壊れた笑顔

高校2年の夏、智恵は死んだ。

少なくとも、心は。


それまで、智恵は毎日笑っていた。

陸上部でグラウンドで風を切って走るとき、

友達とくだらないことで腹を抱えて笑うとき、

父親と週末に一緒に走って「智恵は速いな!」って褒められたとき、

全部が、キラキラしてた。

「私は走りたい」

それだけで、世界は十分だった。

未来なんて考えなくて、ただ今が楽しければ、それでよかった。

あの笑顔は、自然に溢れ出るもので、みんなを巻き込んでいく。

心の底から、幸せだった。


でも、あの夜。


「医学部に行け。お前にはそれが相応しい。」

父親の言葉が、ナイフみたいに胸に突き刺さった瞬間、

智恵の中で何かが、ぱちんと、音を立てて壊れた。


「走るの、あんなに褒めてくれたのに……」

「私の人生なのに……」

「私が決めたかったのに……」

怒りと悲しみが混じって、

喉が詰まって、言葉が出ないのに、

出さなきゃ、止まらない。

このまま黙ったら、自分が消えちゃう気がして、


叫んだ。

初めて父親に、初めて誰かに、声を振り絞って叫んだ。


「絶対行かない!!」


部屋に駆け込んで、ドアを蹴るように閉めた。

膝から崩れ落ち、「嫌だ嫌だ嫌だ」と床を殴りながら、声にならない声で繰り返した。

涙が止まらなくて、喉が焼けるみたいに痛くて、死にたいって、本気で思った。

信じてた父親を、世界を、全部裏切られた気がした。


私はただ、走りたかっただけなのに。


それが全部、壊された。


だから私は決めた。

もう誰も信じない。

もう笑わない。

笑ったら、また傷つく。

だったら、全部閉じ込めて、仮面を被ればいい。

孤独だけど、安全。


翌朝、鏡を見たとき、

私は死んでた。

目が空っぽで、口角が下がってて、

知らない女が立ってた。

「……誰?」って聞いたら、鏡の中の私は何も答えなかった。

あの明るい目、なくなった。

これでいい。

これなら、痛くない。

でも、心の奥で「戻りたい」と小さく叫ぶ声を、無視した。


陸上部も辞めた。

走るたびに昔の自分がよみがえって、耐えられなかった。


父親を見返してやろうと必死に勉強した。

辛くて、夜、布団に潜って「……痛いよ……助けて……」と誰にも聞こえない声で泣いた。

でも、声に出したら負け。

全部噛み殺して、涙を拭いて、翌朝また仮面を被る。

そんなループが、魂を磨り減らす。


大学に合格した日、

掲示板で番号を見た瞬間、

トイレに駆け込んで嗚咽を吐き出した。

「お父さん……これでいいんでしょ……」

勝ったつもりだった。

でも嬉しくなんかなかった。

ただ胸が空っぽで、

自分がどこにいるのかもわからなくて、

怖くて、

死にたいってまた思った。

勝ったのに、何も残らない。

この空虚が、勝利の代償。


大学に入って一人暮らししても、鏡を見るたび死んだ目をした自分がいる。

ロードバイクは逃げ場だった。

一人で走れば、誰も期待しない。

風だけが、全部削ぎ落としてくれる。


あの日、崖から落ちたとき、

「死んでもいい」って思った瞬間、

初めて「生きたい」と叫びたくなった。

生きていたいって、

誰かに見つけてほしくて、

誰かに「生きててよかった」って言ってほしくて。


そして、あの人が現れたとき、

仮面が、音を立てて割れた。


ファミレスで彼の前に立ったとき、

震える唇が、勝手に笑ってた。

怖くて、涙が出そうで、

でも、止められなかった。

「……私、まだ笑えるんだ」って、

胸の奥で、誰かが泣きながら叫んでた。


あの夏に殺したはずの私が、

まだ生きてた。

泣きながら、笑いながら、

「帰ってきたよ」って。


私は、初めて、自分を抱きしめた。

震える手で、ぎゅっと、ぎゅっと。

「……ごめんね」

「……もう、大丈夫だよ」


私はまだここにいる。

まだ泣けて、

まだ笑えて、

まだ、誰かを好きになれるって、

証明してくれた。


だから、もう仮面はいらない。

痛くても、怖くても、

生きてるって感じたい。


あの日の私は、

まだ、私の中に、

ちゃんと生きてる。



◆姉妹との、壊れた絆の記憶


大喧嘩の翌朝、理恵は智恵の部屋の前で一晩中座っていた。

ドア越しに「ごめん」と何度も呟いた。

母親と一緒に父親を止められなかったことが、ずっと胸に刺さっていた。

智恵の笑顔がなくなったら、家族が崩れる気がして怖かった。


朝方、ドアの下からメモが差し出された。


『お姉ちゃんは悪くない。ただ、もう話したくない。』


理恵はそのメモを今でも財布に挟んでいる。

折れ曲がった紙に、涙の跡が薄く残ったまま。


双子は、智恵が陸上部を辞めた日をはっきり覚えている。

智恵が無言でスパイクをゴミ箱に放り込もうとした。

二人が駆け寄ると、智恵は振り向かず小さく首を振っただけ。

冴恵は、智恵の虚ろな目を見たとき、大好きな姉が、遠い人になったみたいで、怖かった。

そして弥恵が泣きながらスパイクを抱きしめると、

智恵は顔を背けて「……邪魔だから、持って帰って」と逃げた。

弥恵は、その背中が小さく見えて、姉がいなくなってしまうようで、怖くなった。


そのスパイクは、今でも双子の部屋の奥にしまってある。


その冬、渋る智恵を無理やり引っ張り出し、四姉妹だけでゲームセンターに行った。

智恵はまだ仮面を被り始めたばかりで、口数は少なかったけど、姉妹の前だけは少しだけ柔らかかった。

クレーンゲームで冴恵と弥恵がお願いすると、智恵は無表情でぬいぐるみを一発で取ってくれた。

無表情で双子にぬいぐるみを渡す手が、少し震えていたのを理恵は見逃さなかった。

智恵の心はまだつながってる。でも、その手の震えが智恵の心の叫びに思えて、胸が痛くなった。


帰り道、雪がちらつく中、冴恵と弥恵が「雪だー!」とはしゃいでると、

智恵がぽつりと「……寒いな」と呟いた。

それが、仮面の下で最後に聞かせてくれた普通の声だった。


その翌週から、智恵は完全に笑わなくなった。


だから姉妹は知っている。

ファミレスで零れたあの笑顔が、

どれだけ脆い、

どれだけ大切な奇跡だったかを。


あの「寒いな」を、

もう一度聞きたいと、

ずっと願っていた。



◆父親との、沈黙の傷


高宮達也は、4人の娘たちに「愛してる」と言ったことがない。

でも、姉妹はそれが父親なりの愛情だと知っている。


喧嘩の翌朝、達也は玄関で壁にもたれ、肩を震わせていた。

「……俺は、智恵の才能を一番活かせると思って……ただ智恵に幸せになってほしかっただけなのに」


理恵は階段の陰からそれを見ていた。

父親の泣き顔なんて、初めてだった。


それ以来、達也は智恵の名前を口にしなくなった。

でも、冷蔵庫に貼った智恵の時間割を、毎朝指でなぞっていた。


冴恵の受験前夜、達也は智恵の中学時代の金メダルを渡した。

「……智恵も、昔は泣き虫だった。でも走り続けた。お前も走れる」

耳が真っ赤だった。


弥恵は知っている。

智恵が一人暮らしを始めてから、達也は毎晩智恵の部屋に入り、

教科書を指でなぞって「……すまなかったな」と呟いているのを。

そして、高校時代の笑顔の写真を胸に当て、誰にも見せない涙を零しているのを。


父親の不器用な愛情……

姉妹は、それを知っている。


だから智恵が笑ったのを見たとき、三人は思った。


「お父さんにも、いつか見せてあげたい」


あの笑顔を。


きっと、あの人は今も、

一人で泣いているから。



◆母親との、静かな涙


千鶴はいつも優しすぎて、存在感が薄かった。

でも、一番深く傷ついていたのも彼女だった。


喧嘩の夜、千鶴は台所で手を止め、

「……どっちも悪くないのに」と呟いた。

指がスポンジを握りしめ、真っ白になっていた。


智恵が一人暮らしを始める日、千鶴は荷物が積み終わる瞬間、智恵に抱きついた。

「……ごめんね、お母さんがお父さんをもっと強く止めてれば……」


智恵に振りほどかれ、千鶴は床に崩れ落ちた。


その後、三日間台所に立たなかった。

冷蔵庫に智恵の好きだったカレーの具が残されたまま。


毎週土曜日、千鶴は智恵の好きなケーキを買って冷蔵庫にしまう。

誰も食べない。

期限が切れるまで置いておく。

「いつか智恵が帰ってきたら……」


姉妹はそれを知っている。


だから、

智恵が笑ったのを見たとき、

三人は思った。


「お母さんにも、早く見せてあげたい」


あの笑顔を。


きっと、あの人は今も、

冷蔵庫のケーキをそっと見つめているから。



◆そして、今──


智恵は、まだ知らない。

家族がどれだけあの夏の傷を抱え、

どれだけ智恵の笑顔を待っていたかを。


でも、ファミレスで零れたあの小さな笑顔は、

少しずつ、

壊れた絆を繋ぎ始める。

高校の智恵が、まだ生きているように。


家族は、待っている。

あの夏の終わりに、

やっと訪れる春を。

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